――和歌には、無心所著(むしんしょじゃく)という歌体が
『万葉集』以来、連綿としてありますが、連歌では道な
のでしょうか。
――この無心所著という歌体は、多くあると聞いておる。
だいたい、和歌の世界において分類したいろいろな歌体
は、連歌の世界においても、一つとして違うものはない。
月やどる水のおもだか鳥屋もなし
(月影を映すその水に生えるおもだか、鷹を飼う
鳥小屋とてもない)
花やさく雨なき山にかけまくも
(恐れ多くも、花が咲いていることだ、雨の降ら
ないあの山に)
このような句などが、無心所著の随一であろうといわれて
いる。 (『ささめごと』無心所著)
――『万葉集』巻十六に、「無心所著歌二首」として、次のような歌が載っています。
わぎもこが額に生ふる双六の
ことひの牛の鞍の上の瘡
(女房の額に生えた双六盤の
大きな牡牛の鞍の上の瘡)
わがせこがたふさぎにするつぶれ石の
吉野の山に氷魚ぞさがれる
(亭主がふんどしにする丸石の
吉野の山に氷魚が懸かっている)
この二首は、相互に無関係の語をくっつけて詠み込み、わざと意味が分からないように作ったようです。
つまり、一句一句には意味がありながら、全体として意味をなさない歌を、無心所著というのだと思います。
無心所著は、和歌よりはむしろ連歌の方に多く、無心所著の成立事情やその複雑さも、和歌とは異なっていたものと思われます。
連歌においては、前句との付合に寄合を主とすれば、言葉の縁の上では相互に関係があっても、前句との情趣と付句の情趣とは無関係の場合が起こります。
また、付句を構成している各々の言葉も、前句のある言葉と縁があるだけで、一句のうちで何の連関もなく、したがって、意味の通じない場合も起こりえたのです。
発句にしても、当時の流行として、さまざまな景物を一句のうちに多く取り込もうとして、由緒ある言葉や典雅な言い回しを、雑然と寄せ集めるだけで、一句として意味の通じない句も多かったはずです。
例にあげてある二句は、そういう種類の発句なのです。
「月やどる水のおもだか鳥屋もなし」は、〈月やどる〉と〈水〉、〈おもだか(沢瀉)のたか(鷹)〉と〈鳥屋〉という風に、各句が言葉の縁ではつながっているように見えて、その実、全体としては意味をなしていません。
東京に径のぬかるみつくづくし 季 己
『万葉集』以来、連綿としてありますが、連歌では道な
のでしょうか。
――この無心所著という歌体は、多くあると聞いておる。
だいたい、和歌の世界において分類したいろいろな歌体
は、連歌の世界においても、一つとして違うものはない。
月やどる水のおもだか鳥屋もなし
(月影を映すその水に生えるおもだか、鷹を飼う
鳥小屋とてもない)
花やさく雨なき山にかけまくも
(恐れ多くも、花が咲いていることだ、雨の降ら
ないあの山に)
このような句などが、無心所著の随一であろうといわれて
いる。 (『ささめごと』無心所著)
――『万葉集』巻十六に、「無心所著歌二首」として、次のような歌が載っています。
わぎもこが額に生ふる双六の
ことひの牛の鞍の上の瘡
(女房の額に生えた双六盤の
大きな牡牛の鞍の上の瘡)
わがせこがたふさぎにするつぶれ石の
吉野の山に氷魚ぞさがれる
(亭主がふんどしにする丸石の
吉野の山に氷魚が懸かっている)
この二首は、相互に無関係の語をくっつけて詠み込み、わざと意味が分からないように作ったようです。
つまり、一句一句には意味がありながら、全体として意味をなさない歌を、無心所著というのだと思います。
無心所著は、和歌よりはむしろ連歌の方に多く、無心所著の成立事情やその複雑さも、和歌とは異なっていたものと思われます。
連歌においては、前句との付合に寄合を主とすれば、言葉の縁の上では相互に関係があっても、前句との情趣と付句の情趣とは無関係の場合が起こります。
また、付句を構成している各々の言葉も、前句のある言葉と縁があるだけで、一句のうちで何の連関もなく、したがって、意味の通じない場合も起こりえたのです。
発句にしても、当時の流行として、さまざまな景物を一句のうちに多く取り込もうとして、由緒ある言葉や典雅な言い回しを、雑然と寄せ集めるだけで、一句として意味の通じない句も多かったはずです。
例にあげてある二句は、そういう種類の発句なのです。
「月やどる水のおもだか鳥屋もなし」は、〈月やどる〉と〈水〉、〈おもだか(沢瀉)のたか(鷹)〉と〈鳥屋〉という風に、各句が言葉の縁ではつながっているように見えて、その実、全体としては意味をなしていません。
東京に径のぬかるみつくづくし 季 己