なおその中味は
《目次》
となっています。
また
《はじめに》
《例えば61p》
《例えば66p》
《あとがき》
です。
A5版86ページです。
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以前投稿した〝賢治と一緒に暮らした男〟を一冊の本にまとめてみました。それがこのブログの先頭に掲げたような表紙の拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』です。
例えばその中味は
《目次》
《はじめに》
《例えば61p》
《例えば66p》
《あとがき》
です。
もし拙著の購入をご希望なさるお方がございましたならば、盛岡駅1Fの『さわや書店フェザン店』にてお買い求め出来る . . . 本文を読む
《『宮沢賢治という現象』(鈴木健司著、蒼丘書林)表紙》
伊藤整や岡本弥太が伝える面会謝絶
そもそも、千葉恭なる人物に私が興味を持ち出したのは例の大正15年7月25日の断りの使者が千葉恭だったということを知ってからである。
この断りの使者の件に関しては、千葉恭本人は盛岡に出向いて白鳥省吾等が講演のために来ていた仏教会館に行って断ったと語っているわけだが、白鳥省吾は花巻の下根子桜に賢治を訪ねたが玄 . . . 本文を読む
以上が現時点で私が綴れる千葉恭の全てである。なかなか入り口が見つからない千葉恭であったが、ある程度は納得できる地点まではたどり着けたと思う。もうこれだけ時代が下ってしまうと当時の検証は極めて難しいことなのだと思い知らされてしまったが、逆に言えば今がそれをできる最後のチャンスの時代なのかも知れないとも思うのでこれからも引き続いて調べて行きたい。必ずや、知られていない千葉恭に関する資料が少なからず眠 . . . 本文を読む
なぜなのだろうかと思っていたことの一つにその期間の長さの違いがある。もちろんそれは千葉恭が賢治と一緒に暮らした期間についてのである。
1. 期間の長さの違い
千葉恭自身は『イーハトーヴォ』復刊5号(宮沢賢治の会)において
賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった . . . 本文を読む
今回は大正15年の初夏の頃についての証言を取り挙げたい。
それは伊藤克巳「先生と私達―羅須地人協会時代―」の中にある次のようなものである。
苗代は蛙の聲で一杯で、農家は忙しい夏の初めの頃だつたと思ふ、今晩東京の有名なヴァイオリンを彈く人が來るからと云うので私達は胸を躍らせながら先生の家へ集まつた。
暗い夜だつた。町の人達も二、三人來て居たので挨拶したりいろいろ雑談の後思ひ思ひ椅子に腰を下ろ . . . 本文を読む
たまたま『四次元』123号(Feb-61、宮澤賢治研究会)を見ていたならば、その中に菊池忠二氏の「賢治の地質調査(1)岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」がシリーズ物の1回目として載っていた。
(1) 「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」の内容
そしてそれは次のように始まっていた。
編集者の言葉――本文は賢治が稗貫稗貫郡の委嘱を受け、関豊太郎博士を首班に助教授神野幾馬、小泉多三郎と共に実地踏査 . . . 本文を読む
1 千葉恭の長男に会う
みちのくに植田の緑が広がる6月のある日、私はわくわくしながら国道4号線を南下して水沢に向かった。千葉恭の長男E氏宅を訪れる約束の日がやってきたからである。果たして水沢の真城に〝町下〟という地名があり、そ場所に当時千葉恭の実家が8反歩の田圃を有していたかどうかが確認できる日だ。一度E氏宅が近づいたところで電話をして道順を訊ねると、道路の脇に立って待っているからという。優しい . . . 本文を読む
今まで少しく千葉恭のことを調べてきて知ったのが、千葉恭自身が書き残している賢治関連の資料は少なからず存在しているのに、千葉恭と賢治との関係に言及している恭以外の賢治周辺の人物が書き残している資料はなさそうだということである(私の管見のせいかもしれぬが)。千葉恭は賢治とおそらく8ヶ月間強を下根子桜で一緒に暮らしているはずなのに、また二人の付き合いは大正13年~少なくとも昭和2年頃までの足かけ4年の . . . 本文を読む
それにしてもどうしてなのだろうか、『新校本 宮沢賢治全集』(筑摩書房)の中にある賢治の年譜等をも含め、どんな本を見ても千葉恭が下根子桜の別荘で賢治と一緒に暮らしていた時期や期間は今だもってはっきりと記されていないようだ。
それはそもそもこの期間や時期に関して賢治自身は一言も、そして千葉恭自身ははっきりと言っていないせいもあるのだろう。
(1) 千葉恭の言っていること
ただし振り返ってみれば、 . . . 本文を読む
当初は「独居自炊」というキャッチフレーズで修辞されることのなかった賢治の「下根子桜時代」だったが、いまではどんな本でも賢治の「下根子桜時代」は決まって「独居自炊」と修辞されていると言っていいだろう。
実際、『宮沢賢治全集 十一』(筑摩書房、昭和32年版)の年譜では
四月、花巻町下根子櫻に自炊生活を始め、附近開墾し畑を耕作した。
のように〝自炊〟だけであったのが、時代が下って『新校本 宮澤賢治 . . . 本文を読む
振り返ってみるに、なぜ私はここまでこんなことを行ってきたのか。
少し前までの私は、「下根子桜時代」の宮澤賢治は〝独居自炊〟生活をしていたとばかり思っていた。ところが実は約半年間賢治は千葉恭という人物と寝食を共にしていたということを、賢治は「下根子桜時代」〝独居〟じゃなかった期間もあったのだということを知ってしまった。そしてあっそうか、これが賢治の甥が約40年前に
賢治はあまりにも偶像化・神格 . . . 本文を読む
では、私にとっては『もう一つの〝1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだが』についてここでは述べてみたい。
そもそもなぜ私はここまで松田甚次郎の下根子桜の訪問回数とその日がいつかを調べてきたのかというと、松田甚次郎が賢治から〝どやされた〟と千葉恭の目からは見えた日がいつかを決定したかったからだ。
(1) 千葉恭は賢治から〝どやされた〟甚次郎を見ていた
以前述べたことでもあるが千葉 . . . 本文を読む
さて幸いにも見ることが出来た松田甚次郎の日誌。それはいままで私が抱えていた2つの懸案事項を一気に解決させてくれた。
(1) 大正25年12月25日の日記
その一つは、松田甚次郎の大正25年12月25日の日記には次のようなことなどが書かれていたからである。
…
9.50 for 日詰 下車 役場行
赤石村長ト面会訪問 被害状況
及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
国道ヲ沿ヒテ南日詰 . . . 本文を読む
どうして私は突然『新庄ふるさと歴史センター』を思い出したのだろうか。それはおそらく過去に一度そこを訪れたときの何かが私をそうさせたに違いない。
(1) 松田甚次郎の足跡を訪ねて
かつて松田甚次郎の古里新庄鳥越を訪ねたことがある。それは松田甚次郎生誕100周年の2009年のことであった。昭和2年3月8日に賢治を訪ねて『小作人たれ、農村劇をやれ』と賢治から諭されて実際そのとおりに実践、いわば「賢治 . . . 本文を読む