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『地上の賢治』の目次

《賢治研究の真の発展のために》          『地上の賢治』の目次 ・ある卒業式の式辞から ・賢治の甥の嘆き ・「独居自炊」とは言い切れない ・涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ ・「大正15年12月2日の上京」のあやかしな典拠 ・誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」 ・『春と修羅 第三集』の感動と虚構そして嘘 ・「一九二八年の秋の日」の変更の無茶 ・露は〈悪女〉などでは決してない ・賢治昭 . . . 本文を読む
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賢治が歩いたのは地上

《賢治研究のさらなる発展のために》『言葉の流星群』より  最近、池澤夏樹氏が『言葉の流星群』の「はじめに」において、  どうも世間は最初から生活の濃い影を作品に重ねるような読み方でこの詩人を理解しようとしたようだが、ぼくはそういう姿勢を好まない。生活よりも才能の方が大きかった人の場合、伝記を重視すると才能が生活のサイズまで縮んでしまう。だから、ここではテクスト群だけを相手に、伝記的なことはあまり触 . . . 本文を読む
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蛇足(あまり知られていない重要事項など)

《賢治研究のさらなる発展のために》あまり知られていない重要事項 ・関登久也の「澤里武治氏聞書」や「女人」の生原稿等が日本現代詩歌文学館に所蔵されている。 ・ある年の10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡が存在していて、そこには賢治と結びつけられることを拒絶するちゑの懇願も書かれている。 ・菊池氏忠二氏は柳原昌悦本人から、『一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見 . . . 本文を読む
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「賢治研究」に横たわっている大きな課題

《賢治研究のさらなる発展のために》 さて先に述べたように、 (1) 「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れない。 (2) 千葉恭が賢治のところに時に来ていたということの客観的な裏付けができた。 (3) 現「賢治年譜」の大正15年12月2日は訂正が必要である。 (4) 「昭和六年七月七日の日記」における高瀬露に関する記述は事実とは言いがたいものが多い。 (5) 「羅須地 . . . 本文を読む
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新たに検証できたことなど

《賢治研究のさらなる発展のために》 それでは、今までに新たに明らかにできたことなどを基にして仮説を定立し、かつ検証できた結果等のうち、その主なものを以下に挙げてみる。 (1)  「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れない。  仮説:千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の . . . 本文を読む
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今までに明らかにできたこと

《賢治研究のさらなる発展のために》 さて、開けてしまった私の目の前のパンドラの箱もこれでほぼ出し尽くしたようなので、ここで整理してみたい。  賢治の「羅須地人協会時代」とはわからないことだらけだったと言ってもいいと一時期思っていたが、私としてはこれまでにいくらかは明らかにできたと思う。その主なものは以下のとおり。多分、公にはいずれも私が最初に明らかにした、あるいは指摘したことだと思う。 ・①千 . . . 本文を読む
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賢治宛来簡の公表を

《賢治研究のさらなる発展のために》 さて、『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)は昭和52年に、「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定して、「新発見」の書簡下書が見つかったと銘打って同巻の「補遺」においてそれらを公表したわけだが、同巻をいくら読んでもそこから一般読者が「判然としている」ということの典拠などは全く見つけることができない。  さりながら、それらが全くなくてそう嘯いて活字 . . . 本文を読む
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判然としている理由は何か

《賢治研究のさらなる発展のために》自己満足  以上で、「羅須地人協会時代」におけることで私が主張したり、述べたりしたいことはほぼ終わった。これで、恩師の岩田純蔵教授(宮澤賢治の妹シゲの長男)が今から約50年ほど前に、  賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。というような意味のことを私たちを前にし . . . 本文を読む
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「羅須地人協会時代」終焉の真相

《賢治研究のさらなる発展のために》   ずっと以前から疑問に思ってきたことがある、あの「演習」とは一体何のことだったのだろうかと。  それは、宮澤賢治が愛弟子の一人澤里武治に宛てた昭和3年9月23日付書簡(243)、 お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れ . . . 本文を読む
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賢治昭和二年の上京はやはりあった

《賢治研究のさらなる発展のために》 さて、先の〝「大正15年12月2日の上京」のあやかしな典拠〟において、私は  『新校本年譜』等が「典拠」にしているはずの澤里武治の証言自体が、この証言を現「大正15年12月2日の上京」の典拠とすることはできない。ということを示したし、それを否定できるだけの反例は今のところ突きつけられていない。 柳原の証言  では、その証言はどう「賢治年譜」に活かされ、活かされ . . . 本文を読む
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露は〈悪女〉などでは決してない

《賢治研究のさらなる発展のために》上田哲の再検証  平成8年、当時七尾短大の教授だった上田哲が論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」を『七尾論叢』において公にした(ただし未完に終わっている)。その中で、上田は例えば、  露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。…(投稿者略)…この話はかなり歪め . . . 本文を読む
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「一九二八年の秋の日」の変更の無茶

《賢治研究のさらなる発展のために》「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」のあやかし  残念なことに、『新校本年譜』の昭和2年の中に、  秋〔推定〕森佐一(森荘已池)「追憶記」によると、「一九二八年の秋の日」村の住居を訪ね、途中、林の中で、昂奮に真っ赤に上気し、ぎらぎらと光る目をした女性に会った。家へつくと「今途中で会つたでせう、女臭くていかんですよ……」と窓をあけ放していて…(投稿者 . . . 本文を読む
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『春と修羅 第三集』の感動と虚構そして嘘

《賢治研究のさらなる発展のために》 かつては、あの中村稔でさえも「宮沢賢治の作品の詩作のある頂点を示すものである」とべた褒めだからというわけでもないが、そしてほとんど詩の鑑賞能力もない私ではあるのだが、『春と修羅 第三集』の「〔あすこの田はねえ〕」や「和風は河谷いっぱいに吹く」にはとても感動したものだった。  ところが、賢治がS2/07/10付で詠んだ〔あすこの田はねえ〕における    あっちは少 . . . 本文を読む
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誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」

《賢治研究のさらなる発展のために》 時どき、 賢治に関する論考等において、 ・私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。 ・昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨 . . . 本文を読む
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「大正15年12月2日の上京」のあやかしな典拠

《賢治研究のさらなる発展のために》 似たようなことがまだある。『新校本年譜』には、大正15年の 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ . . . 本文を読む
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