――和歌には、“いりほが”といって趣向を深くしようとしたあまり、
かえって表現に無理があり、独りよがりの句になるのを嫌ってい
ます。連歌ではどうでしょうか。
――こうした“いりほが”の句は、いつもあることである。
心(意味内容)の“いりほが”、姿(風姿)の“いりほが”の二つ
があるという。
木を切るや霜のつるぎのさ山風
(木をなぎ倒す、霜のように鋭い剣にも似たそんな山風よ)
こうした句は、巧みな手練(てだれ)の作者の句である。しかし、
初めの五文字は、ちょっと穿(うが)ちすぎである。「さえにけり」
などと直してみたところで、少々、間延びした感じがする。剣で木を
切るという発想もよくないようだ。
夏草や春の面影あきの花
(みごとに茂った夏草。その茂りには春の面影が残り、
秋の花の美しさの兆しも見える)
この句は、姿の“いりほが”である。いささか穿ちすぎのように
見える。だから、『論語』にも、「過ぎたるは及ばざるがごとし」と
いっている。 (『ささめごと』 いりほが)
――表現の仕方や、趣向の立て方が、あまりにもその人にだけしか分からないほど、手のこんだ境地に入りすぎていることを、“いりほが”といいます。
心敬は、“いりほが”を是認しているわけではありません。
公正に見て、あまりにも手がこみすぎ、一句の詩趣を損なっているような句は、やはり“病”と認めています。
ただ、手がこみすぎているから駄目というわけではなく、表現が複雑を極めていても、それはそれとして、ある種の情趣を表現することに成功していれば、それは秀逸と認めるべきだ、と考えていたようです。
しかし、「木を切るや霜のつるぎのさ山風」は、「剣にも似た霜を吹きむすんで、、木を通り過ぎてゆく山風よ」という意味に、知的な面白さを持たせて、剣の縁語で「木を切るや」という表現をとったのですが、手がこみすぎて、こしらえ物という感が深いのです。
身を切るような風の冷たさの実感は、かえって「冴えにけり」という単純な表現のうちにあるのです。
「夏草や春の面影あきの花」を、姿の“いりほが”というのは、この句が、内容の面白さをねらっているよりも、春夏秋の三つの季節を一句のうちに詠みこもうとした、表現上の技巧に無理があるのを指しているのだと思います。
東風吹けり親に逆らふ子を求め 季 己
かえって表現に無理があり、独りよがりの句になるのを嫌ってい
ます。連歌ではどうでしょうか。
――こうした“いりほが”の句は、いつもあることである。
心(意味内容)の“いりほが”、姿(風姿)の“いりほが”の二つ
があるという。
木を切るや霜のつるぎのさ山風
(木をなぎ倒す、霜のように鋭い剣にも似たそんな山風よ)
こうした句は、巧みな手練(てだれ)の作者の句である。しかし、
初めの五文字は、ちょっと穿(うが)ちすぎである。「さえにけり」
などと直してみたところで、少々、間延びした感じがする。剣で木を
切るという発想もよくないようだ。
夏草や春の面影あきの花
(みごとに茂った夏草。その茂りには春の面影が残り、
秋の花の美しさの兆しも見える)
この句は、姿の“いりほが”である。いささか穿ちすぎのように
見える。だから、『論語』にも、「過ぎたるは及ばざるがごとし」と
いっている。 (『ささめごと』 いりほが)
――表現の仕方や、趣向の立て方が、あまりにもその人にだけしか分からないほど、手のこんだ境地に入りすぎていることを、“いりほが”といいます。
心敬は、“いりほが”を是認しているわけではありません。
公正に見て、あまりにも手がこみすぎ、一句の詩趣を損なっているような句は、やはり“病”と認めています。
ただ、手がこみすぎているから駄目というわけではなく、表現が複雑を極めていても、それはそれとして、ある種の情趣を表現することに成功していれば、それは秀逸と認めるべきだ、と考えていたようです。
しかし、「木を切るや霜のつるぎのさ山風」は、「剣にも似た霜を吹きむすんで、、木を通り過ぎてゆく山風よ」という意味に、知的な面白さを持たせて、剣の縁語で「木を切るや」という表現をとったのですが、手がこみすぎて、こしらえ物という感が深いのです。
身を切るような風の冷たさの実感は、かえって「冴えにけり」という単純な表現のうちにあるのです。
「夏草や春の面影あきの花」を、姿の“いりほが”というのは、この句が、内容の面白さをねらっているよりも、春夏秋の三つの季節を一句のうちに詠みこもうとした、表現上の技巧に無理があるのを指しているのだと思います。
東風吹けり親に逆らふ子を求め 季 己