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300 南昌山と「日輪と山」

        《1↑「宮沢賢治が描いた南昌山の鉛筆画」》                平成22年11月末日、所用があって県道13号(盛岡和賀線)を盛岡に向かった。途中、紫波三山等が雪化粧していて美しかった。 《2 東根山》(平成22年11月30日撮影) 《3 南昌山》(平成22年11月30日撮影) 《4 赤林山》(平成22年11月30日撮影) 《5 雪の華を咲かせた木々(南昌山頂)》( . . . 本文を読む
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299 照井保志思い出語り

        《↑「根子吉盛と照井保志肖像」》            前回、〝根子吉盛さんの思い出語り〟を読んで初めて種山ヶ原の魅力を知ったところだが、同著で根子さんが語る次のようなことも新たに知って、今度は賢治の「原体剣舞連」の詩のイメージも沸々と湧くようになったような気がす . . . 本文を読む
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298 根子吉盛の思い出語り

     <1↑『賢治と種山ヶ原』(鳥山敏子著、世織書房)>  道の駅『種山ヶ原』に立ち寄った。すると、そこにあったのがこのブログの先頭に掲げた著書『賢治と種山ヶ原』である。自然に手が伸びていた。ページを捲ってみるとなかなか面白そうだったし、なんと本来の価格の約3分の1の値段だったので即購入した。  特に、その中の根子吉盛(宮澤賢治の教え子)さんの思い出語り(と思われる)が特に興味 . . . 本文を読む
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297 『銀河鉄道の夜』のモチーフ

 一般に、岩手軽便鉄道(大正4年11月花巻~仙人峠間に開通)は宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』の中に出てくる軽便鉄道のモデルとされているようだ。特に、遠野市宮守の「道の駅みやもり」の近くにある「めがね橋(宮守川橋梁)」はそのモチーフとされているという。  因みに次の橋がその 《1「めがね橋」》(平成21年5月2日撮影) である。  ところが、この平成22年11月5日澤里武治(賢治の教え子)のご子 . . . 本文を読む
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296 賢治と心平と森荘已池 

           では前回に引き続き、『昭和文学全集第十四巻 宮澤賢治集』(角川書店)の『昭和文学全集 月報第十四號』の中より。 1.大農場形経営者?賢治  宮澤賢治の作品にいち早く注目し、最もよき理解者となり、その支持者となったのが草野心平といわれているようだが、無名の宮澤賢治をいち早く世に知らしめるにあたり、心平の存在が如何に大きかったかということは衆目の一致するところだろう。  その . . . 本文を読む
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295 三日でチェロを覚えようとした賢治

      1.大正15年末の滞京  大正15年12月2日、澤里武治にひとり見送られながら宮澤賢治はチェロを持って花巻駅から東京に向かったという。この上京に関わって、以前触れたように  千葉恭が蓄音器を売ったその代金三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。 と千葉恭は証言しているわけである。  そして上京した賢治は神田錦町上州屋に12月29日まで寄宿した。その滞 . . . 本文を読む
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294 白鳥省吾と賢治

               では今回は白鳥省吾(しろとりせいご、ペンネームの場合は”しらとりしょうご”)に関して少しく触れてみたい。  佐藤 成が『面会を断られた 白鳥省吾』というタイトルで次のようなことを述べている。  文人としての賢治は中央文壇の誰からも気づかれない花巻という一地方で作品を書き続けていた。彼は同時代の文壇の思想潮流は自分に合わないと考えており参加を避けていたのである。   . . . 本文を読む
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293 千葉恭の同僚に会えた

        《↑昭和14年当時の千葉恭の写真(同僚千葉Kさん提供)》  何と、この度千葉恭と同じ職場に勤務したとことがあるという方とお会いできた。その同僚はたまたま同じ姓の千葉Kさんという、大正7年生まれの方であった。千葉恭は明治39年生まれだから、大凡12歳年下の人である。 1.千葉恭の同僚の語る人となり  その千葉Kさんは、千葉恭とは  1回目は、昭和11年~少なくとも14年に穀物検査所 . . . 本文を読む
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292 千葉恭と「月夜のでんしんばしら」

             《1↑千葉恭の写真》            1.千葉恭の2葉目の写真  千葉恭の2葉目の写真を見ることが出来た。それがこのブログの先頭の写真である。  右側の鳥打ち帽?に白いシャツ姿の人の方が千葉恭である。水沢農学校在学中の10代の千葉恭だとのことである。 2.穀物検査所の場所  また、大正時代の町並を記入した花巻地図を見ることが出来た。その中に穀物検査所(岩手県穀物 . . . 本文を読む
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291 千葉恭の出身地と写真

        《1↑ 千葉恭の写っている写真》  以前〝下根子桜の自炊独居?生活〟で触れた”『ふるさとケセン』67号(ふるさとケセン社、‘02年3月)”には『彼は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身で、賢治より十歳の年下である』と書かれていた。  そこで、先ずは大船渡市立図書館を訪ねてみた。職員の方に千葉恭のことをお訊きするととても親切に対応して下さった。しかし、結局千葉の下根子桜の寄寓期間は . . . 本文を読む
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290 「宮澤先生を追つて(四) 」(続き)

        《1↑『肥料の無料設計事務所を開いた當時の花巻町上町の雪景』                (『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房))より》  では今回は前回の『宮澤先生を追つて(四) 』の続きで、その後半部分に関して少しく投稿してみたい。 1.賢治の肥料設計  後半部分には次のようなことが書かれている。    肥 料 設 計  羅須地人協会の仕事も忙しかったのでした。秋も過ぎ東北 . . . 本文を読む
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289 「宮澤先生を追つて(四)」

        《↑ 「蓄音器の宣伝」(『岩手年鑑』(昭和13年発行、岩手日報社))より》  では今回は『宮澤先生を追つて(四)』を見てみよう。  千葉恭はそこで次のように語っている。  先生は私と話すとき無口な私に、自分一人で誰に話をするともなく、じんじんと理を解き語るのでした。農事も済みゆつくりとした日は、幾日も続きますがさういふ時は二階の書斎で、畫飯さへ食はずに何かせつせつと執筆してをられ . . . 本文を読む
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288 「賢治抄録」

       では、今回は「宮澤先生を追ひて」のシリーズはちょっと中断し、時系列を考えて今回は「賢治抄録」を(『宮澤賢治研究』(昭和33年))から紹介したい。それは次のような大正14年のエピソードである。    大正十四年は豊作に近い年で、季候も良いのであつた、晴れ勝ちな日が多い年であつた。十月二十日役所に出勤し、何かと忙しく働き夕方下宿先の鎌田旅館に歸った時、宿の主人は「あなたところに宮澤先生 . . . 本文を読む
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287 「宮澤先生を追つて(二)」

 では今回は『 四次元』(宮沢賢治友の会)の5号に戻って、そこに載っている千葉恭の「宮澤先生を追ひて(二)」を見てみたい。 1.穀物検査所を辞めた千葉恭  先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つ . . . 本文を読む
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286 「宮澤先生を追つて(三)」

         《↑下根子桜の朝(平成22年11月13日撮影)》  〝(賢治は)朝早く起きて必ず二階に行き、北上山脈から出る太陽を待つて拜むのが毎日の日課になつてゐました。〟(千葉恭の言)  今回は「宮澤先生を追つて(二)」の報告をしようと思ったが、時系列を考慮して先に「宮澤先生を追つて(三)」の報告をすることとした。  それは大正15年の、下根子桜における賢治と千葉恭との共同生活に関わる次 . . . 本文を読む
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