壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (71)感覚を捨てる

2011年04月20日 21時12分37秒 | Weblog
 俳句は、慎ましやかな性格の文芸です。表面をきらびやかに飾ったり、差し出がましく自分を前に押し出したりすることなどを嫌います。
 表現においても、美辞麗句に惑わされてはいけません。大言壮語を好まないのも、俳句は慎ましやかな文芸だからなのです。

        A 風止んできさらぎの空うるみけり
        B 風止んできさらぎの空ありにけり

 AとB、あなたは、どちらの句がすぐれていると思いますか。
 おそらくAの句を選んだ方が、多いのではないでしょうか。
 Aは、某氏の原句、Bは、恩師の岸田稚魚先生の添削句です。これについて、稚魚先生は、次のように述べておられます。

     大変単純化していて、句の姿はいいのですが、下五の感覚的把握が、却って
    句を甘くしてしまいました。一般的には或いは原句の方に軍配を挙げるかも知
    れませんが、折角、ここまで省略出来たのですから、思い切ってその感覚も切
    り捨ててみることです。かつて波郷は「俳句は感覚にあらず」と言われました。
    感覚が表面に出ると句は弱くなるからです。この俳句のプロパーが身を以て分
    かったとき、あなたは作家になれるのです。 (岸田稚魚『俳句上達の近道』)

 美辞麗句の粉飾が、句品を高くするのではありません。作者の高く美しい心持ちの、おのずからなる現れが、句品を高くするのです。
 ものを観る眼、興味の持ち方、どう言い回すか、どういう言葉を選び、どう斡旋するか等々に、おのずから作者の上品な心ばえが現れて、品格高い作品が生まれるのです。
 品は、考えて作れるものなのではなく、内なるものが、おのずから外に現れるものなのです。



      鳴く亀の手も足も出ぬ人の恩     季 己