澤里一人が見送ったのは昭和2年の11月頃
さてもう少し『宮澤賢治物語』(『岩手日報』連載版)を続けて見てみよう。『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)には記されていないこと(ライム部分)でもこちらには述べられているからである。
例えば〝宮澤賢治物語(49) セロ(一)〟では
その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
セロは私が持って花巻駅まで . . . 本文を読む
もう一つの澤里の証言
なお、澤里の同じような証言が別にもう一つある。それは『宮澤賢治物語』(『岩手日報』新聞連載)所収の「セロ」で、これについては本書の〝プロローグ〟で既に一部触れたが、その紙面の一部を再掲すると以下のようなものである。
【資料4 「宮澤賢治物語(49) セロ(一)」抜粋】
そして、この紙面を文字に起こすと次のようになる。
宮澤賢治物語(49)
セロ(一)
どう考え . . . 本文を読む
では次は、「現通説」となっている「新校本年譜」の〝大正15年12月2日〟の典拠は「沢里武治氏聞書」であることがはっきりしたので、この証言にあってなおかつ「現通説」からは抜け落ちている、賢治の発言『少なくとも三か月は滞在する』の〝三か月〟に関連して少しく考察してみたい。この際の上京が大正15年12月2日であれば、それから約3ヶ月間の滞京が、通説となっている現年譜にはたして合理的に当てはまるかという . . . 本文を読む
さて前回 「新校本年譜」や「旧校本年譜」がこう書いている以上はその典拠は澤里武治の証言以外にない。ということ私は主張した。
それは「現通説」となっている「新校本年譜」にあるが如き大正15年12月2日の記述
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを . . . 本文を読む
3 「現通説」による検証
さて、幾つかの証言によって仮説
宮澤賢治は昭和2年11月から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京してチェロを勉強したが、病気になって花巻に戻った。………♣を検証してきた訳だが、まだそのような証言等は幾つか残っている。がそれは後ほどに回すこととし、ここからは「現通説」によってこの仮説を検証してみたい。
「新校本年譜」大正15年12月2日
この日の「現通説」は、 . . . 本文を読む
☆4 柳原昌悦の証言
4つ目は、宮澤賢治研究家C氏がかつて柳原昌悦から直接取材した際に得た
一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけども。という証言である。この証言は仮説〝♣〟を裏付けているが、それはこの証言を元にして立てた仮説だから当然のことである。
つまり柳原は、大正15年12月2日の賢治の上 . . . 本文を読む
☆2 大津三郎の「三日でセロを覺えようとした人」
2つ目は『昭和文学全集 月報第十四號』に載っている大津三郎の証言であり、それは次のようなものである。
「三日でセロを覺えようとした人」
それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅い頃だつたか、私の記憶ははつきりしない。…(略)…
ある日、歸り際に塚本氏に呼びとめられて「三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと言う人が來ているが、どの先生も . . . 本文を読む
2 証言等による検証(Ⅰ)
ではここでは、仮説
宮澤賢治は昭和2年11月から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京してチェロを勉強したが、病気になって花巻に戻った。………♣に関連しそうな証言が語られているものなどの幾つかを項目毎に以下にまずリストアップしてみる(一部は既に触れているものもあるが)。
☆1 「沢里武治氏聞書」
☆2 大津三郎の「三日でセロを覺えようとした人」
☆3 座談会「 . . . 本文を読む
さて〝どう考えても、少なくとも「昭和2年11月~昭和3年1月」頃の賢治は全く透明な存在である〟ということを目で見えるようにするために、賢治の下根子桜時代の「昭和2年10月~昭和3年3月」の年譜を図表化してみた。
こうやって概観してみると、〝昭和2年11月4日~昭和3年2月8日の空白の3ヶ月余〟があることがありありと見えてくる。したがって、〝宮澤賢治は昭和2年11月から昭和3年1月までの . . . 本文を読む
2章 仮説の検証(Ⅰ)
さて、全く荒唐無稽なことだと嗤われることは十分承知の上でだが、沢里武治の証言を元にして
宮澤賢治は昭和2年11月から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京してチェロを勉強したが、病気になって花巻に戻った。………♣という仮説を立ててみた訳だが、ここからはその検証を開始したい。
1 「新校本年譜」による検証
私がこの仮説〝♣〟を立てた裏には、実は以前から . . . 本文を読む
澤里、柳原の証言と「通説」
さて、「沢里武治聞書」における澤里武治の次のような証言
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、と . . . 本文を読む
活字が真実とは限らない
今まで少しく宮澤賢治のことを調べてみた中で極めてショックだったことは、賢治にまつわる出版物の中にはすべて真実ばかりが書かれている訳ではないということを知ったことである。そんなことは当たり前といえば当たり前のことなはずなのだが、それまでは他のことならいざ知らず、賢治のことに関する限りそのようなことはあろうはずがないと私は決めつけていたからだ。ましてそれが活字になっていればそ . . . 本文を読む
柳原も澤里と一緒に賢治を見送った
私が「ますます訳が分からなくなってしまった」大きな理由はもう一つあり、それは当時私は千葉恭のことを知りたくて実証的な宮澤賢治研究家のC氏を何度か訪ねていたが、その折りC氏から
下根子桜時代の賢治の上京に関して、『一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけども』という証言を柳原本人か . . . 本文を読む
1章 教え子二人の証言
その疑問の始まりは筑摩書房の『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』であった。同書は「年譜篇」となっていて宮澤賢治の年譜(以降この年譜のことを「新校本年譜」と略記する)が所収されている。
大正15年12月2日の賢治
その年譜の大正15年12月2日の箇所を見ていたならばあれっ、と思った。それは次のようになっていた。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞ . . . 本文を読む
プロローグ
関登久也の著書の一つに『宮沢賢治物語』があり、私が最初に同書を見たのはその学習研究社版(平成7年発行)であった。冷静で客観的な記述の仕方に関登久也の人柄をしのばせているなと感心しつつ読み進めていったところ、同著の中の「セロ」という節に至って急に違和感を感じた。
『宮沢賢治物語』(学研版)
因みにその出だしを抜粋すると次のようになっている。
【資料1『新装版 宮沢賢治物語』(関登久 . . . 本文を読む