壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (74)無心所著①

2011年04月27日 19時57分29秒 | Weblog
        ――和歌には、無心所著(むしんしょじゃく)という歌体が
          『万葉集』以来、連綿としてありますが、連歌では道な
          のでしょうか。

        ――この無心所著という歌体は、多くあると聞いておる。
          だいたい、和歌の世界において分類したいろいろな歌体
          は、連歌の世界においても、一つとして違うものはない。

             月やどる水のおもだか鳥屋もなし
              (月影を映すその水に生えるおもだか、鷹を飼う
               鳥小屋とてもない)

             花やさく雨なき山にかけまくも
              (恐れ多くも、花が咲いていることだ、雨の降ら
               ないあの山に)

          このような句などが、無心所著の随一であろうといわれて
          いる。 (『ささめごと』無心所著)



 ――『万葉集』巻十六に、「無心所著歌二首」として、次のような歌が載っています。

             わぎもこが額に生ふる双六の
               ことひの牛の鞍の上の瘡
              (女房の額に生えた双六盤の
                大きな牡牛の鞍の上の瘡)

             わがせこがたふさぎにするつぶれ石の
               吉野の山に氷魚ぞさがれる
              (亭主がふんどしにする丸石の
                吉野の山に氷魚が懸かっている)

 この二首は、相互に無関係の語をくっつけて詠み込み、わざと意味が分からないように作ったようです。
 つまり、一句一句には意味がありながら、全体として意味をなさない歌を、無心所著というのだと思います。

 無心所著は、和歌よりはむしろ連歌の方に多く、無心所著の成立事情やその複雑さも、和歌とは異なっていたものと思われます。
 連歌においては、前句との付合に寄合を主とすれば、言葉の縁の上では相互に関係があっても、前句との情趣と付句の情趣とは無関係の場合が起こります。
 また、付句を構成している各々の言葉も、前句のある言葉と縁があるだけで、一句のうちで何の連関もなく、したがって、意味の通じない場合も起こりえたのです。

 発句にしても、当時の流行として、さまざまな景物を一句のうちに多く取り込もうとして、由緒ある言葉や典雅な言い回しを、雑然と寄せ集めるだけで、一句として意味の通じない句も多かったはずです。
 例にあげてある二句は、そういう種類の発句なのです。
 「月やどる水のおもだか鳥屋もなし」は、〈月やどる〉と〈水〉、〈おもだか(沢瀉)のたか(鷹)〉と〈鳥屋〉という風に、各句が言葉の縁ではつながっているように見えて、その実、全体としては意味をなしていません。


      東京に径のぬかるみつくづくし     季 己