壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

内裏拝まん

2011年04月04日 20時54分33秒 | Weblog
        女倶して内裏拝まんおぼろ月     蕪 村

 蕪村の文章中に次のようなものがある。これがこの句の発想を語り、背景を語っている。

     もろこし我朝にも秋の月を賞づる名どころはあまた侍るに、などて春月は等閑に
    見すぐし侍りけむ。
     禁域(内裏)の南門のほとりよりあふぎ見れば、如意が嶽のすこし南なる山のい
    ただきより、きさらぎ十日あまりの月ほのかにさし出でて柳おぼろに梅のおぼつか
    なくかをり来るなど、すべてやるかたなき心地せらるるに、何がしのおとど(大臣)
    にやおはすらめ、内よりまみで給ふか前をはらはで(先払いの人も立てず)、やを
    ら行き過ぎ給ふなどことにやんごとなき。
        女倶して内裏拝まん春の月

 「春の月」より「おぼろ月」の方が適当である。「春の月」がさらに「おぼろ」に曇っている方が、一切が、ほの明かりの中に包まれてしまって、身はさながら王朝時代にあるかのような夢見心地に誘われる。「女倶して」ということも、その匂わしさによって、王朝時代の気分に近づくことを、いくらか暗示している。
 蕪村は結局、[春夜即王朝時代、王朝時代即春夜]の幻想感を作り出しているのである。

 季語は「おぼろ月」で春。春の夜は水蒸気を多く含んでいるので、月がもうろうと潤んで見える。この朧(おぼろ)に霞(かす)んだ春の月を「朧(おぼろ)月」という。

    「今宵、京の町は、おだやかな麗(うるわ)しいおぼろ月夜である。気立ての
     やさしい、もの静かな女でも連れて、ひとつ夜の内裏に詣でてこようか」


      パンダより桜は風をよびやすし     季 己