《1↑『人と文学シリーズ 宮澤賢治』(島尾敏雄・真壁仁…、学研)》
学研の『人と文学シリーズ 宮澤賢治』の中に賢治が教え子富手一に宛てた封筒の写真があった。
《2 「昭和2年4月9日付富手一あて書簡封筒」》
この写真を見て「おっ!」と思った。というのは封筒の裏に『羅須地人協會 岩手縣稗貫郡下根子』のゴム印が押してあったからである。
ここの説明文
昭和2年4月9日 . . . 本文を読む
《↑千葉 恭(昭和10年、右端)》
宮澤賢治は下根子桜で千葉恭とある期間寝食を共にしていたということだが、一体いつからどれくらいの期間一緒に暮らしていたのかがはっきりとしていない。
それは賢治自身は一言も、そして千葉恭自身ははっきりと言っていないからでもある。ただし、千葉恭自身は次のようなことは言っている。
(1).「羅須地人協会時代の賢治」の中で
. . . 本文を読む
《↑ 「この時代の農村風景」》
以前報告したものであるが、このブログの先頭の写真は『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていたものであり、そこには
賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
と注意書きがあった。
一方、これとそっくりな次の写真は『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている
《2 「リヤカーを引く賢治 羅須地人 . . . 本文を読む
《1↑『岩手日報』(昭和8年9月25日付)》
昭和8年9月22日付け岩手日報の紙面の中に次のような報道があった。
1.宮澤賢治永眠
その紙面には、
《2 「詩人宮澤賢治氏 きのふ永眠す」》
という記事が載っており、宮澤賢治が昭和8年9月21日になくなったことに関わる新聞報道で
詩人宮澤賢治氏きのふ永眠す 日本詩壇の輝 . . . 本文を読む
《↑『風の又三郎』(宮澤賢治著、昭和14年、羽田書店)(ほるぷ社復刻版)》
前回の続きである。
「座談会 賢治像・賢治作品の評価をたどる」の中で興味を引いたことがもう一つあった。それは次のような西田良子氏の発言である。
…私も最初の出会いは小学校の時で、昭和十四年ころ、『風の又三郎』の中の「貝の火」の所でホが花文字になっていたのが強く印象に残っています。でも、「貝の火」 . . . 本文を読む
《↑『賢治研究 70』(1996.8 宮沢賢治研究会)》
『賢治研究 70』は宮沢賢治生誕百年記念特別号ということであったので気になって頁を捲ってみたならば、その中に
「座談会 賢治像・賢治作品の評価をたどる」
日 時 平成7年10月22日
発言者 入沢康夫・杉浦静・続橋達雄・西田良子
司 会 佐藤栄二
という座談会の記録があり、興味を引く点 . . . 本文を読む
《↑『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)》
一般に「自炊独居」が話題になる詩人や作家といえば、宮澤賢治そして高村光太郎の2人でありこの2人しかいないような気がする。
以前『一体いつから〝独居自炊〟に』において
少なくとも昭和28年より前には〝独居自炊生活〟という言いまわしは使われておらず、多くは〝自炊生活〟という言いまわしが多い。この変化の切っ掛け . . . 本文を読む
《1↑「羅須地人協会時代の賢治」(千葉恭)》
『あれっ?』と思った。今まで幾つかの宮澤賢治関連の著書等を見ていて、賢治の「下根子桜時代」を〝独居自炊生活〟と昔から説明していたわけではないのではないか、と疑問に思った。
つい少し前まで私は、この時代の宮澤賢治は〝独居自炊生活〟をしていたとばかり思っていたが、実は約半年間賢治は千葉恭と寝 . . . 本文を読む
《↑「白菜畑」》
終戦直後、「雨ニモマケズ」の中の〝玄米四合〟が〝玄米三合〟と改竄されたということは以前に報告したとおりだが、似たようなことが戦時中にもあったと聞いていた。
この度、『宮沢賢治の世界』の中の「修羅のなみだ」を読んでいて新たに吃驚したことがある。
それは、同著の174pに書かれていた次のような註である。
* 筑摩 . . . 本文を読む
《1↑『校本宮澤賢治全集第五巻月報』(筑摩書房)》
1. 『宮澤賢治名作選』の評価
いままで、宮沢賢治の受容という観点からいえば
(1)『宮澤賢治全集(全3巻)』(文圃堂書店版、昭和9年~10年)
(2)『宮澤賢治全集(全6巻・別巻1)』(十字屋書店版、昭和14年~19年)
に比べて
(3)『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店、昭和14年)
はあまり重視 . . . 本文を読む
《↑『私の賢治散歩下巻』(菊池忠二著)》
前回述べたように、私が知りたいのは下根子桜に集った人々から見た「下根子桜時代」に対する冷静な評価、あるいはその周辺に住んでいた人々の目から「下根子桜時代」が実はどう見えたかという評価の方である。遠くの都会から花巻を眺めたそれではなくて地元の人々が肌でどう感じたかという評価の方である。
1.身近な人の「下根子桜時代 . . . 本文を読む
《↑『宮沢賢治からへ』』(佐藤通雅著、學藝書林)》
前回は宮澤賢治自身の「下根子桜時代」の評価について触れたが、今回は周りの人が「羅須地人協会」に関してどのように評価したかについて調べてみたい。
1.谷川徹三による評価
佐藤通雅氏は『宮沢賢治からへ』の中の章「亀裂する祝祭 羅須地人協会論」を次のような内容で書き始めている。
羅須地人協会に関しての評価は正反対 . . . 本文を読む
《↑9月23日付「澤里武治あて宮沢賢治書簡」》
大正15年4月、宮澤賢治があれだけの意気込みで移り住んだはずの下根子桜であったが、不本意ながら病気のために昭和3年8月とうとうそこから退却して実家に戻ってしまった。したがって賢治の下根子桜時代は2年4ヶ月ちょっとで幕を閉じたことになる。
1.下根子桜退却の理由
賢治自身は下 . . . 本文を読む
《↑「巡回予定場所(二子、飯豊、太田、湯口、宮野目、湯本、好地、八幡、矢沢)」》
さて「大島行き」から下根子桜に戻った賢治の、その後の昭和3年内の年譜であるが
7月18日 農学校へ行き堀籠に稲の病気検査依頼。
(この頃日照りで稲作指導に奔走)
8月初旬 発病と共に羅須地人協会自然消滅。
8月10日 賢治健康を害し自宅に戻り、別棟1階に病臥。 . . . 本文を読む
《1↑『宮澤賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)》
昭和3年6月の「大島行き」の際の長期滞京に関しては、かつてとは異なる賢治を何かしらそこに私は感じてしまったのであるが、このときの上京のことを佐藤竜一氏は「東京への逃避行」と題して次のように論じていることを知った。同じ様なことを感じていたのではなかろうか、と私は勝手に決め付けてしまった。
1.「東京への逃 . . . 本文を読む