羅須地人協会の真実
3年前程から私の中で崩れ始め、その後もどんどん崩壊し続けているものがある。それは私の中の「羅須地人協会」のイメージである。そしてそれは、巷間流布している「羅須地人協会」でもあるような気もする。
かつての私は、「羅須地人協会時代」とは賢治が下根子桜の宮澤家別宅に住まって自分の命を削りながら農民のために献身した5年程の期間のことをいうと思っていた。実際、『年譜 宮澤賢治伝』( . . . 本文を読む
堀尾の単独担当
ところで、『修羅はよみがえった』には次のようなことが述べられていた。
そもそも旧校本全集第十四巻所収の年譜は、故堀尾青史氏の単独担当で、氏の多年にわたる努力、資料収集のつみかさね、「評伝」の刊行などの達成にもとづくもので…(略)…
新校本全集でも、基本的にが土台となっている。…(略)…新校本全集は、堀尾氏の記述を出来うる限り尊重しながら、出来るかぎりその出所出典を客観的に再調 . . . 本文を読む
あまりにも理不尽
以前に述べたように、昭和31年に『岩手日報』紙上に連載された「宮澤賢治物語」において紹介された「澤里証言☆」であったが、それが昭和32年に単行本として出版された段階ではこの証言は意味が全く逆になるように改竄されたということは詳述したところである。心の底では、「どう考えても昭和二年十一月頃」のことであったと確信していたと思われる澤里武治にしてみれば重ね重ねの衝撃であり、さぞかし忸 . . . 本文を読む
現時点ので最終的結論
さてここまで考察してきた結果、
「澤里証言☆」を典拠としているはずの〝大正15年12月上京の現通説〟だが、この証言に基づく限り実は「現通説」は自家撞着に陥っているとしか私には思えない。
一方で、そうではなくてこの証言をつまみ食いせずに素直に生かして合理的に推論すれば、
宮澤賢治は昭和2年11月から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京してチェロを勉強したが、病気になって花 . . . 本文を読む
(承前)
では次の頁を見てみる。次のようになっていた。
【12p~13p 第一の位置 各指の位置】
練習が始まったばかりの2頁目だというのにもう〝指の位置〟とあるから、早速左手の練習ということになるのではなかろうか。素人の私から見ればもうゾッとするような楽譜である。
そういえば例の賢治の「チェロ学習ノート」からは、右手の学習はかなりなされたようだが、左手のそれはほとんど深ま . . . 本文を読む
『ウエルナーの教則本』
前回、『ウエルナーの教則本』に対しても可能かどうかをやはり調べる必要があるのでその現物を見てみたいものだ、と私はつぶやいたのだが、この度『ウエルナーチェロ教則本』を手に入れた。この本が大津三郎から貰った『ウエルナーの教則本』と同一のものか否かは私にはわからないが、基本的には酷似しているであろう。
さてその中身である。まず同書の1p~10pには . . . 本文を読む
やはり約3ヶ月間滞京
では、「澤里証言☆」の残りについてここでは少しく考えてみたい。それは次のようなものであった。
滞京中の先生は、私達の想像することも出来ないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。…(略)…
手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸を . . . 本文を読む
(2) 澤里一人賢治を見送る
では今回は、「澤里証言☆」の次の部分についてである。
その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。 . . . 本文を読む
「澤里証言☆」からわかること
ここまで下根子桜時代の賢治の上京等を調べて来てみてもう一度件の「澤里証言☆」を読み直してみると、その真相と、併せて証言を改竄したX氏の思惑が垣間見えてくるような気がする。
(1) 澤里はどの「宮澤賢治年譜」を見ていたか。
まずはこの証言の最初の部分についてである。
どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は . . . 本文を読む
チェロは殆ど上達せず
さて、前述したように
楽団を解散はしたものの、少なくとも昭和2年の秋頃までの賢治はチェロの練習をあの〝一年の計〟に則って一生懸命続けていたであろうと思われる。
のだが、その頃の賢治のチェロの腕前はどうであったか。残念ながらそれは、少なくとも教え子澤里の証言「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかった」とか、友人藤原嘉藤治の証言「それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼 . . . 本文を読む
大正15年12月の上京以降
この澤里武治の証言に関連して、
〝大正15年12月の上京前後~昭和2年11月の上京前〟
の間の賢治の営為について確認しておきたい。今までの考察と「新校本年譜」等を基にして次のようなものであると私は判断している。
【大正15年12月の上京前後~昭和2年11月の上京前】の賢治
11月22日 この日付案内状を伊藤忠一方へ持参。配布依頼。
11月29日 「肥培原理習得上必須 . . . 本文を読む
まとめ
澤里武治の証言の真実
昭和31年の『岩手日報』に連載された『宮澤賢治物語(49)、(50)』で澤里武治は次のような証言(以降この証言を「澤里証言☆」と略記する)をしている。
どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミ(ママ)ーナ氏の . . . 本文を読む
《再掲:下根子桜時代の詩創作数》
さて昨今では全く通説ではなくなってしまったが、かつての殆どの「宮澤賢治年譜」では
昭和2年9月に賢治は上京した。
となっていた。そこで以下に少しくこれを裏付けるための思考実験をしてみたい。
思考実験
このことは澤里武治の証言によってもある程度裏付けられそうな気がする。
それは以前にも引用した昭和31年2月22日付『岩 . . . 本文を読む
《再掲:下根子桜時代の詩創作数》
賢治に何が起こったのか
ところが、先の図表からわかるように9月になると創作数は突如激減して2篇のみとなり、その後の10月~3月の半年間はなんと1篇すら詠まれていない。一体そこにはどんな心境の変化が賢治には起こっていたのだろうか。それまでが亢進期であったとみれば、ここからは抑鬱状態に陥ったとみることもできる。あるいは、そこにはよ . . . 本文を読む
上達しなかった賢治のチェロ
さて、
楽団を解散はしたものの、賢治はチェロの練習をあの?一年の計?に則って一生懸命続けていたであろうと思われる。と結論してはみたものの、賢治のチェロの腕前が上がったかというとそれはまったく上達しなかったとならざるを得ない。
それは、親友藤原嘉藤治も愛弟子澤里武治も共に後年それぞれ次のように証言しているからである。
・沢里は潜めて打ち明けた。「実のところをいうと、 . . . 本文を読む