《創られた賢治から愛される賢治に》
宮澤一族は超大地主揃いそもそも、当時のことを考えてみれば、賢治の無産運動に関する取材を仮にしようとしても殆どの地元の人々はそのことに対して口が堅かったであろうことは想像に難くない。
それは宮澤一族が花巻の〝財閥〟であり、極め付きの実力者だったせいであろう。それも、宮澤一族は大地主揃い、当時相当数の小作人を抱えていた。だから、小作をしている人達にすればいくらそのような取材を受けたとしても
『あそご(宮澤家)の土地を小作(しつけ)でられていて…』
<飛田三郎著「肥料設計と羅須地人協會」より>
と言ってやんわりと謝絶せざるを得なかったであろう。当時超大地主揃いの宮澤一族に対し彼等は隠然たる圧力を感ずるどころか、顕然たるそれを肌で感じてさえいたであろうから、宮澤一族にとって不都合なことに対してはおいそれと口を開く訳にはいかなかったであろうことは容易に察しがつく。
ちなみに、森嘉兵衛の「明治百年序説」の中の〝岩手県大地主調査表(昭和12年)〟から拾ってみれば花巻関係の大地主のリストは以下のとおりである。
◇50町歩以上花巻関係者7名(岩手県54人中)
稗貫花巻 瀬川弥右衛門 金融業 田 107.0 畑27.5 計134.5 小作人 158人
稗貫花巻 梅津健吉 金融業 75.7 18.9 94.6 115
稗貫花巻 宮沢直治 商 業 62.9 23.7 86.6 102
稗貫花巻 佐藤秀六郎 商 業 49.1 26.4 75.5 92
稗貫花巻 松田忠太郎 商 業 52.9 9.6 62.5 60
稗貫湯口 宮沢善治 旅館業 46.9 13.2 60.1 100
稗貫花巻 宮沢商店 商 業 24.6 26.8 51.4 57
<『岩手史学研究No.50』16p~より>稗貫花巻 瀬川弥右衛門 金融業 田 107.0 畑27.5 計134.5 小作人 158人
稗貫花巻 梅津健吉 金融業 75.7 18.9 94.6 115
稗貫花巻 宮沢直治 商 業 62.9 23.7 86.6 102
稗貫花巻 佐藤秀六郎 商 業 49.1 26.4 75.5 92
稗貫花巻 松田忠太郎 商 業 52.9 9.6 62.5 60
稗貫湯口 宮沢善治 旅館業 46.9 13.2 60.1 100
稗貫花巻 宮沢商店 商 業 24.6 26.8 51.4 57
なんと、昭和12年当時、宮沢直治の小作人は102名、宮沢善治同100名、宮沢商店同57名にも及ぶ。計134町歩の田圃、畑も加えれば計198町歩もの小作地を有していたことになるし、小作人の総数は259名にも及ぶ。
また宮澤政次郎(「宮政」)にしても、同時期の昭和12年に如何ほどの小作農地を「宮政」が所有していたかは今のところ私は掴んでいないが、当時10町歩ほどの小作地があったという。それは大正4年の「岩手紳士録」に
宮沢政次郎 田五町七反、畑四町四反、山林原野十町
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)272pより>
載っていると川原が紹介していることから知ることが出来る。宮沢善治や宮沢直治に比べれば規模こそ小さいものの、実は「宮政」も大地主の一人であったと言えよう。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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