まずは、次の写真がこの本の末尾に付いている宮澤賢治年譜の
《261p分》
である。これは主に昭和8年のものであり、よく知られている内容である。
ところが262pからは、私の知らなかった宮澤賢治年譜昭和8~17年分が続く。そこで、この著書の著作権の保護期間は過ぎていると思うので、以下のページはそのまま文字に起こして報告したい。
***********************賢治没後年譜( . . . 本文を読む
宮澤賢治の主治医でもあった佐藤隆房の著書『宮澤賢治』(冨山房刊)が興味深い。
《1 『宮澤賢治』(冨山房刊)の表紙》
《2 〃 巻末》
である。幾つかの版があるようだが、これは昭和17年9月8日発行版のものである。
再び最初の方に戻ってみる。
《3 前の見返し》
には『日輪と山』の絵が載せてある。
《4 次のページを開くと》
題簽 高村光太郎
とあるから、表紙の題字は佐藤隆 . . . 本文を読む
以前”(18) 堂ヶ沢山”において
なお、地元の人の話では、この花壇を『日時計花壇』と言ってよく遊んだものだと。また、この堂ヶ沢山は”剣山(つるぎやま)”とも云われ、終戦直後は米軍が進駐してきて山の斜面の木を切り払ってスキー場にしたこともあったと。
ということを報告したが、この度次のような絵葉書を手に入れた。
中井汲泉の版画を用いた
【花巻温泉スキー場の絵葉書】
である。そして、
【その裏 . . . 本文を読む
この度、小岩井農場の古い絵葉書を何枚か入手できた。”小岩井農場(その1)”や”〃(その2)”で小岩井農場の昔を偲んでみたが建物以外あまり昔の面影を感じられない。そこで、今回はそれらの絵葉書を紹介して往時を偲んでみたい。
《1 絵葉書の外包み》
1号&2号サイロが描かれているから、少なくとも明治41年以降に発行された絵葉書であろう。なお、発行元は東京の”株式会社光村原色印刷所”である。
中に . . . 本文を読む
では、小岩井農場の技術研究センターの方へ行ってみよう。
舗装道路をしばらく行くと
《1 右手に砂利道があるのでそちらへ進む》(平成21年5月19日撮影)
小岩井農場には木造の建築物が多いし、それも現役で活躍しているようだ。この建物は何の建物なのだろうか。
《2 これは牛舎かな》(平成21年5月19日撮影)
《3 環境品質部》(平成21年5月19日撮影)
《4 酪農部》(平成21年5月1 . . . 本文を読む
小岩井農場の昔を偲んでみたい。
まずは、いまの
《1 小岩井駅》(平成21年5月19日撮影)
である。駅前には
《2 賢治詩碑》(平成21年5月19日撮影)
が建ててあり、その碑文は
汽車からおりたひとたちは
さっきたくさんあったのだが
みんな丘かげの茶褐や
繋あたりへ往くらしい
西にまがって見えなくなった
宮澤賢治 春と修羅より
と刻ま . . . 本文を読む
次の写真は岩手日報社が発行した
《1 『岩手年鑑(1938)』》
(の表紙)である。つまり1938(昭和13年)年に発行した年鑑である。
そして、この年鑑の
《2 262pの『文藝』の欄》
に”△宮澤賢治詩碑”という記載があり、その中身は次のようなものである。
△宮澤賢治詩碑 花巻出身詩人故宮澤賢治氏の詩碑は故人追憶の地花巻町下根子に建設、十一年十一月廿三日除幕式を行った、詩碑は石巻産の水 . . . 本文を読む