壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

エミリー展

2008年05月28日 23時36分30秒 | Weblog
 絵とは何か、描くとは何か、考えさせられる貴重な空間であった。
 
 オーストラリア先住民のすぐれた美術を紹介する『エミリー・ウングワレー展』が、東京・六本木の国立新美術館できょう28日から始まった。

 エミリーは、オーストラリア中央の砂漠地帯で、アボリジニの伝統的な生活を送りながら、儀礼のためのボディ・ペインティングや砂絵を描いていた。
 1977年からバティック(ろうけつ染め)の制作をはじめ、88年からカンヴァス画を描きはじめる。その後、亡くなるまでのわずか8年の間に3000点以上の作品を残した。
 エミリーの作品は、アボリジニの世界観を背景に、美しく自由で革新的である。西洋美術の歴史とはまったく無縁な環境にありながら、その作品は、抽象表現主義にも通じる極めてモダンなものとして、世界的に高い評価を得ている。
 昨年5月、シドニーのオークションで、オーストラリアの女性美術家としては初めて1億円を超える金額で作品が落札され、話題になった。

 今回の展示は、構成が非常に親切で、エミリーの作品の変化がよく理解できる。
 エミリーの原点ともいうべき“バティック”⇒“点描”⇒“色彩主義”⇒“身体に描かれた線”⇒“ヤムイモ”“神聖な草”⇒“ラスト・シリーズ”という構成になっている。
 また、おまけ?のコーナーの“ユートピア”が、エミリーの作品の背景を知る上で、非常に役立つ。

 初期のエミリーの作品を支配していたのは、バティックの特徴である点描と、簡潔な線による構成であった。しかし作風は、点描に覆われた大画面へと変化する。
 点は、線による構成から解放されて自由に浮遊し、大画面を埋め尽くし、網目状の線を覆い隠す。この線は、はっきりと見える作品もあるが、たいていは点描の下に埋もれて、ぼんやりとしか見えない。
 エミリーの点描は、繊細なものから大胆なもの、抑制の効いたものから爆発したものまで多様である。またそれは、一つの点であったり、二重、三重の点であったりする。
 大きな点描がつながってつくる動きのある線は、踊りのリズムや成長のダイナミズム、さらには風に運ばれた種が、大地に飛散する際の自然の生命力を喚起する。
 無限に広がり、次々に変化する色彩はまた、移り変わる季節や夜空を感じさせる。

 エミリーは、オーストラリア中央部、アルハルクという先住民族の住む集落に生れた。エミリーは、そのアルハルクという土地の長い歴史に育まれながら、芸術家として表現するためのすべてを、そこで身につけたと思われる。
 エミリー自身の言葉としてよく引用される、「すべてのもの、そう、すべてのもの、私のドリーミング、細長のヤムイモ、トゲトカゲ、草の種、ディンゴ、エミュー、エミューが好んで食べる草、緑豆、ヤムイモの種、これが私の描くもの、すべてのもの」は、ドリーミングという言葉以外は、みな食料となっていたさまざまな植物と、身近な小動物である。
 ドリーミングとは、アボリジニの宇宙観や創世、祖先、宗教的および社会的な行為に関する掟、彼らの生活を支える霊的な力、それらに関連する物語を包括的に指す、と図録の用語解説にある。

 エミリーは、目の前のものをそのまま写すことはしない。目の前のものを色彩として認識し、自らの中にあふれるドリーミングを放出しているのだ。
 エミリーの作品には、大地への畏敬と自然の恵みへの感謝で満ち溢れている。
 エミリーの作品を前に、つくづく感じるのは、「絵は色彩の調和」であり、絵を描くということは、「自然への感謝と祈り」である、ということだ。

 エミリーは最晩年、点や線といった要素が完全に消去し、筆触の残った面の集積のような作品を残している。
 エミリー最後の作品とされる《無題(アルハルクラ)》は、白に近いベージュの色彩が、地の部分をほとんど残すことなく重ね塗りされている。ひと筆ごとに微妙な混色の色調の変化を見せており、そのことが画面にやわらかな動きをはらんだ大気の感触をもたらしているようでもある。
 昇華されたドリーミングとも、涅槃の境地ともいえるような、不思議な空間を印象づける作品である。
 エミリーの魂は、すでに彼岸の世界を遊んでいるのだ。その彼岸の世界を表現したのが、白い最後の作品なのだ。

 テレビ東京系、毎週土曜夜10時から、『美の巨人たち』が放映されている。
 6月7日に、このエミリー・ウングワレー《無題(アルハルクラ)》が、取り上げられる。
 エミリーは何故この作品を描いたのか?
 その描写と画家の生き方との関わりとは?
 作品や作家の生き方に大きく影響した時代背景とは?
 それらを一つひとつ解明してゆく番組になるのではないかと思う。
 また、実物の作品をじっくり鑑賞されたい方は、この放映前に行かれるのが賢明。放映後は、一時ではあるが、混雑すると思われるので。


      声あげて伯耆大山 梅雨に入る     季 己