鈴木 そのことを確認したかったので関連図書等を探してみたならば、〝「事故のてんまつ」――『展望』五月号と単行本の異同一覧〟という「疏明(そめい)資料」(『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)107p~)が見つかったので、「朱筆を加えた」箇所等が詳らかになった。ちなみに、それらは15項目ほどあり、これらが「いたらなかった点」であると臼井が認識していた事項ということになるのだろ . . . 本文を読む
鈴木 さらに同書には、「初めての絶版回収事件」という項もあった。これもまたとんでもないことだと直ぐ分かった。表現の自由が尊重される今の時代、「絶版回収」ということは滅多にないはずだからだ。そして、これが「腐りきって」いた事例なのかと直感した。それは、この事件もまた昭和52年に、まさにその「倒産直前」に起こっていたということになるからだ。
ちなみに、同項には次のようなことが述べられていた。 . . . 本文を読む
鈴木 そこで思い付いたのが、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という故事だ。危険を冒すとまでは言えないが、まずは虎穴に入ってみようと企てた。すると、『筑摩書房』の社史を調べてみれば何かが分かるのではなかろうかと閃いた。インターネットで調べてみると、筑摩書房の社史である『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)が見つかったので即注文、入手できた。私は慌ただしく瞥見した。
荒木 するとどうだ . . . 本文を読む
鈴木 やはりどうもおかしい。というのはここまでの考察によって、私からすれば筑摩書房らしからぬ杜撰な幾つかのことが、いずれも昭和52年に起こっていた、ということに気付いたからだ。ちなみに、ここまでのことを振り返ってみれば以下のとおりだ。
⑴ 昭和52年出版の『校本宮澤賢治全集第十四巻』における、昭和2年7月19日の記載、「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君は . . . 本文を読む
鈴木 のみならず、矢幡氏の指摘を知ったならば、このような「冷酷さ」は、あの〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもあることを私は覚れたんだ。
荒木 あの『雨ニモマケズ手帳』の中に書かれたあの詩のことだな、あれっ、どんな内容だったっけ。
吉田 昭和6年10月24日付の、
10.24 ◎
聖女のさましてちかづけるもの
たくらみすべてならずとて
いまわが像に釘うつとも
. . . 本文を読む
鈴木 しかも、「新発見」の書簡下書群の公表はもう一つ大きな問題がある。それらを公表をした結果、賢治には「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があるということまでも世間に晒してしまったんだ。
荒木 えっ、露に〈悪女〉の濡れ衣きせただけでなく、なんと賢治を貶めてしまったのかよ。
鈴木 というのは、「新発見の252c」等の一連の書簡下書群に対して、矢幡洋という方が、
時折、高圧的な . . . 本文を読む
鈴木 一方で、「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史は、
今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。〈『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)177p〉と境忠一との対談で語っていたし、天沢退二郞氏も、
高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみ . . . 本文を読む
鈴木 しかも、これらの「推定群⑴~⑺」は、クリスチャンであった高瀬露が信仰を変えて法華信者になってまでして賢治に想いを寄せ、一方賢治はそれを拒むという内容になっている。それ故、この「推定群⑴~⑺」を読んだ人たちは、そこまでもして賢治に取り入ろうとした露はきわめて好ましからざる女性であったという印象を持つであろうことは容易に想像できるので、これらの「推定群」を文字にして公表することは筑摩書房ほど . . . 本文を読む
荒木 一方で上田哲も言及しているように、賢治の周辺に〈悪女〉がいたという風説は戦前から一部の人たちに知られていたというではないか。
鈴木 たしかにそうなんだが、その〈悪女〉の名が高瀬露であるということまでは殆ど知られていなかったんだ。というのは、この〈悪女〉に関して著作を公にした森荘已池の『宮澤賢治と三人の女性』等も、儀府成一の『宮沢賢治 その愛と性』も、その女性の名前は明示しておらず、「彼女 . . . 本文を読む
吉田 その「ライスカレー事件」に関しては、「校本全集」にはこんなとんでもない「杜撰」なことも載っているので僕は唖然としたね。荒木は知っとるか。
荒木 知らん。それはどんな事件なんだ?
吉田 いわゆる「旧校本年譜」では、森荘已池が一九二七年の秋の日に下根子を訪ね、その際道で高瀬露とすれ違ったということになっている(『校本全集第十四巻』622p)のだが、それは、
一九二八年の秋の日、私は下根子を . . . 本文を読む
鈴木 そこで私はまず、関連する論考等を探し廻ったのだが、この〈高瀬露悪女伝説〉に関して学究的に取り組んでいる賢治研究者の論考等はなかなか見つからなかった。そしてやっと見つかったのが、上田哲の「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」という論文だった(なお、「〈悪女〉にされた高瀬露」のことを今後〈悪女・高瀬露〉と表記する)。上田は、新たな証言や客観的資料等を発掘してこの〈悪女・高瀬露 . . . 本文を読む
鈴木 ここまで、「杜撰」という視点から幾つか見てきたのだが、その典型があの「新発見」だと私は思っている。
吉田 たしかに。
荒木 そしてその「新発見」の「杜撰」さによって何が起こったか。賢治が生前、血縁以外の女性の中で最も世話になったのが高瀬露であるというのに、その露はとんでもない〈悪女〉にされていて、いわゆる〈高瀬露悪女伝説〉が全国に流布したことが否定出来ない。しかも、少し調べてみただけでも . . . 本文を読む
一般にお役所の人事の発令の期日は〝きり〟の良いところ、月初めとか月末が多いはずである。なのに千葉恭が一旦役所を辞めた日は中途半端な22日であることから、これは上司との折り合いが悪くなって突如辞表を出したと解釈出来る本人の話「夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました」と符合する。となれば、急に思い立っての辞職ということだろうから、千葉恭の三 . . . 本文を読む
それにしてもどうしてなのだろうか。入沢康夫氏も「これまでほとんど無視されていた千葉恭」と仰っていたように、『新校本年譜』等も含め、どんな本を見ても、千葉恭が下根子桜の宮澤家別宅で賢治と一緒に暮らしていた時期や期間について今だもってはっきりとは記載されていない。
ただし振り返ってみれば、千葉恭自身は次のようなことは言っている。
(ア) そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞め . . . 本文を読む
そもそも、なぜ私はここまで松田甚次郎の下根子桜の訪問回数とその日がいつかを調べてきたのかというと、甚次郎が賢治から〝どやされた〟と千葉恭の目からは見えた日がいつかを確定したかったからだ。
というのは、千葉恭は追想の「宮澤先生を追つて(三)」において、
詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな靑年が松田 . . . 本文を読む