賢治のオルガン演奏技能
昭和48年に井上敏夫氏が藤原嘉藤治と行った「思い出対談 音楽観・人生観をめぐって」の中で次のようなことが語られている。
◎ 宮沢君の音楽は視覚型
井上 音楽的には、宮沢賢治はチェロのほかに何かやってましたか。
藤原 オルガンをやっていました。しかし、それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした。だが、音楽を感じることに関してはとっても優 . . . 本文を読む
大正15年12月チェロを持たずに上京
「新校本年譜」は大正15年12月2日、
セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。……①
としている。しかしもしこの時に賢治がチェロを持って上京したとするならば、この上京の大きな目的の一つに〝チェロの学習〟があったということになるはずである。
ところが、この滞京中に賢治が政次郎に宛てた書簡[221](1926年12月12日付)(『校本宮澤賢治全集第十三巻』 . . . 本文を読む
《『賢治のセロのサイン』》
大正15年賢治チェロ購入
賢治のチェロには、その胴の中に
1926.K.M.
というサインがあるということは聞いていたが、それはこのブログの先頭に挙げた写真のようなものであると『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)の口絵に載っていた。
「1926」とはもちろん1926年、すなわち大正15年のこと
だろうし
「K.M.」とはKennji Mi . . . 本文を読む
ご懇なお手紙
以前投稿した賢治の〝書簡[246]〟における二つ目の証言とした
・〝ご懇なお手紙〟を寄越したこの人は賢治が病気であったということを知っていた。についての考察がまだ残っているので、ここではそのことについて少しだけ述べてみたい。
そのためにまずはその下書を以下に再掲してみる。
[246〔(1928年)十二月 あて先不明〕下書]
昨日はご懇なお手紙を戴きましてまことに辱けなく存じます。 . . . 本文を読む
いわゆる「ノイローゼ」?
ここでは先にも触れた、かつてはどの「賢治年譜」にも載っていたあの
昭和3年1月 …栄養不足にて漸次身體衰弱す。…
の中の特にこの〝身體衰弱〟について少しく考えてみたい。
さて、私が持っている辞典ではいくら引いてみても〝身體衰弱〟なる用語は見つからない。とするとこれは専門用語ではなくて〝身体の衰弱〟という程度の意味での使用だったのでろうか。でもそれならば年譜にわざ . . . 本文を読む
さてここでは、賢治自身の次のような書簡下書によって仮説〝♣〟を検証してみたい。
書簡[246]
賢治には次のような書簡下書が残っているという。
[246〔(1928年)十二月 あて先不明〕下書]
昨日はご懇なお手紙を戴きましてまことに辱けなく存じます。当地御在住中は何かと失礼ばかり申し上げ殊にも私退職の際その他に折角のご厚志に背きましたこと一再ならずいつもお申し訳なく存じて居ります . . . 本文を読む
今回は、下根子桜時代の賢治の詩の創作数の推移から仮説〝♣〟の検証を試みたい。
下根子桜時代の詩の創作数
宮澤賢治の下根子桜時代の詩の創作数を「新校本年譜」を基にして数え上げてみた。それを月毎に表にすると下表のようになるし、これをグラフ化して詩の創作数の推移を眺めてみると同じく下図表となる。。
これらの表からは、
・賢治が羅須地人協会の活動 . . . 本文を読む
上京に関する高橋光一の証言
さて、賢治の下根子桜時代に関して高橋光一の次のような証言がある。
東京へも何回か行かれました。
「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ……。」などと云って、本だのレコードだのほかの物もせりにかけるのですが、せりがはずんで金額がのぼると「じゃ、じゃ、そったに競るな!」なんて止めさせてしまうのですから、ひょったな(變な)「おせり」だったのです。「お土産」と云って、はだか . . . 本文を読む
チェロの腕前に関する証言
以前から、宮澤賢治のオルガンやチェロの腕前の本当のところを知りたいと思っていた。かつて私は賢治は相当の腕前であったであろうとばかり思っていたのだが、どうもそうとばかりいえそうもないようだという声も聞こえてくるからだ。
そんな折、『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)を読んでいたならば、著者の横田氏は次のようなことなどを著していた。
(1) そこで、賢治のチ . . . 本文を読む
【↑佐々木実あて封書〔集会案内〕(消印は15・11・?)】
大正15年12月2日頃の賢治
賢治大正15年12月2日の通説は
セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難 . . . 本文を読む
糠喜び・私の失敗
今回は私の失敗を報告をする。それは、『宮沢賢治とその周辺』の中の書簡の記述内容が仮説〝♣〟の傍証となると思って一瞬喜んでしまったのだが、それは私の詰めが甘かったことによる誤解であり糠喜びだった。それは次のようなものであった。
***************************** 「私の失敗」 *****************************
「19 . . . 本文を読む
では、ここからはまだ検討していない残りの証言によって仮説〝♣〟の検証を続けて行きたい。
(2) 伊藤清の証言
関登久也の『宮澤賢治物語』の中に伊藤清の次のような証言がある。
地人協会時代に、上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。東京での色々のお話も伺いましたが、今は記憶しておりません。 もちろん上京したのは宮澤賢治である。
一般には、賢 . . . 本文を読む
4 証言等による検証(Ⅱ)
では再び元に戻って、まだ残っている証言等によって次の仮説
宮澤賢治は昭和2年11月から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京してチェロを勉強したが、病気になって花巻に戻った。………♣を検証していきたい。いくらこの仮説〝♣〟を裏付けそうな証言等があったとしてもたった一つの反例でこの仮説はあっけなく破綻してしまうのでちょっとスリリングな旅の再開である。 . . . 本文を読む
話の都合上、まず前回の最後の方に挙げた項目を再掲しておく。
①従前の「通説」として(ア)と(イ)があった。
②昭和31年頃を境として以後(ア)と(イ)が「賢治年譜」から抹消されていった。
③大正15年12月2日の「現通説」は澤里の『宮澤賢治物語(49)&(50)』に基づくものである。
④この『宮澤賢治物語』の中で澤里は、
そして先生は三か月の間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気 . . . 本文を読む
羅須地人協会の評価
それにしても、羅須地人協会についてはあまりにもわかっていないことが多すぎることにただただ驚くばかりだ。そして一方で、私は下根子桜時代のことを知れば知るほど賢治にとってその時代とは一体何だったのかがますますわからなっていくので、その時代の賢治の総体をどう評価すればいいのか未だに皆目見当がつかない。
では一般にはどのようにそれは評価されているのだろうか。たとえば、佐藤通雅氏は『 . . . 本文を読む