宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

伊藤ちゑとの見合いと拒絶

2017年01月08日 | 常識でこそ見えてくる










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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
  伊藤ちゑとの見合いと拒絶
 次に気になることが、伊藤ちゑと賢治との見合いの時期である。それは、『新校本年譜』には昭和3年6月12日の付記として、その典拠は示しさずに、
 伊藤兄妹は以前(年月日は判明していないが羅須地人協会をはじめてからのことで、あるいはこの年の春ではないかと思われる)賢治を訪ねたことがあり、兄は大島で開校したい農芸学校や土壌などの助言・調査を依頼し、妹の方は賢治との見合いの意味があった。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)、372p>
というような記載となっていて、その見合いの時期について「この年の春ではないかと思われる」という記載が、である。
 そもそも、単にこの記述内容は推定に過ぎないのに、名にし負う『新校本年譜』の上段にこのような記述がなされていれば、その典拠も示してもいないのにも拘わらず、いつの間にかその「推定」が独り歩きし始めて断定にすり替わっていくであろうことは、残念ながら今までの『現 賢治年譜』の検証作業を通じて痛感したのだが、容易に起こり得ることが懸念される。
 そしてその懸念通りで、伊藤七雄・ちゑの兄妹が見合いのために花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が独り歩きし出している。
 ちなみに、まずは賢治伝記の研究家として評価の高い境忠一でさえも、新たな典拠も明示することもせずに、
 賢治が当時東京にいた伊藤七雄、ちゑ兄妹の訪問を受けたのは、昭和三年の春であるから、
〈『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社)、163p〉
と断定している。同様に、
 一九二八(昭和三)年春のことである。伊藤七雄が妹チヱを伴って花巻の賢治を訪ねてきた。  
〈『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)、165p〉
というように、澤村修治氏もやはり同様な断定をしている。あるいは、これまた何を典拠にしているか分からぬが、
 昭和三年五月のある日、賢治は伊豆大島に住む伊藤七雄、チヱ兄妹の訪問を受けた。羅須地人協会の活動を始めてからすでに三年目を迎えていた。
  <『宮沢賢治とベートーヴェン』(多田幸正著、洋々社、
平成20年)、175p>
というものや、孫引きだと誤解されかねない、
 賢治が四回としている恋の、その四つ目の恋は、昭和三(一九二八)年の五月に伊豆大島に住む伊藤七雄と、その妹チエが、賢治のもとに現れたのです。
〈『宮澤賢治 愛のうた』(澤口たまみ著、もりおか文庫、
平成22年)、249p~〉
という「昭和三年五月説」まで見られるようになってきた。いずれにせよ、断定調でこのように書くのであれば、読者にはその訳が判るようにその典拠等を明示してほしいものだ。あるいは、このような典拠も示さない〝( )″書きはせいぜい下段に載せておいてほしい。
 
 さて、私が何故このようなことを主張するのかというと、この見合いの時期は実は「昭和2年の10月」であったことの蓋然性が極めて高いことを知っているからである。それはまず第一に、まだあまり広く世に知られてはいないものなのだが、同時代の「ある年」の10月29日付藤原嘉藤治宛のちゑ書簡中(〈註一〉)において、
 又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
というように、ちゑは嘉藤治に対して書簡をしたためているからである。よって、「私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時」とは、その前に「昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいました」としたためていることに注意すれば、昭和3年より前の「秋」であったことが判るからである。
 しかも第二に、私は平成27年9月20日花巻F館において、賢治研究家B氏から、
 伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であったと宮澤清六が直接私(B氏のこと)に証言した。
ということを教えてもらったからである。
 したがって、この二つの事柄を併せて判断すれば、
 伊藤兄妹が賢治との見合いのために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
という蓋然性が極めて高いことは明らかとなる。おのずから、典拠も示さずに「昭和三年の春」とか、まして「昭和三年五月」と断定することは、常識的にはおかしいと私が言っても許されるだろう

 そしてもう一つ別の大事なことがある。それはまず、お気付きのように、前掲の藤原嘉藤治宛のちゑ書簡中に、
 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが……何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
という懇願、つまり、賢治が伊豆大島にねて来た目的はちゑに会うためではなくて七雄に会うためだったと訂正して欲しいと、ちゑ自身が藤原嘉藤治に頼んでいるということである。つまり、ちゑは賢治と結び付けられることをやんわりと拒否していることが窺える。
 そしてこれだけではなく、これと似たような懇願をちゑは森荘已池に対してもしているとことが明らかにされている。というのは、ちゑと賢治とを結びつけようとする記事を書こうとする著者森荘已池に対してちゑは、
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)、158p>
とか、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
<同、164p>
という哀願や批難を森宛書簡の中に書いているというのである。
 したがってこれらのことから、ちゑは賢治と結びつけられることを頑なに拒絶していたということがもはや否定できない。

 実は、『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によれば、当時、四谷鮫河橋には野口幽香と森島美根が設立した『二葉保育園』が、新宿旭町には徳永恕が活躍した『同分園』がそれぞれあり、同園は寄附金を募ったりしながらそれらを基にしてスラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動、セツルメントをしていたという。ところが大正12年、あの関東大震災によって旭町の『分園』は焼失、鮫河橋の『本園』は火災を免れたものの大破損の被害を蒙ったという(同書38p、121p等より)。
 そのような大変な状況下にあった再建未だしの『二葉保育園』に、大正13年9月から勤務し始めた一人の岩手出身の女性がいた。他ならぬ伊藤ちゑその人である。ちなみに同園の『二葉保育園八十五年史』(社会福祉法人 二葉保育園、昭和60年)によれば、ちゑは少なくとも大正13年9月~大正15年及び昭和3年~4年の間勤めていたことが判る。おそらく、この在職期間の空白は兄七雄の看病の為に伊豆大島に行っていた期間と考えられる。
 そして、萩原昌好氏の『宮沢賢治「修羅」への旅』によれば、同島の新聞『島之新聞』の昭和5年9月26日付記事の中には、
 あはれな老人へ毎月五円づつ恵む若き女性――伊藤千枝子
という見出しの記事があり、島の老女に同情を寄せたチヱさん(当時二三歳)が、
(前略)大正十五年夏転地療養中の現在北の山在住の伊藤七雄氏の看病に来島した同氏の妹本所幼稚園保(ほ)母伊藤千枝子(本年二十三才)は隣のあばら家より毎夜開かるゝ藁打ちの音にいたく心を引かれ訪ねたところ誠に哀れな老婆なるを知り、測隠( (ママ))の心頻りにして滞在中実の母に対するが如く何彼と世話し、七雄氏全快とともに帰京し以後今日まで五六年の間忘るゝことなく毎月必ず五円の小為替を郵送して此の哀れな老婆に盡してゐるが誠に心持よい話である。
という記事が見える。
<『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)、317p~>
という。兄の看病のために同島に滞在していたちゑは、隣家の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職してからもその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたという内容の報道である。
 一方で、昭和3年6月の大島訪問以前の昭和2年10月に花巻で賢治とちゑの「見合い」があった(〈註二〉)とほぼ判断できたわけだが、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』というような直截な表現を用いて深沢紅子等(〈註三〉)に話していたという。このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知らなかったことによる誤解だった。
 なぜなら、このような『二葉保育園』でスラム街の子女のためのセツルメント活動に我が身をなげうち、あるいはまた何の繋がりもない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたという心優しい〈聖女〉の如きちゑからは、当時の賢治がどのように見えたかということを推考してみれば、その一つの可能性が浮かび上がってくるからである。
 すなわち、佐藤竜一氏も主張するように、昭和3年6月の賢治の上京は「逃避行」であったと見ることができるから、そう捉えるとあくまでも理屈の上での話ではあるが、前述した事柄に対する次のような解釈がそれぞれ可能となる。
 例えば、そのような心身の状態にあった賢治と大島で再会したちゑは賢治の「今」(〈註四〉)を見抜いてしまい、自分の価値観とは相容れない人であると受け止めた、と。ちなみに、そのようなちゑの認識の一つの現れが、先に述べたきつい一言であったと考えられる。
 またそれゆえに、先の森宛書簡にの中に、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました(〈註五〉)」とちゑは書き記したと解釈できるし、その後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶したのはちゑの矜恃だったのだ、と解釈できる。
 そして、もしこのような解釈の仕方が実はその真相であったと仮にしても、それは《創られた賢治から愛すべき真実の賢治》により近づくことであり、何ら悲しむべきことではないと私は思う。
 巷間、賢治が結婚したかった〈聖女〉ちゑと云われているようだが、それは事実だったとしても、どうやらちゑの方はそう思っていたとは言えなさそうだ。そしてこのことについては、ちゑからこのようなことを書いている書簡を複数もらっている森荘已池はこのことに気付いていたはずだと常識的には思えるのだが、どうして彼は
賢治と結婚したかった露
賢治が結婚したかったちゑ
という意味のことを活字にしていたのだろうか。私からすればそれはとてもおかしいことだ。

<註一> この書簡は、平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」 における千葉嘉彦氏の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものでもある。
<註二> 高瀬露は遠野時代の同僚に対して、
(賢治先生から)昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)、81p >
と証言しているということだから、ちゑとの見合いは、奇しくもその「下根子桜」訪問を遠慮し出した直後のことになる。
<註三> 現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。
 なおこの『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』については、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念した)。
<註四> 当時の賢治は、かつての賢治とは大分変わってしまっていたということが森荘已池の「昭和六年七月七日の日記」から窺える。例えば、
 どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三円((ママ))の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましよう。」
 と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だつた。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
 …(筆者略)…そして次のようにいつた。
「ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね」
 こんな風にいつてから、またつづけた。
「禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地がひつくりかえると同じことぢやないか。
「何か大きないいことがあるという。((ママ))功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
 そういつてから、しばらくして又いつた。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな僞善に過ぎませんよ。」
 私はそのはげしい言い方に呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしようね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
<『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)、107p~>
というようなことが述べられていて、この後で賢治は森に対して、
 石川善助が何か雜誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送つたそうである。その三四冊の春本や商賣のこと、この性の話などをさして、
「私も隨分かわつたでしよう、変節したでしよう――。」
という。
<『同、109pより>
と語ったというからである。
<註五> 伊藤家側では賢治との結婚に反対だったということは、筆者の私も直接その一人から教わっている。
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