宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

311 リヤカーを引く宮澤賢治

2011年03月11日 | Weblog
      《1↑「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」》
        <『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷(株))より>

 いままでいろいろな著書には、賢治は下根子桜
《2 羅須地人協会》

     <『宮沢賢治 地人への道』(佐藤成著、川島印刷(株))より>
で農耕自炊生活をしていた頃、その当時としては珍しいリヤカーに花や野菜を積んで、
《3 向小路(同心町)》

     <『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(天沢退二郎編、新潮社)より>
などを忙しく行き来したということが書いてあったが、実際どんな感じだったのだろうか。
 そうと思っていたところへ、それを如実に教えてくれたのがこのブログの先頭の写真「リヤカーを引く賢治」で、やはり『宮沢賢治の五十二箇月』の中に載っていた。
 リヤカーを牽く賢治の身なりは思いの外整っており、帽子もハイカラなものであった。とてもその当時の一般的な農夫の服装ではない。
 せめて、賢治も
《2 松田甚次郎

          <↑『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)より>
のように農夫らしい身なりをすればもっと周りの人からも受け入れられ易かったであろうに、とつい愚痴をこぼしたくなる。
 まして、今の時代はリヤカーといえば乗用車などと比べるとかなり廉価だと思うが、当時リヤカーは普通の農民にとって容易には入手できない高価な代物のであったそうだ。

 だから、次の詩には賢治が感じたまなざしの痛さが詠み込まれているのだろう。
 一〇四二
     〔同心町の夜あけがた〕                  一九二七、四、二一、
   同心町の夜あけがた
   一列の淡い電燈
   春めいた浅葱いろしたもやのなかから
   ぼんやりけぶる東のそらの
   海泡石のこっちの方を
   馬をひいてわたくしにならび
   町をさしてあるきながら
   程吉はまた横眼でみる
   わたくしのレアカーのなかの
   青い雪菜が原因ならば
   それは一種の嫉視であるが
   乾いて軽く明日は消える
   切りとってきた六本の
   ヒアシンスの穂が原因ならば
   それもなかばは嫉視であって
   わたくしはそれを作らなければそれで済む
   どんな奇怪な考が
   わたくしにあるかをはかりかねて
   さういふふうに見るならば
   それは懼れて見るといふ
   わたくしはもっと明らかに物を云ひ
   あたり前にしばらく行動すれば
   間もなくそれは消えるであらう
   われわれ学校を出て来たもの
   われわれ町に育ったもの
   われわれ月給をとったことのあるもの
   それ全体への疑ひや
   漠然とした反感ならば
   容易にこれは抜き得ない
     向ふの坂の下り口で
     犬が三疋じゃれてゐる
     子供が一人ぽろっと出る
     あすこまで行けば
     あのこどもが
     わたくしのヒアシンスの花を
     呉れ呉れといって叫ぶのは
     いつもの朝の恒例である
   見給へ新らしい伯林青を
   じぶんでこてこて塗りあげて
   置きすてられたその屋台店の主人は
   あの胡桃の木の枝をひろげる
   裏の小さな石屋根の下で
   これからねむるのでないか

     <『校本 宮澤賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>

 この詩に出てくる程吉と同様、周りの大人たちも、『金持ちの総領息子が先生を辞めてよりによって百姓のまねごとをやっているなんて、一体何考えて居るんだ』そう訝しく思ったであろうことも容易に想像できるし、またそれも無理からぬことでもあろう。

 そして気掛かりなことは、賢治が売ってみようと思ってリヤカーに積んだ雪菜やヒヤシンス、はたまた花キャベツやチューリップははたして売れたのだろうかということである。
 もし大正15年のことならば稗貫・紫波一帯は引き続く旱魃被害のために、そしてもし昭和3年ならばやはり旱魃のために、農村は稲作による収入がはかばかしくなく、とてもとてもヒヤシンスやチュウリップなどを買ってやるような金銭的な余裕などは多くの人々になかったと思う。

 一方、賢治は周りの大人からは嫉視されていると感じ、そして彼等を詰りたくなる賢治の苛立ちもまた解らないでもない。

 しかし現実は、当時は珍しいリヤカーを牽いて向小路を行き来する賢治を手ぐすね引いて待っていたのは『あのこども』だけだったのかもしれない。『いつもの朝の恒例』ということだから、おそらくヒヤシンスやチュウリップなどの花は売れ残るのが常であり、その売れ残りを呉れ呉という子供達だけが賢治を心待ちにしていたのだった、そいういうことだったのかもしれない。 
 というわけで、下根子桜自活当時の賢治のイメージをつかむことが出来たと思っていたのだが、次のような写真が『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていた。
《3 この時代の農村風景》

          <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
そして、
 『賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。』
と注意書きがあるではないか。
 見比べてみると明らかに同一写真である。平来作が持っている写真だというし、まして花巻の農道を当時こんな服装をして花巻に20台もなかった(『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、文春文庫))といわれるリアカーを引いている男なんて賢治の他にいたのだろうか…。←このとんでもない顛末は後ほど〝賢治詩碑への道・リアカーを牽く賢治?〟で明らかに出来た。

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2 コメント

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Unknown (宮沢賢治)
2019-11-29 19:25:17
宮沢賢治
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Unknown (藤岡静香)
2019-11-29 19:26:16
西端朋子
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