宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

改竄されていた『宮澤賢治物語』

2017年01月09日 | 常識でこそ見えてくる
















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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
  改竄されていた『宮澤賢治物語』
 さて、私がどうして先の〝「大正15年12月2日の上京」の牽強付会〟の項において、この時の上京の仕方はおかしいぞということに気付いたのかといえば、それは〝「関『随聞』二一五頁」〟によってだった。つまり『賢治随聞』(関登久也著)の215pにあるつぎのような「沢里武治氏聞書」の中に載っている、
  沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
 <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書、昭和45年2月)、215p>
によってだ。そして、この証言の最後の部分「先生は三か月間の…帰郷なさいました」が「旧校本年譜」や『新校本年譜』において完全に無視されていることに気付いてこれはおかしいぞと思ったのだった。
 つまり、基本に忠実にその典拠を確認しただけのことでこのおかしさに容易に気付けたのである。そしてこのことに関してはこのおかしさだけに収まらず、さらにおかしいことが芋づる式に出てくるのである。まさに「パンドラの箱」だった。

 さてその後、これと似た次のような澤里の証言が『宮澤賢治物語』(岩手日報社版)にも載っていることを知った。
   セロ
      沢里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(筆者略)…言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(筆者略)…その十一月のびしよびしよ霙の(みぞれ)降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。発たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待つておりました。
   <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、
昭和32年8月発行)、217p~>
 そうか、〝「関『随聞』二一五頁」〟出版以前に既に澤里武治のこの証言は公にされていたんだ。ならばどうしてこちらの方をその典拠としないのか、それはないだろうという不信感が芽生えた。
 しかも私はこの文章を読んでおかしいと感じた。あいまいな文章であり、意味が通じないからである。そしてもちろんその一番の原因は、
  昭和二年には上京して花巻にはおりません。……★
の一言にある。それは、この〝★〟のような書き方ならば、賢治は昭和2年には上京していて花巻には不在だったということになり、それ以降の証言内容と辻褄が合わなくなっているからだ。しかし、歌も詠むし、著作も多い関登久也が、はたしてこのようなあいまいな書き方をするのだろうかと私は訝しく思った。
 釈然としないままに同書の「後がき」を次に見てみたならば、そこには次のようなことも述べられていた。
 「宮沢賢治物語」は、岩手日報紙上に、昭和三十一年一月一日から同年六月三十日まで、百六十七回にわたつて連載された。歌人であり賢治の縁者である関登久也氏にとつて、この著作は、ながい間の懸案であつた。新聞に掲載されるや、はたして各方面から注目されるところとなつた。完結後、単行本にまとめる企画を進めていたのが、まことに突然、三十二年二月十五日、関氏は死去されたのである。
 不幸中の幸いとして、生前から関氏は、整理は古館勝一氏に依頼していたということを明らかにしていた。監修は賢治の令弟宮沢清六氏におねがいし序文は草野心平氏に書いていたゞいた。本のカバーは賢治の詩集『春と修羅』の装幀図案を再現したものである。
               (出版局・栗木幸次郎記)
 <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、
昭和32年8月発行)、288p>
そこで私の頭にある考えが閃いた。
 ということは、同書が上梓される前に関登久也は急逝してしまったので最後の方の段階では他の人が整理、編集して出版したということになろう。ならば、岩手日報紙上に載った本家本元の「宮沢賢治物語」そのものを確認する必要があることを悟った。もしかすると『岩手日報』紙上に載ったものは単行本のものと違っている可能性がある。
と。ちなみに関は昭和32年2月15日に急逝していた。
 さて、ではその本家本元はどうなっているのか。それは次のようなものであった。
  宮澤賢治物語(49)
  セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(筆者略)…言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
   …(筆者略)…
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりました
        <昭和31年2月22日付『岩手日報』)>
 そこで落ち着いてもう一度両者を見比べてみると、一箇所だけ全く違っている箇所があり、やはりな、と私は頷いた。それはいみじくも、
 ・単行本の『宮澤賢治物語』の場合
   昭和二年には上京して花巻にはおりません。……★
 ・新聞連載の「宮澤賢治物語」の場合
   昭和二年には先生は上京しておりません。………☆
の部分であったからだ。この両者はまさに似て非なるものである。意味としては全く逆であり、決定的な違いがある。★ならば賢治は上京していることになるし、☆ならば上京していないということになるからだ。しかも、☆ならば、つまり新聞連載の「宮澤賢治物語」の方であれば文章全体としても辻褄が合い、意味もすんなりと通ずる。もちろん新聞連載の方の☆は関登久也存命中のものであり、この☆の方が本来の澤里武治の証言であることがほぼ明らかであろう。
 ということは、連載「宮澤賢治物語」を単行本『宮澤賢治物語』として出版する際に、
 ・関登久也以外の人物がたまたま間違えた。
ということが起こったか、あるいは
・関登久也以外の人物がわざとある意図の下に書き変えた。
という行為があったと考えられる。
 さて、では実際にはどちらの方が起こっていた蓋然性が高いか。私は、後者の方が高いと見た。なぜならば、他の箇所は基本的には違っていないのにもかかわらず唯一この箇所だけが違っていて、なおかつ★と☆とでは全く逆の意味になってしまうからである。それも重要な意味を持っている一文だからである。
 したがって常識的に考えれば、やはりここは改竄が行われていたと判断できる。そしてまた、こうまでもして改竄せねばならなかった理由は何なのか、ということを想像しただけで私はちょっと戦慄を覚えてしまった。それにしてもこの書き変えが意図的なものであったとするならば、その巧妙さに私はただただ呆れるばかりだった。
 なお、この澤里武治の証言の初出は何においてかというと、『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)所収の「澤里武治氏聞書」においてであった。そしてその中身は、
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
<『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、
昭和23年)、60p~>
であった。
 それから私は偶々、この生原稿は「日本現代詩歌文学館」に所蔵されていることを発見したのだが、それは、『昭和19年3月8日付 原稿ノート』というタイトルの一番最初に書かれている次のようなものであった。
    三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村(〈註一〉)に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。 「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
 其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。」折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。
 最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。セロに就いての思ひ出は、先生は絶対に、私にもセロに手を着けさせなかった事です。何かしら尊貴なもをにの対する如く、私以外の何人にもセロには手を着けさせるやうな事はありませんでした(〈註二〉)。
 <関登久也の『原稿ノート』(「日本現代詩歌文学館」所蔵)>

 そこで次に、時系列に従ってこれらの問題箇所を並べてみると
(1) 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。
                (生原稿、昭和19年)
→(2) 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。
            (『續 宮澤賢治素描』、昭和23年)
→(3) どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、        (『岩手日報』連載、昭和31年)
→(4) どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、         (『宮沢賢治物語』、昭和32年)
→(5) 昭和二年十一月ころだったと思います。
(『賢治随聞』、昭和45年)
となり、
   生原稿や初出の時には:「確か」
であったのが、
  『岩手日報』連載の時は:「どう考えても」
となっているのでこの変化に注目してみれば、前者の「確か」の意味は「まず間違いなく」という意味だし、その部分が後者において「どう考えても」と変化していることからは、『岩手日報』連載の頃になったならば誰かに「そうではない」と否定されてはいるが、自分はとてもそうとうは思えないという澤里のもどかしさが読み取れる。
 だからこのことから逆に、
 霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治はひとり見送る澤里に言い残して、チェロを持って上京したのは、昭和二年十一月の頃であったということを、澤里は相当の自信と確信を持っていた。
ということが分かる(〈註三〉)。
 したがって、一連の澤里の証言の中で信頼できるのは(1)~(3)であり、とりわけ(2)は初出であるから、このことに関する澤里の証言を典拠にするのであれば、本来最もそれにふさわしいのは初出であるところの(2)『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」である、と言えるだろう。
 そして同時に、何者かが『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)において改竄していただけでなく、もう一つおかしいことが起こっていることにも気付く。それは最後に掲げた(5)の、
  昭和二年十一月ころだったと思います。
だけが、それ以前の表現の仕方と極端に違っていることからも垣間見られるのだが、実はこの出版時期は昭和45年だから、著者名が関登久也となっているものの関は昭和32年に既に亡くなっているので、関以外の人物が「関登久也著」と銘打って同書の出版をしていたということに、だ。
 そしてそれは、『賢治随聞』次のような「あとがき」から明らかになる。
     あとがき           森荘已池
 …(筆者略)…関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』、そして『宮沢賢治物語』である。…(筆者略)…
 さて、直接この本についてのことを書こう。
『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。そのため重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した。こんにち時点では、調べて正すことのできがたいもの、いまは不明に埋もれたものは、これは削った。…(筆者略)…賢治を神格化した表現は、二、三のこしておおかたこれを削った。その二、三は、「詩の神様」とか「同僚が賢治を神様と呼んだ」とかいう形容詞で、これを削っても具体的な記述をそこなわないものである。
 なお以上のような諸点の改稿は、すべて私の独断によって行ったものではなく、賢治令弟の清六氏との数回の懇談を得て、両人の考えが一致したことを付記する。願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
…(筆者略)…この本はかたい研究書とはちがうが、賢治研究の根本資料としての真価に、さらにうるわしい花をそえているということができよう。
 昭和四十四年九月二十一日
    <『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)、277p~>
 私は一読して後味の悪さを覚えた。そして思ったことは三つあり、その第一は、
『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。…(筆者略)…これを削っても具体的な記述をそこなわないものである。
の部分であり、他人の著書をこのような理由だけで改稿して新たに出版することがはたして許されるのだろうか。一体森はだれの許可を得てこのようなことをしたのだろうか。この時点ではもう既に関本人のみならず関夫人のナヲも鬼籍に入っているはずだからご遺族のどなたかには了解を得たのではあろうが、この点についても森は全く触れていない。
 その第二は、
 なお以上のような諸点の改稿は、すべて私の独断によって行ったものではなく、…(筆者略)…願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
の部分についてである。他人の著作を独断ではないといっても、宮澤清六と懇談した上で二人の考えが一致したから改稿するということがはたして許されるのだろうか。まして、他人の著書をいわば換骨奪胎しておきながら、その原本を引例することは避けて自分等が改稿した方の著作を読めと推奨するということは、物書きを生業とする者に悖る行為なのではなかろうか。
 そして第三は、注意深くこの「あとがき」を読んで気付くのだが、最初の方では
 関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』、そして『宮沢賢治物語』である。
と言っておきながら、この最後の『宮澤賢治物語』についてだけはその後に言及がないことにである。これらの三冊は共通する部分がすこぶる多いのに、なぜこの『宮澤賢治物語』と『賢治随聞』の関連を一言も述べなかったのだろうか。まるで、著書の関以外の何者かの手によって改竄が行われていた『宮澤賢治物語』だけはここでは無視されたかの如き印象を受けてしまう。
 以上の三つは私にとっては不可解なことであり、これらのことが後味の悪さを覚えた理由かなと思った。とはいえ、これで改竄の理由と経緯が私にはかなり見えてきた。

<註一> この「猫村」はもちろん正しくは「根子村」であり、それを地元出身の関が間違えるはずもなく、この聞き取り(生原稿)のこの文字を書いた人物は関以外の人物であったと言えそうだ。
<註二> このことに関しては、
 賢治は自分のチェロを澤里以外の人にはなるべく手を触れさせないようにした。
というのが通説となっているようだが、この「生原稿」に従えばそうとは言えず、澤里自身が「先生は絶対に、私にもセロに手を着けさせなかった」と証言していたことが明らかになる。つまり、他の人にもそうだが、澤里にさえも「手を着けさせなかった」ということになる。
<註三> 言い方を換えれば、澤里武治のこの証言はおかしいと強弁している第三者が居るということになるし、しかもこの証言は後に著者以外の何者かによって改竄されていたわけだから、その第三者とは著者の関以外の誰かであることもまた明らかになる。
 また、澤里武治のご子息裕氏から見せてもらった武治自筆の一枚
  (その三)「附記」
には、次のようなことも書かれていた。
 先生の歿後その名声彌々高く 歌人関徳弥氏(歌集寒峡の著者)の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが 昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載され その中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
 一方、このことに関連してはその『岩手日報』に連載された「宮澤賢治物語」に次のようなことが載っている。
  宮澤賢治物語(49)
     セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。
   …(中略)…
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりました…(以下略)…
<昭和31年2月22日付『岩手日報』)より>
 したがって、澤里武治はこの「宮澤賢治物語(49)」を見て、関登久也に貸した書簡の中に自分宛に送られてきた賢治からの大正15年12月12日付の手紙があったことを思い出したということになろう。したがって、この紛失してしまった書簡が再発見されれば、この辺りの事情がさらに明らかになるであろう。
***************************** 以上 ****************************
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