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478 訪問時期は昭和2年秋

《創られた賢治から愛される賢治に》訪問時期は昭和2年秋の可能性  私はその訪問時期は昭和2年の秋ではなかろうかと考えている。なぜならば、伊藤七雄の生家の現当主伊藤大亞(ひろつぐ)氏から頂いた資料の中に、伊藤ちゑが藤原嘉藤治に宛てた手紙の内容が載っていて、  又、御願ひで御座います この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましやうに出て居りますが宮澤さん . . . 本文を読む
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477 伊藤兄妹の花巻訪問時期

《創られた賢治から愛される賢治に》伊藤兄妹の賢治訪問時期  さて、では伊藤七雄・ちゑ兄妹が賢治の許を訪ねて来た時期はいつだったのだろうか。以前触れた「「三原三部」の人」においてはそのことは明示されていないようだ。  ところが、『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著)を見てみると、  昭和三年の、たぶん春ころだろうと推測するのだが、伊藤七雄と妹のちゑという人が花巻を訪ねてきた。               . . . 本文を読む
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476 労農党シンパだったことは秘密

《創られた賢治から愛される賢治に》農繁期半月もの下根子不在  そのような労農党員の伊藤七雄と2歳年上の賢治が、森荘已池の表現を借りれば『宮沢さんは七雄さんと友人だった』ということになる。そしてそのような伊藤七雄から招かれて昭和3年の農繁期の花巻を離れて何と半月ほど滞京しながら、わざわざ伊豆大島まで出かけて行って農芸学校設立のための相談に賢治は乗っていることになる。  一方、賢治が下根子桜に住まった . . . 本文を読む
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475 七雄は日本労農党有力幹部

《創られた賢治から愛される賢治に》伊藤七雄は日本労農党の有力幹部だった  次にいわゆる「旧校本年譜」を見てみると、  伊藤七雄(明治31、10、18生)  七雄はドイツ留学中胸を病み、大島に土地を買い療養していた。浅沼稲次郎(のちの日本社会党委員長)と親交があり、日本労農党に属していた。           とある。ということは、あの社会党の委員長だった「人間機関車」こと浅沼稲次郎(演説中に17歳 . . . 本文を読む
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474 伊藤七雄とはどんな人?

《創られた賢治から愛される賢治に》伊藤七雄とは  さて、ではその伊藤七雄とはどんな人だったのだろうか。  まずは、『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著)所収の「「三原三部」の人」(これは昭和24年発行『宮沢賢治と三人の女性』が初出である)を見てみると、伊藤七雄のことに関して次のようことがそこで述べられていた。  宮沢さんは七雄さんと友人だったのです。七雄さんは大島で農芸学校をつくるので、土地をしらべてく . . . 本文を読む
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473 昭和3年6月の上京

《創られた賢治から愛される賢治に》 ところで、昭和3年10月の陸軍特別大演習を前にして凄まじい「アカ狩り」が行われたということだが、ちょうどその頃の8月に賢治は実家に戻って病臥したといわれている。そしてその病気の遠因の一つとして「六月中東京へ出」たことを、賢治自身が澤里武治あて書簡で 六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことに . . . 本文を読む
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472 「社会主義者賢治」

《創られた賢治から愛される賢治に》「社会主義者賢治」  『啄木 賢治 光太郎』の中に「社会主義者賢治」という論考があり、次のようなことが書かれていた。  大正十年、突然出奔し、東京の国柱会に入った時は、小さな印刷所で校正の仕事をしながら、その経営者を<利害打算の帝国主義者>と呼び、その知人に書き送った。ここで賢治が先頭に立って賃上げ闘争をした話は、後年、花巻農学校で多くの教え子が聞かされた。賢治は . . . 本文を読む
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471 梅木文夫について

《創られた賢治から愛される賢治に》「牧民会(三八)」と梅木文夫  昭和33年6月14日付『岩手日報』に載っていた「牧民会(三八)」には以下のようなこと等述べられていた。  また、編集だよりには△盛中の梅木君はついに退学した。春日校長の奴、どこまで我々の仲間を迫害するのだろう。あいつのために今まで暗々の中に、我々の仲間が何人、巧妙に退学させられたか知れない。我々盛中関係の牧民会員が、梅木と関係あった . . . 本文を読む
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470 「物語岩手社会運動史」より

《創られた賢治から愛される賢治に》「物語岩手社会運動史」より  実際、昭和33年の3月1日から『岩手日報』に連載が開始された鈴木彦次郎の「物語岩手社会運動史」を見てみると、4月29日付のものからは「牧民会」というシリーズものが始まっている。その中から幾つかを拾い読みしてみると以下のようなこと等が載っている。 ・大正9年8月2日に「牧民会主催演説会」開催(『岩手日報』、昭和33年5月17日付) ・同 . . . 本文を読む
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469 賢治は「牧民会」にも出入り

《創られた賢治から愛される賢治に》賢治は「牧民会」にも出入りしていた  名須川溢男は「宮澤賢治とその時代」において次のようにも述べている。  さらにまた賢治は農学校教師ではあるが、学校内にとどまらず各地の農村をまわり、農事講演をしてい歩いた。…(略)…岩手の地における啄木会や牧民会に賢治は出ていた。あるいは加賀豊彦の講演に感激し社会問題に強い関心を示して、車夫などに社会主義の宣伝活動などをし、ため . . . 本文を読む
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468 賢治は「啄木会」の会員

《創られた賢治から愛される賢治に》賢治は「啄木会」の会員であった  名須川溢男によれば、賢治に関して川村尚三は次のように証言しているという。  賢治と私とは他の人々との交際とはちがい、社会主義や労農党のことからであった。賢治は仏教だったが私は阿部三郎牧師から社会科学の本を読ませてもらい、目をその方に開かせてもらった。  盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察か . . . 本文を読む
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467 『宮沢賢治 修羅に生きる』より

《創られた賢治から愛される賢治に》青江舜二郎著『宮沢賢治 修羅に生きる』  というのは、『宮沢賢治 修羅に生きる』の中に   「2――真実とごまかし」 という節があり、その中で例えば  賢治は羅須地人協会時代において、まぎれもなく労農派のシンパであり協会はその運動実践のためのものだった――この立場に立つとき、賢治が農学校の教師をやめて、この協会を足場に新しい生活にとびこむまでの期間を記した、これま . . . 本文を読む
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466 賢治は労農党のシンパ

《創られた賢治から愛される賢治に》賢治は相変わらずシンパ  先の証言によれば「『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った」ということだから、この交換授業が終わった後はもう賢治は労農党とは手を切ったような感じにも受けとられるが、実はそうとばかりも言えなさそうだ。  なぜならば、同じく名須川によれば ○ 「第一回普選は昭和三年(一九二八)二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗和 . . . 本文を読む
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465 川村尚三と交換授業

《創られた賢治から愛される賢治に》川村尚三 『啄木 賢治 光太郎』では昭和3年のこととしてこんな事も記されていた。  この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。               つまり、川村尚三はこの大演習を前にして「ア . . . 本文を読む
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464 すさまじい「アカ狩り」旋風

《創られた賢治から愛される賢治に》「アカ狩り」  『啄木 賢治 光太郎』の中に次のような記述があった。  しかし、労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。この間県支部では胆沢郡下の北上川護岸工事をめぐる賃金不払い事件を指導し、普選後初の県議選(同二年九月)総選挙(同三年二月)で横田忠夫や泉国三郎を立候補させたが、いずれも敗退した。  この年十月、岩手では初の陸軍大演 . . . 本文を読む
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