俳句における凡俗な句は、拙句をはじめ、そこここにころがっております。ここでは反対に“ほんまもん”の俳句について考えてみましょう。
水中に魚の目無数寒ゆるぶ 岸田稚魚
「水中に魚の目無数」と「寒ゆるぶ」との二物配合の句です。どちらも稚魚先生の実感で、なんの私意もありません。だから、読者は感動するのです。
この句に対して、青畝先生より、次のような私信があったそうです。
「見えざるものが見えてきます。写生は生命を写すもの、万物にある生命として
息づいている水中に感動しているところです」
もう一つ見てみましょう。
風花や運動場に朝礼台 丸亀教子
これは、『俳句朝日読者俳句』(平成八年五月号)の特選句で、選者は川崎展宏氏。氏はこの句に対し、次のように評しておられます。
「現在の学校ではなく、作者の心にある学校だろうか。教師も生徒も、句には
一人も出て来ない。それが句の空間を広くしている。一句を読み終えて、改
めて風花がきらきらと見え、切ない」
さらに氏は総評として、
「俳句も詩歌の一つだから心に訴えて来なければならない。しかし、俳句はくど
くど述べて訴えるものではない。物を通して読み手が感得するといった形式
の詩なのである。
特選の句は、『風花』『運動場』『朝礼台』と二つの助詞だけからなり、一見、
ぶっきらぼうな句だ。だが、そこから見えてくるのは、詠みなれ、使いなれた
のではない、切ないまでにきらきらした『風花』なのである。
『朝礼台』が効いている。ぽつんとある感じだ。さらに朝礼台の『朝』が風花
にひびいている。朝礼台という、やや古々しい言葉が、この場合、実に効果
的なのだ。
実際は嘱目の句かもしれないが『心にある学校か』と読み手の想像力を刺
激するのである」
さすが展宏氏。おそらく他の選者なら「佳作」にも採らない、いや採れないでしょう。なにしろ、三つの名詞と二つの助詞しかない素っ気ない句なのですから。
けれども、この句を一気に読み下してみてください。調べに破綻がありません。作者の季語に対する感動がいい加減なものであると、必ずどこかに隙が生じて、腰が折れているものです。
この句は、何回口ずさんでみても、その隙を感じさせません。作者の心が十分にこもっていないと、なかなかこれだけの句にはなりません。
季語(風花)に対する作者の思いが深いから、そのままさらさらと詠んで句になるのです。心が浅いと、かえって、いろいろ表現を無理にこね上げ、味のないものにしてしまうのです。
この句は、「淡々と物を描いて、あとは読者の想像に任せるのが賢明」という、よい見本だと思います。
桜東風 重軽石に祈るひと 季 己
水中に魚の目無数寒ゆるぶ 岸田稚魚
「水中に魚の目無数」と「寒ゆるぶ」との二物配合の句です。どちらも稚魚先生の実感で、なんの私意もありません。だから、読者は感動するのです。
この句に対して、青畝先生より、次のような私信があったそうです。
「見えざるものが見えてきます。写生は生命を写すもの、万物にある生命として
息づいている水中に感動しているところです」
もう一つ見てみましょう。
風花や運動場に朝礼台 丸亀教子
これは、『俳句朝日読者俳句』(平成八年五月号)の特選句で、選者は川崎展宏氏。氏はこの句に対し、次のように評しておられます。
「現在の学校ではなく、作者の心にある学校だろうか。教師も生徒も、句には
一人も出て来ない。それが句の空間を広くしている。一句を読み終えて、改
めて風花がきらきらと見え、切ない」
さらに氏は総評として、
「俳句も詩歌の一つだから心に訴えて来なければならない。しかし、俳句はくど
くど述べて訴えるものではない。物を通して読み手が感得するといった形式
の詩なのである。
特選の句は、『風花』『運動場』『朝礼台』と二つの助詞だけからなり、一見、
ぶっきらぼうな句だ。だが、そこから見えてくるのは、詠みなれ、使いなれた
のではない、切ないまでにきらきらした『風花』なのである。
『朝礼台』が効いている。ぽつんとある感じだ。さらに朝礼台の『朝』が風花
にひびいている。朝礼台という、やや古々しい言葉が、この場合、実に効果
的なのだ。
実際は嘱目の句かもしれないが『心にある学校か』と読み手の想像力を刺
激するのである」
さすが展宏氏。おそらく他の選者なら「佳作」にも採らない、いや採れないでしょう。なにしろ、三つの名詞と二つの助詞しかない素っ気ない句なのですから。
けれども、この句を一気に読み下してみてください。調べに破綻がありません。作者の季語に対する感動がいい加減なものであると、必ずどこかに隙が生じて、腰が折れているものです。
この句は、何回口ずさんでみても、その隙を感じさせません。作者の心が十分にこもっていないと、なかなかこれだけの句にはなりません。
季語(風花)に対する作者の思いが深いから、そのままさらさらと詠んで句になるのです。心が浅いと、かえって、いろいろ表現を無理にこね上げ、味のないものにしてしまうのです。
この句は、「淡々と物を描いて、あとは読者の想像に任せるのが賢明」という、よい見本だと思います。
桜東風 重軽石に祈るひと 季 己