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314 「下ノ畑」と「渡舟場」探し

      《1↑ 「賢治自耕の地」の木標》(平成22年12月21日撮影)  前回、5万分の1の地形図で見た場合「下ノ畑」の場所が違うのではないかと思ったことと、「渡舟場」のあった場所も探してみたかったので実際当地を訪ねてみた。  賢治詩碑の隣の家(伊藤忠一宅)の脇の道を通って「下ノ畑」に向かう。  伊藤さん宅の西側の道を南方向に進む。直ぐにその道は東に直角に曲がり下り坂となる。坂を下り切った . . . 本文を読む
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313 下根子桜への道そして渡舟場

        《1↑「雪の羅須地人協会」               より 》  以前から気になっていたものの一つに、「下ノ畑」の近くにあったという「渡舟場」がある。    森荘已池の「すすき野を開墾し畑」の中に次のようなことが書かれている。  北上川の岸の砂質壌土の畑は、渡船場の河原近く、みちばたにあった。教え子たちに助けてもらい、すすき野を開墾したようだった。  そこは、杉林のと比べたら天 . . . 本文を読む
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312 花巻温泉の花壇はどこに

         《1↑堂ヶ沢山の登山道》(『花巻温泉遊園図絵』より抜粋)  かつて、「経埋ムベキ山」のうちの一つ『堂ヶ沢山』に登りたくて、荒れ放題の林道を無理矢理藪こぎしながらなんとか登ったものだった。 1.堂ヶ沢山のかつての登山道  ところがその後、昔、堂ヶ沢山に立派な登山道があったということを聞き知った。一体どこにどんな道路がついていたのだろうかと想像していたが、今回このブログの先頭にあ . . . 本文を読む
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311 リヤカーを引く宮澤賢治

      《1↑「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」》           いままでいろいろな著書には、賢治は下根子桜 《2 羅須地人協会》       で農耕自炊生活をしていた頃、その当時としては珍しいリヤカーに花や野菜を積んで、 《3 向小路(同心町)》       などを忙しく行き来したということが書いてあったが、実際どんな感じだったのだろうか。  そうと思っていたと . . . 本文を読む
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310 「下ノ畑ニ居リマス」の秘密

       今回は 「下ノ畑ニ居リマス」の秘密について報告したい。 1.賢治からの「最後の手紙」  そのために先ず次のような書簡を引用し、その準備を整えたい。良く知られていることなのだそうだが(私は知らなかったけれど)、賢治が亡くなる直前に書いた最後の手紙は稗貫郡の亀ヶ森小学校の教員・柳原昌悦宛のもだったのだそうだ。  『校本 宮澤賢治全集 第十三巻』によればその内容は以下のとおりである。   . . . 本文を読む
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309 賢治の肥料相談・設計の考察(続き)

       《↑『十五年戦争の開幕』(江口 圭一著、小学館)》  では今回は前回の続きで、残りの3つの場合について考察してみたい。 2.不作・凶作の場合  賢治の肥料設計に基づいて金肥を施肥したはいいが、気候不順や自然災害等で不作・凶作になったならばどうなるか。もちろん水稲の収量は減少・激減して当然収入は減る。不作・凶作だったからといって春先に借金して買った肥料代は安くなるわけではない。なま . . . 本文を読む
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308 賢治の肥料相談・設計の考察(その1)

      《1↑『宮沢 賢治研究Annual Vol.10』表紙》  前回行ったシミュレーションにより、  賢治の肥料設計に従って金肥を施す稲作はコストパフォーマンスが非常に高いものだった。 と言えそうだということが解った。  とすれば、賢治の肥料設計はもっともっと広まっていても良さそうなものなのだが現実はそれほどではなかったようだ。  たとえば、あの伊藤忠一でさえも  私も肥料設計をしても . . . 本文を読む
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306 賢治の肥料相談・設計の検証(訂正版)

        《1↑『実際に宮澤賢治が書いた肥料設計書の例』               (「サライ2010年7月号」(小学館)より)》 *********************************************************************************************  前回投稿した〝306 賢治の肥料相談・設計の検証〟において迂闊なこと . . . 本文を読む
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306 賢治の肥料相談・設計の検証

        《1↑『実際に宮澤賢治が書いた肥料設計書の例』               (「サライ2010年7月号」(小学館)より)》  では前回述べた、  賢治の肥料設計に従って金肥を施せばそれなりに収量は増したと思うがコストパフォーマンスはどうだったのか。 ということの検証をここでは定量的に試みたい。 1.当時の米価  まず当時米価は一体どれほどであったのだろうか。以前”日傭労働のときに . . . 本文を読む
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305 賢治の肥料相談・設計の評価

       では今回は宮澤賢治の肥料設計について少しく述べてみたい。  「石鳥谷肥料相談所跡案内板」の説明から賢治の肥料相談の様子が垣間見えてくるが、実際の相談の中身や方法はどのようなものであったのだろか。おそらく次の賢治の詩に詠まれているようなものであったであろう。   〔それでは計算いたしませう〕    それでは計算いたしませう    場所は湯口の上根子ですな         …(略 . . . 本文を読む
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304 日詰・石鳥谷ぶらり

      《↑ 『石鳥谷肥料相談所跡』(石鳥谷好地塚根、平成22年2月12日撮影)》  紫波町日詰と石鳥谷を少し彷徨ってみる。 1.城山公園  まずは、紫波の城跡を訪ねる。  賢治の「歌稿〔B〕」の「大正三年四月」と題された章の中に 179     山上の木にかこまれし神楽殿       鳥どよみなけば       われかなしむも。 179a180   志和の城の麦熟すらし       その . . . 本文を読む
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303 「椀コ」はやはり「赤林山」では

        《1↑赤林山》(平成22年12月17日撮影)  前回述べたように、「椀コ」はほぼ実在の独立した山であることが保証できたと思うので、ならば実在の山「椀コ」はどの山であるかその特定を今回は試みたい。 1.赤林山は箱ヶ森と呼ばれていたか  松本氏が主張するところによれば、〝賢治は今の赤林山を「箱ヶ森」と認識していた〟というようなことだったが、はたしてそうであったのであろうか . . . 本文を読む
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302 賢治の画いた岩頸列のペン画

     《1↑「〔月の鉛の雲さびに〕」下書稿(六)に描かれた岩頸列のペン画」》                   (『校本 宮澤賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>  前回、新たな資料があるということに気が付いたと述べたが、その資料がこのブログの先頭に載せたペン画である。 1.岩頸列のペン画  このペン画は、「文語詩稿五十篇」の中の「〔月の鉛の雲さびに〕」下書稿(六)に書かれているという . . . 本文を読む
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301 「椀コ」は南昌山の愛称説に関して

     <1↑『愛宕山から見た岩頸列』(平成20年5月16日撮影)>  前回に引き続き、松本氏の著書「『童話『銀河鉄道の夜』の舞台は矢巾・南昌山』」に関して述べたい。  その第1章の中に    「考察4 賢治の詩「岩頸列」の「椀コ」についての考察」 という節がある。  そこでの松本氏の結論は、「椀コ」とは南昌山のこと、愛称であるというものであった。松本氏は次のように考察している。 . . . 本文を読む
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