残念ながら、私が手に入れることが出来た【千葉恭関係文献等】に全て目を通してみたのだが、千葉恭の下根子桜の別荘寄寓の「暦日や期間」はそれらの中のいずれにも、どこにも明確には書かれていなかった。最初はそんなことはすぐに判るだろうとたかをくくっていた私はすっかり落胆してしまった。こうなれば資料から探ることは諦め、原点に立って千葉恭の出生地を訪ねてみよう、と思い立った。
1. 千葉恭の古里盛町へ
とい . . . 本文を読む
『宮澤先生を追つて(四) 』の続きである。
3. 賢治の肥料設計
千葉恭の『宮澤先生を追つて(四) 』の後半部分には「肥料設計」と題して次のようなことが述べられている。
(1) 「肥料設計」
羅須地人協会の仕事も忙しかったのでした。秋も過ぎ東北独特の冬が來て五、六尺の雪が積もつた花巻の町角のせまい土間を借りて、百姓相手に土壌の相談と肥料設計に、時には畫食も夕食も食はずに一日を過ごすこともあり . . . 本文を読む
ではここでは『宮澤先生を追つて』シリーズに戻って、その中の4回目『宮澤先生を追つて(四)』を見てみよう。
1. 岩田屋に売った蓄音機
この『宮澤先生を追つて(四)』の前半には、千葉恭が蓄音機を売りに行ったというエピソードは以前〝『イーハトーヴォ』復刊5号より〟でも触れたことがあるが、ここにも似た様なことが載っている。とはいえ、こちらのそれは前述のそれとは似ていても違うところがあり、こちらでは千 . . . 本文を読む
ではここでは「宮澤先生を追ひて」のシリーズはちょっと中断し、時系列を考えて「賢治抄録」(『宮澤賢治研究』(昭和33年))の方を先に見てみたい。それは次のような大正14年のエピソードである。
大正十四年は豊作に近い年で、季候も良いのであつた、晴れ勝ちな日が多い年であつた。十月二十日役所に出勤し、何かと忙しく働き夕方下宿先の鎌田旅館に歸った時、宿の主人は「あなたところに宮澤先生から電話がありました . . . 本文を読む
では今回は『 四次元』(宮沢賢治友の会)の5号に戻って、そこに載っている千葉恭の「宮澤先生を追ひて(二)」を見てみたい。
1.千葉恭の帰農と研郷會
先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたの . . . 本文を読む
今回は「宮澤先生を追つて(二)」の報告をしようと思ったが、時系列を考慮して先に「宮澤先生を追つて(三)」の報告をすることとした。
それは大正15年の、下根子桜における賢治と千葉恭との共同生活に関わる次のようなものである。
1.下根子桜の朝の賢治
「宮澤先生を追つて(三)―大桜の実生活―」
大正十五年の春、先生は農學校を退いてから、花巻町の南端大櫻というに移りました。東は北上川に . . . 本文を読む
では今回からは、『 四次元』の中に千葉恭がシリーズで連載した「宮澤先生を追ひて」を見てみたい。
1.賢治と出会う前までの千葉恭
まずはその第一回目の4号(昭和25年1・2月合併号)から見てみよう。千葉恭は次のようこに述べている。
現代社會の別の世界を求めてそこに生きて行くことが私の今の心であり實行であるのです。私が先生と知り合つたのは大正十三年秋、私がまだ十九歳の大人の世界に立ち入る境で、 . . . 本文を読む
では今回は昭和29年12月21日に行われた千葉恭の講演後の質疑応答を見てみたい。
それは『イーハトーヴォ』復刊5号(昭和30年5月、宮沢賢治の会)に「羅須地人協会時代の賢治」として掲載されていた。その中から幾つか抜粋してみる。
1.講演後の質疑応答
問 賢治の農民指導の態度について。
答 一年生には二年生に教える気持ちで、又二年生には三年生に教える気持ちで接しなければならない。人間は余り偉くな . . . 本文を読む
ではまずは『イーハトーヴォ』復刊2号(宮沢賢治の会、Jan-55)を捲ってみよう。
ありました、ありました。この冊子の中には千葉恭が「羅須地人協会時代の賢治」というタイトルで行った講演(昭和29年12月21日の「賢治の会」例会における)の内容が綴られていて、次のようなことなどが記述されていた。
文学に関しては、私は何も知ることはありませんが、私が賢治と一緒に生活して参りましたのは私自身百姓に . . . 本文を読む
イーハトーブ館は大変親切だ。一般人に対しては資料を見せてくれるし、「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」の会員になればそのコピーも出来る。
まずはタウン誌『ふるさとケセン67号』(ふるさとケセン社、平成14年3月)を見せてもらった。
この冊子の中で佐藤成氏は「賢治とケセン⑫ 賢治と千葉恭のこと」というタイトルで次のようなことなどを述べている。
賢治が花巻農学校の教師三年目を迎えた大正13年の . . . 本文を読む
『えっ違ったんだ。「独居自炊」じゃなかったんだ!』
私は不意に後頭部を殴られたような眩暈を感じた。宮澤賢治といえば下根子桜の時代は独居自炊であったとばかり思っていた。それが、そこには次のように書かれてあるではないか。
賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊まりしていた千葉恭で六時頃講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
と。これは校本全 . . . 本文を読む
《「書簡227a 高橋六助あて(昭2・〔4・4〕)」
(『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より)》
〝昭和2年2月1日後の賢治(前編)〟の続きである。
3. 昭和2年2月1日付岩手日報報道
ついいままでは、昭和2年2月1日付(新聞題字の下の日付は1月31日)岩手日報のあの報道があったことにより、「羅須地人協会」の活動が社会主義教育の実践 . . . 本文を読む
《『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)》
以前〝昭和2年3月4日前後の宮澤賢治〟の最後を
今回『新校本 年譜』の4月10日の項目内容を新たに知ってとても驚いたのだが、そのことに関しては近々探ってみたい。
と締めくくったので、そのことに関して今回は触れてみたい。
1. 昭和2年4月10日の学習会
まずそれはどんな内容だったかというと
4月1 . . . 本文を読む
《↑ 花巻農学校卒業生宛の集会案内の葉書》
6.考察
ここでもう一度〝集会案内の葉書〟に関して気になることを確認したい。それは以下のようなことがらだった。
(1) 規約:何の規約か。羅須地人協会には規約はなかったはずだ。
(2) 春ノ集リ:規約による〝春ノ集リ〟とは何か。〝定期の集り〟と同じようなものか。
(3) 下根 . . . 本文を読む
《0↑ 『図説 宮澤賢治』表紙》
先日、花巻のとある書店で平積みされているこのブログの先頭のような文庫本の表紙が目に入った。手は自然に伸びていってその本を開いていた。
1.花巻農学校卒業生宛の集会案内
定価を見ると、ページ数が254pの文庫本なのになんと1,575円もするし、頁を繰ってみてもそれほど目新しい図版はなさそうだから買うことを躊躇っていたが、次 . . . 本文を読む