壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (62)前句と付句

2011年04月06日 20時29分28秒 | Weblog
        ――中頃(十四世紀末)以降の作者は、一句だけで意味が完結して優
         美なものを、秀逸だとばかり決めて、前句への寄りざまの良し悪しをま
         ったく忘れているのではないかと思うのですが、如何でしょうか。

        ――立派な歌仙に尋ねたことがある。
          和歌は、歌題をひねって発想に技巧をこらして詠めば、それほど深
         く心を求めず、風情を飾ろうともせず、ごく軽い気持で詠んだ歌でも、
         殊勝な意味や秀逸になるものである。
          連歌は、前句の取扱いいかんによって、形式的な常套句でも素晴ら
         しいものになるものである。この覚悟心構えが、一番の眼目である。

          たとえば、
             西に阿弥陀仏あり
          という句に、
             南無観世音
          と付けると、常套句が一変して、玄妙の句になるようなものである。
         これは、西方の阿弥陀仏に対して、南無観世音は、西と南、阿弥陀と
         観世音の対照的な寄合になるからである。

          和歌も題をめぐらして詠むのが、一つの詠み口になっている。これは
         堪能だけができる仕業であると言われる。

                南殿(なでん)の落花を見て
             殿守のとものみやつこ心あらば
               この春ばかり朝清めすな     源公忠卿

             (殿守の守衛よ、風雅の心を持っているなら、このみごとな
              落花を掃き清めないで、このままにしておいておくれ)

                大井川近くで、「紅葉が水に浮かぶ」という題で
             筏士よまて言問はむ水かみは
               いかばかり吹く山のあらしぞ   藤原資宗

             (筏士よ、ちょっと尋ねたいのだが、この上流はどんなに嵐
              がふいてのことであろうか、水面いっぱいに浮かぶ美しい
              紅葉の葉の描く絵模様のみごとさは)

                また、和泉式部が、娘の小式部に死に遅れたのに、小
               式部は三歳になる娘を残して早世したのを見て泣く泣く
             残しおきていづれ哀れと思ふらん
               子はまさりけり子はまさるらむ  和泉式部

             (自分と子を浮世に残して先立った小式部は、はたして誰を
              不憫と思うだろうか。自分は娘である小式部を喪ったこと
              が悲しい、娘を残し逝く小式部の悲しみもまた……)

           まことに、母親に死に遅れるよりは、娘小式部との死別が悲しい
          から、小式部にとっても、母親の和泉式部よりは、残し置く嬰児
          (みどりご)のことを悲しんだことであろう。このように、哀れ深く
          やさしい心情、母性愛のあり方を自覚している作者は、非常に稀
          (まれ)であろう。  (『ささめごと』前句と付句)


      北国のさくら明日の思案かな     季 己