――歌・連歌の世界で、凡俗の句ということは、どんな風姿の歌
なのでしょうか。
――凡俗、つまり、品格がなく卑しい句には、風姿の凡俗、主題
内容の凡俗の二種がある。風姿の凡俗は理解しやすいが、内容、
趣向の凡俗は、いささかわかりにくい。たとえば、
松植ゑおかむ故郷の庭
(松を植えておきたいものだ、荒れた故郷の庭に)
という句に、
夢さそふ風を月見むたよりにて
(懐旧の夢をさそう松風の音に目覚めて、月を眺める
よすがにしようとして)
この句は、風姿はよい句のようであるが、句の内容・意図は案
外、的外(まとはず)れではなかろうか。いったい誰が、小松を
植えて、その松風の音で目をさまして、月を観賞しようと意図す
るだろうか、いや、誰もしはしない。
春はただいづれの草も若菜かな
(春はただ、どの草もみんな若菜であるように見える)
春の七草などは、二葉三葉、残雪の間からやっと探し出した様
子こそ、心ひかれるように、情趣があって奥ゆかしく望ましいの
に、この句は、どれが若菜か判別もつかず、むしりとった様子は、
なんとも言いようもない。凡俗な姿の句ではないか。
(『ささめごと』凡俗の句)
平凡で俗っぽい句のうちで、姿形の凡俗なのは、誰の眼にもはっきりしています。けれども、心の凡俗はわかりにくいので、例をあげて説明を加えているのです。
前句の「松植ゑおかむ故郷の庭」の句も、付句の「夢さそふ風を月見むたよりにて」の句も、その姿の上では、また、各々の意味だけを問題にすれば、何ら非難すべき点は見出せません。
しかし、付句は、前句との掛かり合いの上からのみ見るべきことは、心敬が力説しているところです。そういう観点から見ていくと、松風の音に夢を覚まして月を見るべく、故郷の庭に松の木を植えておこうという意味になってしまいます。これは巧まれた風情で、人間の真実の気持ではありません。そこに何かことさら風流ぶろうとする作者の私意が見えていて、その点に俗っぽさを感ぜざるを得ないのです。
「春はただいづれの草も若菜かな」は、凡俗な発句の例としてあげたものです。
春の七草などは、二葉三葉、わずかに雪間から探し出して摘みとるところに、人事と自然の交流した若菜の生命があるのです。自然をそうした伝統的な深い美感の認識のもとに把握していない点が、この句の凡俗な所以(ゆえん)だというのです。つまり、雪間から萌え出た草がすべて若菜であっては、興ざめして、かえってくだらない趣向になってしまうから、凡俗だというのです。
ほほゑみのほとけ菜の花明りかな 季 己
なのでしょうか。
――凡俗、つまり、品格がなく卑しい句には、風姿の凡俗、主題
内容の凡俗の二種がある。風姿の凡俗は理解しやすいが、内容、
趣向の凡俗は、いささかわかりにくい。たとえば、
松植ゑおかむ故郷の庭
(松を植えておきたいものだ、荒れた故郷の庭に)
という句に、
夢さそふ風を月見むたよりにて
(懐旧の夢をさそう松風の音に目覚めて、月を眺める
よすがにしようとして)
この句は、風姿はよい句のようであるが、句の内容・意図は案
外、的外(まとはず)れではなかろうか。いったい誰が、小松を
植えて、その松風の音で目をさまして、月を観賞しようと意図す
るだろうか、いや、誰もしはしない。
春はただいづれの草も若菜かな
(春はただ、どの草もみんな若菜であるように見える)
春の七草などは、二葉三葉、残雪の間からやっと探し出した様
子こそ、心ひかれるように、情趣があって奥ゆかしく望ましいの
に、この句は、どれが若菜か判別もつかず、むしりとった様子は、
なんとも言いようもない。凡俗な姿の句ではないか。
(『ささめごと』凡俗の句)
平凡で俗っぽい句のうちで、姿形の凡俗なのは、誰の眼にもはっきりしています。けれども、心の凡俗はわかりにくいので、例をあげて説明を加えているのです。
前句の「松植ゑおかむ故郷の庭」の句も、付句の「夢さそふ風を月見むたよりにて」の句も、その姿の上では、また、各々の意味だけを問題にすれば、何ら非難すべき点は見出せません。
しかし、付句は、前句との掛かり合いの上からのみ見るべきことは、心敬が力説しているところです。そういう観点から見ていくと、松風の音に夢を覚まして月を見るべく、故郷の庭に松の木を植えておこうという意味になってしまいます。これは巧まれた風情で、人間の真実の気持ではありません。そこに何かことさら風流ぶろうとする作者の私意が見えていて、その点に俗っぽさを感ぜざるを得ないのです。
「春はただいづれの草も若菜かな」は、凡俗な発句の例としてあげたものです。
春の七草などは、二葉三葉、わずかに雪間から探し出して摘みとるところに、人事と自然の交流した若菜の生命があるのです。自然をそうした伝統的な深い美感の認識のもとに把握していない点が、この句の凡俗な所以(ゆえん)だというのです。つまり、雪間から萌え出た草がすべて若菜であっては、興ざめして、かえってくだらない趣向になってしまうから、凡俗だというのです。
ほほゑみのほとけ菜の花明りかな 季 己