《表1 『県下土壌に於ける田畑別三要素の肥効の特徴』》
『創立50周年記念成績彙集』の中のこの上の〝三要素の肥効の特徴〟を基にして少し考えてみたい。
三要素の肥効の特徴
そのために先ず、以前投稿した時に参照したことがある次の
《表2〔施肥表A〕〔一〕》
をもう一度見てみる。それは、賢治は肥料設計を依頼されてどのような点をそれまでのものと比べて大きく変更しているかについて知りたくな . . . 本文を読む
《『斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友について』(照井謹二郎編)》
1. 大正13年12月24日(ボーナス日)賢治は上京?
宮澤賢治の下根子桜時代のことを知りたいと思って『斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友について』という冊子を見ていた。これは斎藤宗次郎の自叙伝(『二荊自叙伝』)の中から賢治に関係ある部分を抜き出したものだという。
するとその中に次のようなことが述べられていた。
(大正15年の)5/15 . . . 本文を読む
以前〝リアカーを牽いているのは賢治〟において私は
近いうちに平來作の生家を訪ねてみなければなるまい。
と宣言してしまった。そこでこの10月15日平來作の生家を訪ねてみた、例のことを訊くために。
生家をお訪ねすると来作の長男國友氏が居られたので早速訊いてみた。例の2葉の写真を見てもらいながら
『これはお父さんが所有していたという『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている写真
「リヤカーを引く賢治 . . . 本文を読む
以前〝佐藤勝治と宮澤賢治〟というタイトルの投稿の中で『宮沢賢治入門』を話題にしたことがあった。この『宮沢賢治入門』は、昭和23年に著した『宮澤賢治の肖像』と昭和27年に著した『宮沢賢治批判』という旧二著を昭和49年に一冊にまとめて出版したものだという。
1.『宮沢賢治入門』と『宮澤賢治の肖像』
その『宮沢賢治入門』のあとがきで佐藤勝治は次のようなことも言っていた。
「宮澤賢治の肖像」を出した . . . 本文を読む
千葉恭の著した「宮澤賢治先生を追つて(四)」に載っている次の様式が突然気になり出してしまった。
《1 「水稲肥料設計」》
《『四次元 9号』(宮沢賢治友の会)より》
これに関して千葉恭はそこで次のように説明している。
羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石位穫れる . . . 本文を読む
かつて〝賢治のリヤカーの牽き方〟を投稿したことがある。
それは『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている次の写真
《2 「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」》
と、『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていている次の写真
《3 「この時代の農村風景」》
が同じ写真と思えるのに、前者は
リヤカーを引く賢治
と写真の人物を賢治であると特定しているのに . . . 本文を読む
《「書簡227a 高橋六助あて(昭2・〔4・4〕)」
(『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より)》
〝昭和2年2月1日後の賢治(前編)〟の続きである。
3. 昭和2年2月1日付岩手日報報道
ついいままでは、昭和2年2月1日付(新聞題字の下の日付は1月31日)岩手日報のあの報道があったことにより、「羅須地人協会」の活動が社会主義教育の実践 . . . 本文を読む
《『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)》
以前〝昭和2年3月4日前後の宮澤賢治〟の最後を
今回『新校本 年譜』の4月10日の項目内容を新たに知ってとても驚いたのだが、そのことに関しては近々探ってみたい。
と締めくくったので、そのことに関して今回は触れてみたい。
1. 昭和2年4月10日の学習会
まずそれはどんな内容だったかというと
4月1 . . . 本文を読む
《↑ 花巻農学校卒業生宛の集会案内の葉書》
6.考察
ここでもう一度〝集会案内の葉書〟に関して気になることを確認したい。それは以下のようなことがらだった。
(1) 規約:何の規約か。羅須地人協会には規約はなかったはずだ。
(2) 春ノ集リ:規約による〝春ノ集リ〟とは何か。〝定期の集り〟と同じようなものか。
(3) 下根 . . . 本文を読む
《0↑ 『図説 宮澤賢治』表紙》
先日、花巻のとある書店で平積みされているこのブログの先頭のような文庫本の表紙が目に入った。手は自然に伸びていってその本を開いていた。
1.花巻農学校卒業生宛の集会案内
定価を見ると、ページ数が254pの文庫本なのになんと1,575円もするし、頁を繰ってみてもそれほど目新しい図版はなさそうだから買うことを躊躇っていたが、次 . . . 本文を読む
《↑ 伊藤ちえ》(『宮澤賢治と幻の恋人』より、河出書房新社)
梅雨も間もなく明けそうだが、今年の稲の生育状況はどうであろうか?と私のような者でさえも気掛かりなこの頃である。
昨今、田植えというものはかつてと違ってかなり早い時期に行われるようになったが、昔の岩手では入梅の直前にそれが行われていたと聞く。つまりその当時6月という月は農家にとっては〝猫の手も借 . . . 本文を読む
《↑かつての羅須地人協会の建物のあった周辺図》
どうもかつての下根子桜の宮澤家別荘周辺のイメージが湧かない。そこで私が勝手にイメージしたのがこのブログの先頭の図である。これは「花巻地籍図集成図」の一部に当時の周辺環境と思われるものを一部書き入れたものである。
菊池忠二氏の『私の賢治散歩』はこの周辺に関しては次のように説明している。
その途中で杉木立に三方を囲まれ . . . 本文を読む
《1↑『賢治とモリスの環境芸術』(大内英明編著、時潮社)》
『賢治とモリスの環境芸術』の中に「羅須地人協会」に関する伊藤与蔵の次のような証言が載っていた。
先生が別荘に住むようになって間もない頃でした。「この建物に名前をつけたいと思うがどんな名前にしたらいいだろう」とみんなに相談されたことがあります。私などは学問もないものですから「先生が考えられた名前をおつけにな . . . 本文を読む
《↑ 「この時代の農村風景」》
以前報告したものであるが、このブログの先頭の写真は『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていたものであり、そこには
賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
と注意書きがあった。
一方、これとそっくりな次の写真は『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている
《2 「リヤカーを引く賢治 羅須地人 . . . 本文を読む
《↑『私の賢治散歩下巻』(菊池忠二著)》
前回述べたように、私が知りたいのは下根子桜に集った人々から見た「下根子桜時代」に対する冷静な評価、あるいはその周辺に住んでいた人々の目から「下根子桜時代」が実はどう見えたかという評価の方である。遠くの都会から花巻を眺めたそれではなくて地元の人々が肌でどう感じたかという評価の方である。
1.身近な人の「下根子桜時代 . . . 本文を読む