壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (65)深い思い

2011年04月11日 20時59分18秒 | Weblog
 俳句における凡俗な句は、拙句をはじめ、そこここにころがっております。ここでは反対に“ほんまもん”の俳句について考えてみましょう。

        水中に魚の目無数寒ゆるぶ     岸田稚魚

 「水中に魚の目無数」と「寒ゆるぶ」との二物配合の句です。どちらも稚魚先生の実感で、なんの私意もありません。だから、読者は感動するのです。
 この句に対して、青畝先生より、次のような私信があったそうです。

    「見えざるものが見えてきます。写生は生命を写すもの、万物にある生命として
     息づいている水中に感動しているところです」

 もう一つ見てみましょう。

        風花や運動場に朝礼台     丸亀教子

 これは、『俳句朝日読者俳句』(平成八年五月号)の特選句で、選者は川崎展宏氏。氏はこの句に対し、次のように評しておられます。

    「現在の学校ではなく、作者の心にある学校だろうか。教師も生徒も、句には
     一人も出て来ない。それが句の空間を広くしている。一句を読み終えて、改
     めて風花がきらきらと見え、切ない」

 さらに氏は総評として、

    「俳句も詩歌の一つだから心に訴えて来なければならない。しかし、俳句はくど
     くど述べて訴えるものではない。物を通して読み手が感得するといった形式
     の詩なのである。
     特選の句は、『風花』『運動場』『朝礼台』と二つの助詞だけからなり、一見、
     ぶっきらぼうな句だ。だが、そこから見えてくるのは、詠みなれ、使いなれた
     のではない、切ないまでにきらきらした『風花』なのである。
     『朝礼台』が効いている。ぽつんとある感じだ。さらに朝礼台の『朝』が風花
     にひびいている。朝礼台という、やや古々しい言葉が、この場合、実に効果
     的なのだ。
     実際は嘱目の句かもしれないが『心にある学校か』と読み手の想像力を刺
     激するのである」

 さすが展宏氏。おそらく他の選者なら「佳作」にも採らない、いや採れないでしょう。なにしろ、三つの名詞と二つの助詞しかない素っ気ない句なのですから。
 けれども、この句を一気に読み下してみてください。調べに破綻がありません。作者の季語に対する感動がいい加減なものであると、必ずどこかに隙が生じて、腰が折れているものです。
 この句は、何回口ずさんでみても、その隙を感じさせません。作者の心が十分にこもっていないと、なかなかこれだけの句にはなりません。
 季語(風花)に対する作者の思いが深いから、そのままさらさらと詠んで句になるのです。心が浅いと、かえって、いろいろ表現を無理にこね上げ、味のないものにしてしまうのです。
 この句は、「淡々と物を描いて、あとは読者の想像に任せるのが賢明」という、よい見本だと思います。


      桜東風 重軽石に祈るひと     季 己