宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

131 賢治と東和町(成島毘沙門天その3)

2009年03月31日 | Weblog
 それでは、これから毘沙門天が安置されている宝物殿への坂を上ってゆくのだが、振り返れば 《1 毘沙門堂》(平成21年3月26日撮影) がこのように見える。  《1 宝物殿》(平成21年3月26日撮影) への坂の左手には 《3 奥州総鎮護毘沙門天のいわれ》(平成21年3月26日撮影) の石碑があり、  日本一の巨像兜跋毘沙門天(国指定重要文化財)の鎮座する毘沙門堂は、今からおよそ一一五〇年 . . . 本文を読む

130 賢治と東和町(成島毘沙門天その2)

2009年03月29日 | Weblog
 成島の毘沙門と思われる『毘沙門』が詠み込まれている詩が 《1 「雨ニモマケズ手帳」の15~16p》(平成21年3月26日撮影)   にも現れる。  かなり推敲が重ねられていて判りにくいが、『校本宮沢賢治全集第六巻』(筑摩書房)によれば最終形態は       ロマンツェロ     あななつかしや なつかしや     こは毘沙門のおん矢なれ     天の功徳のそが故に     事とてなら . . . 本文を読む

129 賢治と東和町(成島毘沙門天その1)

2009年03月27日 | Weblog
 宮沢賢治の『春と修羅・詩稿補遺』の中に次のような詩がある。      毘沙門天の宝庫    さっき泉で行きあった    黄の節糸の手甲をかけた薬屋も    どこへ下りたかもう見えず    あたりは暗い青草と    麓の方はたゞ黒緑の松山ばかり    東は畳む幾重の山に    日がすっかりと射してゐて    谷には影も流れてゐる    あの藍いろの窪みの底で    形ばかりの分教場を    菊井が . . . 本文を読む

Ⅷ 庚申関係の参考図書と庚申日一覧

2009年03月26日 | Weblog
************************【参考図書等】****************************  01『復元版「版雨ニモマケズ手帳」』(校本宮澤賢治全集 資料第五 筑摩書房)  02『解説 復元版「雨ニモマケズ手帳」』(小倉 豊文著、筑摩書房)  03『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉 豊文著、東京創元社)  04『校本 宮沢賢治全集 第三、四、五、六、八、十一巻』(筑摩書 . . . 本文を読む

Ⅶ 手帳に五庚申・七庚申が描かれた訳

2009年03月26日 | Weblog
 「庚申さん」は、賢治の創作劇『種山ヶ原の夜』の幕切れの”草刈二”の台詞にも出て来ている。 草刈二、「さあすっかり霽れだ。起ぎでぢゃい。」 伊藤(起きて空を見る)「あゝ霽れだ 霽れだ。天の川まるっきり廻ってしまったな。」 草刈二、「あれ、庚申さん、あそごさお出やってら。」 見廻人「あの大きな青い星ぁ明の明星だべすか。」 伊藤「はあ、あゝあ、いゝ夢見だ。馬だったすか。」 見廻人「いゝえ、おら谷まで行 . . . 本文を読む

Ⅵ 庚申と農業災害 

2009年03月25日 | Weblog
 ところで、なぜこのシリーズを始めたのかというと、賢治は「雨ニモマケズ手帳」の最後のページにどうして”七庚申は1つなのに五庚申を2つも書いている”のかと云うことが切っ掛けであった。  ところが、花巻一帯では七庚申塔をあちこちで実見できても当初五庚申塔はなかなか見つからなかった。ところが、捜し廻ってみたならばいままでに5基の五庚申塔に巡り会えた。それらが、次の石塔である。 《1 五庚申(明治35年1 . . . 本文を読む

Ⅴ 庚申塔への想い

2009年03月25日 | Weblog
 花巻の鍋倉に次のような 《1 春日神社》(平成21年2月25日撮影) がある。ここの境内には、 《2 石塔群》(平成21年2月25日撮影) があり、その中には幾つかの庚申塔が建てられている。因みに、賢治の詩           『秋』                      一九二六、九、二三、    江釣子森の脚から半里    荒さんで甘い乱積雲の風の底    稔った稲や赤い萓穂の . . . 本文を読む

Ⅳ 庚申塔の建立日

2009年03月24日 | Weblog
 さて、花巻一帯に建っている庚申塔の建立はどのような日に行われたのだろうか。単純に考えてみて、おそらく庚申日に建てられたのではなかろうかと推測しつついままでに出会えた庚申塔についてのリストを作ってみると末尾ののとおり。  そして、このから明らかに言えることとして次のようなことがある。  賢治が生きていた頃の花巻一帯の「庚申信仰」に関しては (1) 『庚申塔』は『五庚申』あるいは『七庚申』にその殆ど . . . 本文を読む

Ⅲ 『七庚申塔』『五庚申塔』建立理由

2009年03月23日 | Weblog
 「庚申」が詠み込まれている宮澤賢治の作品としては「春と修羅・第二集」の中の        『郊外』    卑しくひかる乱雲が    ときどき凍つた雨をおとし    野原は寒くあかるくて    水路もゆらぎ    穂のない粟の塔も消される        鷹は鱗を片映えさせて        まひるの雲の下底を過ぎり        ひとはちぎれた海藻を着て        煮られた塩の . . . 本文を読む

Ⅱ 七庚申と五庚申

2009年03月22日 | Weblog
  《↑ 鍋倉地森の庚申塚(後方の山は江釣子森山)》(平成21年7月31日撮影)  ところで、安藤まこと氏の随筆『父と私と宮沢賢治(Ⅹ)』は次のように書き出している。      =賢治と農業災害=  宮沢賢治の詩といえば「雨ニモマケズ」が第一に思い浮かぶ。この詩は世に「雨ニモマケズ手帳」=遺品=昭和六年(一九三一)十月の上旬から年末か翌年初めてまで使用か・・・・に記されていたもの。この中で、賢治は . . . 本文を読む

Ⅰ 「雨ニモマケズ手帳」と庚申信仰

2009年03月22日 | Weblog
1.「雨ニモマケズ手帳」の最終ページ  宮澤賢治の 【Fig.1 「雨ニモマケズ手帳」の最後165~166p】     はこのようになっていて、165pの上部には   早池峰山、羽黒三山、巌鷲山の供養塔 のスケッチが、同じくその下部には   五庚申、七庚申 の文字が書かれている。  このことを知ってからは、気をつけて花巻を彷徨ってみると神社や道端には山岳供養塔や庚申塔が建っていることが多いこと . . . 本文を読む

127 「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その16)

2009年03月20日 | Weblog
 それでは、最後の【5 「五庚申」・「七庚申」に色を塗った訳】についての私見を述べてこのシリーズを終わりたい。  まず、あのページを確認してみよう。  【復元版「雨ニモマケズ手帳」165~166p】(校本宮澤賢治全集 資料第五 筑摩書房) このページに書かれた、青や赤そして紫の色鉛筆で丁寧に塗り分けられた”五庚申と七庚申”に関して、「雨ニモマケズ手帳」研究の第一人者小倉豊文氏は  ……おそら . . . 本文を読む

126 「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その15)

2009年03月19日 | Weblog
 賢治は次のような詩を詠んでいる。  一〇八三 和風は河谷いっぱいに吹く(下書稿(四))/『春と修羅 第三集』)                           一九二七、八、二〇、    南からまた西南から    和風は河谷いっぱいに吹く    起きあがったいちめんの稲穂を波立て    葉ごとの暗い露を落して    和風は河谷いっぱいに吹く    あらゆる辛苦の結果から    七月 . . . 本文を読む

125 「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その14)

2009年03月18日 | Weblog
 さて、『豊作飢饉』について無知だった私は『三上満さんが語る賢治と農業〈2〉』からそのからくりを知ることが出来た。三上氏は賢治のことにも触れながら『豊作飢饉』について次のように解説している。  賢治にとって大きな打撃だったのは、一九三〇年の豊作です。大不況の中での豊作で、米価は値下がり、一九三一年の春頃は、豊作飢饉の様相になっていた。あの頃は、米はまったく自由販売で、米の仲買人が買い付ける。場合に . . . 本文を読む