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73 『銀河鉄道の夜』とのこと(その4)

 では今回は[ケンタウルの村]~[石炭袋]について述べたい。

 まず、[ケンタウルの村]について
 『新編 銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)の中では
 その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云えずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂のようなもの口笛や人々のざわざわ云う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるというような気がするのでした。
「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡っていたジョバンニのとなりの男の子が向うの窓を見ながら叫んでいました。
 ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集ったようについていました。
「ああ、さうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」
「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云いました。〔以下原稿一枚?なし〕

のように語られている。そして、〔以下原稿一枚?なし〕とあるから、本来ならさらにそこでもケンタウルの村について続けて語られているのかも知れないが、今となっては知る術もない。

 さて思い返してみれば、この作品の章の一つに”四、ケンタウル祭の夜”があったようにこの夜はお祭が開かれているのだ。

 そこでこのケンタウル祭だが、作品では次のような祭だと言っている。
 この祭は星祭であり、銀河の祭である。町の家々では一位の葉の玉を吊したり檜の枝に明かりを付けたりしている。その様はクリスマスツリーのようで、沢山の豆電燈がまるで千の蛍でも集ったようでもある。
 そして、こどもらは折り目のついた新しい着物を着て星めぐりの口笛を吹いたり、「ケンタウル露をふらせ」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして遊ぶのだと云う。さらには、こどもらは青いあかりのついた烏瓜をめいめいが川へ流す『烏瓜ながし』をするという祭である。

【Fig.20 烏瓜の実】(平成20年9月4日撮影)

 このようなケンタウル祭そのものが世界のどこかにあるということは私は知らないが、賢治は星祭だと言っているから『宙の名前』(林 完次著、光琳社出版)によって星祭を調べてみると、
 星祭り:密教で招福、厄除けのために、当人の青年にあたる本命星と当年星を祭り供養するもので、星供(ほしく)ともいいます。また、七夕祭りをさすこともあります。
とあったから、七夕祭りを賢治らしくアレンジしたものが”ケンタウル祭”なのではなかろうか。そして、それはケンタウルの村で行われると賢治は設定したのだ。

 さて、そのケンタウルが星座と関係あるかと云うと、直ぐに思い浮かぶのがケンタウルス座であるから、それを少し調べてみたい。
 まずは、ケンタウルス座のイメージは
【Fig.21 ケンタウルス座(『星座図鑑』(藤井 旭著、ポプラ社)より)】

のような、上半身が人間で下半身が馬という馬人ケンタウルス族の姿を表した星座であると云う。しかし、沖縄あたりならば全身を見ることが出来るが、多くの地域では初夏、南の地平線に上半身が見られるだけだと云う。 
 この星座は古代ギリシャで作られ、『宙の名前』(林 完次著、光琳社出版)によれば、『この馬人の名はフォーローといい、他の馬人がヘラクレスの射た毒矢で倒れると、直ぐに抜き取ってやっていましたが、あやまってその毒矢を足に落としたために、死んだといいます』ということである。
 なお、ケンタウルス座α星とβ星はサザンポインターズと呼ばれ、南十字星と天の南極を知る目安となる星であるという。 

 以上が現時点で私が調べてみた全てであり、もっと調べれてみれば実はモデルがあるのかも知れないが、おそらく”ケンタウルの祭”や”ケンタウルの村”の多くは賢治の創作ではなかろうか私は考える。
 ただし面白いことがある、ケンタウルス座をモデルにしたかどうかは判らないにしても、”ケンタウルス”という名詞そのものはモデルにしていると思われるフシがあるからである。なぜならば、『新編 銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)の中で”ケンタウル”というカタカナが出てくる箇所は次のような
  『四、ケンタウル祭の夜』
  『「ケンタウルス、露をふらせ。」と叫んで走ったり』
  『「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡っていた・・・』
  『「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」』
  『「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云いました。』
5箇所があり、お気づきのように4箇所は”ケンタウル”だが、残りの1箇所だけはケンタウルスになっているからである。

 [サウザンクロスの停車場(第三時着)と十字架→石炭袋]について
 まずはこの区間に関係する主な部分を『新編 銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)から抜き出してみる。
 章”九、ジョバンニの切符”の出だしには
「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。
「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。
「よろしうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。

という部分があり、ケンタウルの村通過後には
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。
「さあもう仕度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」
 ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって后光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜に飛びついたときのようなよろこびの声や何とも云いようない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のような青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞っているのが見えました。
「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりとうとう十字架のちょうどま向いに行ってすっかりとまりました。
「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひき姉妹たちは互にえりや肩を直してやってだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったようにぶっきり棒に云いました。女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こっちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまい俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。
 そして見ているとみんなはつつましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思ううちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金の円光をもった電気栗鼠が可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
 そのときすうっと霧がはれかかりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでいました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちょうど挨拶でもするようにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点くのでした。
 ふりかえって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまいほんたうにもうそのまま胸にも吊されそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまずいているのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。

となっている。

[サウザンクロス(南十字)の停車場と十字架]について
 停車場の名前からして、南十字座(サザンクロス)をモデルにしてるだろうが・・・。
『宙の名前』』(林 完次著、光琳社出版)によれば、
南十字座:一等星二つを含むおなじみの星座で、南十字星の名で親しまれます。烏座の真南に位置し五月下旬に南中しますが、緯度の関係で本州からは見えず、十字架の全景を見るには沖縄まで南下しなければなりません。 
とあり、下図のように2つの1等星(α、β)、2等星(γ)、3等星(δ)それぞれ1つからなる計4つの星でつくる十字架状の、全天88星座の中で一番小さい星座であると云う。白鳥座の北十字(ノーザンクロス)に対する南十字座のサザンクロスである。北半球に住む我々にとっては憧れの星座ではなかろうか。
 なお、南十字座は本州では見えない星座であるし、春の星座だから3~7月頃が見頃であるとも云う。したがって、ジョバンニの乗ったこの列車が走っている時期は秋だから、地理的にはさらに南下しないと見えないことになろう。 
【Fig.22 南十字座(『宙の名前』(林 完次著、光琳社出版)より)】

上図の一番下の星がα星、時計回りに廻って順番にβ星、γ星、δ星である。

 ということから、童話中のこの”十字架”は南十字座(サザンクロス)の十字形がモデルになっているであろう。つまり、”サウザンクロスの停車場と十字架”は南十字座がモデルになっているのであろう。
 おそらく賢治自身が”南十字座”を直接は見ていないせいだろうか、白鳥座のときと較べるとその表現に煌びやかさは少ないような気はするが。

[石炭袋]について
 同じく『新編 銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)によれば
 ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だらう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラ がぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」
「ああきっと行くよ。 ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。

とある。
 では最後になったが、この石炭袋のことについてである。この場合の石炭袋とは、南十字星の直ぐ脇の、銀河に穴が開いたように見えるところの暗黒星雲のことであろう。この暗黒星雲は石炭袋とかコールサックと呼ばれていて、冷たい塵やガスの雲から出来ていると云う。したがって、石炭袋はその中に含まれる塵やガスによって背景や銀河などの光が吸収され、あたかも黒い雲のように見えるのである。
【Fig.23 南十字座付近(『星座図鑑』(藤井 旭著、ポプラ社)より)】

上図南十字座の左下の黒い部分が石炭袋である。
 この穴を、賢治は下界と冥界を繋ぐものの象徴としたのだと思うし、もちろんこの石炭袋を童話『銀河鉄道の夜』での石炭袋のモデルにしているであろう。

 以上のことから、[サウザンクロスの停車場(第三時着)と十字架→石炭袋]は1つのグループとして捉えたい。さらに、ケンタウルス座はサザンクロスポインターズだったからこれも併せて、[ケンタウルの村、サウザンクロスの停車場、十字架、石炭袋]は一つのグループ、南十字座関係グループとしてまとめることが出来よう。

 最後に、次のことを述べて今回は終わりたい。
 『銀河鉄道の夜』の小さな列車は死者の乗る列車で、ジョバンニの親友カムパネラが級友ザネリを救おうとして自らが溺れ死んでしまうという死出の旅立ちがそこにある。一方、「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」と決意するジョバンニだが、親友カムパネラとの避けられない別れもそこにはある。
 そこで思うのは、カムパネラとはまもなくやって来る死を予感している賢治自身であり、ジョバンニは孤独感に苛まれている賢治自身ではなかろうかと。

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