『四次元』123号(Feb-61、宮澤賢治研究会)を見ていたならばその中に菊池忠二氏の「賢治の地質調査(1) 岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」が シリーズ物の1回目として載っていた。
そしてそれは次のようにして始まっている。
編集者の言葉――本文は賢治が稗貫稗貫郡の委嘱を受け、関豊太郎博士を首班に助教授神野幾馬、小泉多三郎と共に実地踏査した際の報告書である . . . 本文を読む
《1↑「施肥表A」〔一一〕》(『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)より)
以前〝賢治に肥料設計して貰った千葉恭〟において、
千葉恭が宮澤賢治から肥料設計の指導を受けていたことを確認できた
と述べたが、その理由を今回は述べたい。
1.『校本全集』「施肥表A」〔一一〕について
まずは、このブログの先頭の〝施肥表〟をご覧いただきたい。これは『校本宮澤 . . . 本文を読む
《↑ 伊藤ちえ》(『宮澤賢治と幻の恋人』より、河出書房新社)
梅雨も間もなく明けそうだが、今年の稲の生育状況はどうであろうか?と私のような者でさえも気掛かりなこの頃である。
昨今、田植えというものはかつてと違ってかなり早い時期に行われるようになったが、昔の岩手では入梅の直前にそれが行われていたと聞く。つまりその当時6月という月は農家にとっては〝猫の手も借 . . . 本文を読む
《1↑ 千葉家のお墓》(平成23年6月16日撮影)
嬉しいことに千葉恭のご長男とその奥様にお会いできた。
そして今はその田圃はなくなってしまったが、かつて千葉恭が宮澤賢治から肥料設計した貰ったと考えてよい田圃のあった辺りを教えていただき、千葉家の墓地を案内して貰いお墓参りをさせていただいた。
《2 千葉家の墓石に〝千葉恭之建〟と》(平成23年6月16日撮影 . . . 本文を読む
《1↑『報徳青年 第三巻・第二號』表紙》
神田の古本屋さんで『報徳青年』という小冊子を手に取ってみたならば、その巻頭言が
農民芸術概論綱要
とあった。この冊子は昭和25年2月25日発行のものであった。因みにその目次はこのブログの先頭に掲げたその表紙にあるとおりである。
表紙を捲ってみるとそこには下図のような内容の巻頭言があった。
《2『報徳青 . . . 本文を読む
《1↑『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著、高橋印刷)>
この度板垣寛氏の著書『賢治先生と石鳥谷の人々』を読むことが出来た。その中には宮澤賢治にかわいがられ、信頼も厚かった教え子の菊池信一に関することが多く語られていた。
《2 菊池信一》
1.板垣寛氏と菊池信一
著者の板垣寛氏は亮一氏のご子息であり、この板垣亮一氏は菊池信一と親友であっ . . . 本文を読む
《↑『イーハトーヴォ六号』》
それでは今回は「イーハトーヴォ6号~13号」の中にある松田甚次郎関連の記事を抜き出すとともにその中にたまたま見つかった小笠原露の短歌を報告したい。
【第六号(昭和15年5月21日発行)】
特になし。
【第七号(昭和15年5月21日発行)】
☆ 四月賢治の会
山形 長期第十一回生として入塾した新たなる理想に燃ゆる七名の新入塾生を . . . 本文を読む
《↑『土に叫ぶ(第15刷)』(昭和18年発行、松田甚次郎著、羽田書店)》
では今回は『イーハトーヴォ(第一期)』の5号から松田甚次郎に関連する部分を抜き出してみたい。
【第五号(昭和15年3月21日発行)】
☆ 二月賢治の会
花巻 二十四日夜七時半、南城組合楼上で、南城振興共働村塾第三回開塾に、講師として来花された松田甚次郎氏及び盛岡賢治の会菊池暁輝氏、それに見 . . . 本文を読む
《↑『イーハトーヴォ(第一期)』》
このたび『イーハトーヴォ(第一期)』の中味を見ることが出来た。興味深い事柄が少なからずあったが、中でも松田甚次郎関連の記事が多いことにである。
昨今は松田甚次郎のことを賢治の周辺ではあまり重んじていないような気がするが、この『イーハトーヴォ(第一期)』が出版されていた頃(昭和14年11月~16年1月)は如何に . . . 本文を読む
《↑高瀬露》
あれっ、もしかするとあの人は小笠原露(高瀬露)と親戚ではなかろうかと思いついた。その人とはいまから30年ほど前に同じ職場で大変お世話になった人Nさんである。
というのは、最近花巻のある図書館で調べ物をしていた際に資料の寄贈者にNさんの名と思われる記載があった。そういえばNさんは花巻出身だったはず。そこで直感が働 . . . 本文を読む
《↑かつての羅須地人協会の建物のあった周辺図》
どうもかつての下根子桜の宮澤家別荘周辺のイメージが湧かない。そこで私が勝手にイメージしたのがこのブログの先頭の図である。これは「花巻地籍図集成図」の一部に当時の周辺環境と思われるものを一部書き入れたものである。
菊池忠二氏の『私の賢治散歩』はこの周辺に関しては次のように説明している。
その途中で杉木立に三方を囲まれ . . . 本文を読む
《↑「千葉恭」(56歳頃)》
話はやや前後し、以前の〝宮澤賢治と千葉恭の同居期間〟と重複してしまうことになるが、あるルートから標記の年月日が判明したことに関連して再度報告したい。
どうしてなのだろうか、どんな著書を見ても下根子桜の別荘で千葉恭が宮澤賢治と一緒に寝食を共にした期日も期間もはっきりと書かれていない。
しかしとりあえずは、千葉恭が穀物検 . . . 本文を読む
《1↑『宮澤賢治全集一』(文圃堂)》
宮澤賢治没後約1年の昭和9年10月に早々と文圃堂から『宮澤賢治全集第三巻』(童話編)が刊行されたということだが、そのシリーズの第一巻がこのブログの先頭のようなものである。
森荘已池の「ふれあいの人々宮澤賢治」によれば、この表紙の字は高村光太郎の手によるものなそうで、
《2 『宮澤賢治全集一巻』奥付き》
には発行は
. . . 本文を読む
《1↑『賢治とモリスの環境芸術』(大内英明編著、時潮社)》
『賢治とモリスの環境芸術』の中に「羅須地人協会」に関する伊藤与蔵の次のような証言が載っていた。
先生が別荘に住むようになって間もない頃でした。「この建物に名前をつけたいと思うがどんな名前にしたらいいだろう」とみんなに相談されたことがあります。私などは学問もないものですから「先生が考えられた名前をおつけにな . . . 本文を読む