では、①②③について、作品の鑑賞、事実の検証の両面から探ってみよう。
①について、作品上は、3月27日の旅立ちに疑問をさしはさむのはおかしい。
なぜなら、『おくの細道』は、創作作品なのだから。
事実はどうか。
芭蕉は、3月23日、弟子の落梧宛の書簡をしたため、26日に奥羽行脚に出発すること、2月末に草庵を譲渡してしまったことを伝えている。
曾良の『旅日記』によれば、出立は、
「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下刻、千住ニ揚ル。一 廿七日夜、カスカベに泊ル。江戸ヨリ九里余」
とある。
この部分、一般的には、曾良の誤記ということになっているが、変人は誤記とは考えていない。
曾良は廿日から千住に入り、黒羽藩主の大関屋敷に挨拶し、準備万端ととのえ、現在の“スサノオ神社”で御籠りをし、芭蕉を待ったのだ。
当時の藩主・大関増恒は三歳で、芭蕉など知る由もない。けれども、黒羽館代の浄坊寺高勝(俳号は桃雪)、その弟・翠桃は、一時、大関屋敷の近くに住んでおり、そのとき、芭蕉に弟子入りしたものと思われる。
また曾良自身も、翠桃と顔見知りの間柄であったことは知られている。
さらに曾良は、芭蕉に入門する前、吉田神道を深く学んでおり、いわば、“免許皆伝”の腕前?であった。そして何より、当時の奥州行脚は、“命がけ”の旅でもあったのだ。
これらを総合して考えると、上記のことが推し量れるのである。
一方、芭蕉は、27日、深川の杉風の別荘を出て舟に乗り、曾良の待つ千住の南詰め(荒川区側)に上がり、曾良の案内で大関屋敷へ。ここで挨拶かたがた諸手配を頼み、スサノオ神社で道中安全の祈願をし、石好きの芭蕉は、瑞光石を見ているはずだ。(①、②)
そして、千住大橋のたもとで待つ門人・知人と別れの挨拶を交わし、千住大橋を渡って、いよいよ奥州行脚に旅立ったのである。
スサノオ神社の拝殿の右側に、芭蕉の『おくの細道』への旅立ちを記念して、文政3年(1820)、芭蕉忌にあたる10月12日に建立された“矢立初めの句碑”がある。(現在のものは復刻。本物は傷みがひどいので、別に保存)
書は亀田鵬斎、画は建部巣兆の筆によるもの。当時、千住宿周辺に、多くの文化人たちが活躍・交流していたことが、よく分かる碑である。
この「行春や鳥啼魚の目は泪」を刻した、“矢立初めの句碑”の建立者は、現在の足立区に住んでいた文化人という。
足立区にもたくさんの寺社があるのに、なぜ対岸のスサノオ神社に建立したのであろうか。必ず理由があるはずである。
碑が建立されたのは、『おくの細道』出版後、120年余りのことである。
おそらく当時の文化人の間には、この矢立初めの句は、スサノオ神社で詠まれたものという、伝承か何かがあったに違いない。少なくとも、スサノオ神社で詠まれたものと、読み解いていたに違いない。(③)
ただ、「行春や」の句が、『おくの細道』完成間際に差し替えられたもので、実際に千住で詠まれたものではないという事実は、知らなかったと思われる。(③)
「古人も多く旅に死せるあり」「上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに、離別のなみだをそそぐ」「もし生きて帰らば」などとあるように、芭蕉の奥州行脚は、まさに“死出の旅”でもあった。
したがって、芭蕉にとって、隅田川は“三途の川”であり、千住大橋は此岸と彼岸を結ぶ“三途の川の渡し”でもあったのだ。
だから、作品の上でも、事実の上でも、千住大橋は絶対に渡らねばならなかったのである。どんなに後ろ髪を引かれても、三途の川を渡るときには、後ろを振り返ってはならない。
「人々は途中にならびて、後かげの見ゆるまではと、見送るなるべし」
蟻穴を出づるや前途三千里 季 己
①について、作品上は、3月27日の旅立ちに疑問をさしはさむのはおかしい。
なぜなら、『おくの細道』は、創作作品なのだから。
事実はどうか。
芭蕉は、3月23日、弟子の落梧宛の書簡をしたため、26日に奥羽行脚に出発すること、2月末に草庵を譲渡してしまったことを伝えている。
曾良の『旅日記』によれば、出立は、
「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下刻、千住ニ揚ル。一 廿七日夜、カスカベに泊ル。江戸ヨリ九里余」
とある。
この部分、一般的には、曾良の誤記ということになっているが、変人は誤記とは考えていない。
曾良は廿日から千住に入り、黒羽藩主の大関屋敷に挨拶し、準備万端ととのえ、現在の“スサノオ神社”で御籠りをし、芭蕉を待ったのだ。
当時の藩主・大関増恒は三歳で、芭蕉など知る由もない。けれども、黒羽館代の浄坊寺高勝(俳号は桃雪)、その弟・翠桃は、一時、大関屋敷の近くに住んでおり、そのとき、芭蕉に弟子入りしたものと思われる。
また曾良自身も、翠桃と顔見知りの間柄であったことは知られている。
さらに曾良は、芭蕉に入門する前、吉田神道を深く学んでおり、いわば、“免許皆伝”の腕前?であった。そして何より、当時の奥州行脚は、“命がけ”の旅でもあったのだ。
これらを総合して考えると、上記のことが推し量れるのである。
一方、芭蕉は、27日、深川の杉風の別荘を出て舟に乗り、曾良の待つ千住の南詰め(荒川区側)に上がり、曾良の案内で大関屋敷へ。ここで挨拶かたがた諸手配を頼み、スサノオ神社で道中安全の祈願をし、石好きの芭蕉は、瑞光石を見ているはずだ。(①、②)
そして、千住大橋のたもとで待つ門人・知人と別れの挨拶を交わし、千住大橋を渡って、いよいよ奥州行脚に旅立ったのである。
スサノオ神社の拝殿の右側に、芭蕉の『おくの細道』への旅立ちを記念して、文政3年(1820)、芭蕉忌にあたる10月12日に建立された“矢立初めの句碑”がある。(現在のものは復刻。本物は傷みがひどいので、別に保存)
書は亀田鵬斎、画は建部巣兆の筆によるもの。当時、千住宿周辺に、多くの文化人たちが活躍・交流していたことが、よく分かる碑である。
この「行春や鳥啼魚の目は泪」を刻した、“矢立初めの句碑”の建立者は、現在の足立区に住んでいた文化人という。
足立区にもたくさんの寺社があるのに、なぜ対岸のスサノオ神社に建立したのであろうか。必ず理由があるはずである。
碑が建立されたのは、『おくの細道』出版後、120年余りのことである。
おそらく当時の文化人の間には、この矢立初めの句は、スサノオ神社で詠まれたものという、伝承か何かがあったに違いない。少なくとも、スサノオ神社で詠まれたものと、読み解いていたに違いない。(③)
ただ、「行春や」の句が、『おくの細道』完成間際に差し替えられたもので、実際に千住で詠まれたものではないという事実は、知らなかったと思われる。(③)
「古人も多く旅に死せるあり」「上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに、離別のなみだをそそぐ」「もし生きて帰らば」などとあるように、芭蕉の奥州行脚は、まさに“死出の旅”でもあった。
したがって、芭蕉にとって、隅田川は“三途の川”であり、千住大橋は此岸と彼岸を結ぶ“三途の川の渡し”でもあったのだ。
だから、作品の上でも、事実の上でも、千住大橋は絶対に渡らねばならなかったのである。どんなに後ろ髪を引かれても、三途の川を渡るときには、後ろを振り返ってはならない。
「人々は途中にならびて、後かげの見ゆるまではと、見送るなるべし」
蟻穴を出づるや前途三千里 季 己