宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

「賢治神話」検証五点

2017年01月16日 | 常識でこそ見えてくる


















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平成28年『第69回岩手芸術祭』文芸評論部門 優秀賞受賞作品
   「賢治神話」検証五点
   鈴木 守
  1.はじめに   
 今から約半世紀も前の学生時代のことになるが、恩師の岩田純蔵教授(当時岩手大学電子工学科教授)が私たちを前にして、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
という意味のことを嘆いたことがある。
 その時の私は、尊敬する人物が他ならぬ宮澤賢治であり、しかも岩田教授は実は賢治の甥(賢治の妹シゲの長男)だったから、尚のこと恩師の嘆きがずっと気になっていた。とはいえ、仕事に従事している間はそのようなことを調べるための時間的余裕が私にはなかった。それが10年程前に定年となり、やっとそのための時間を持てるようになって賢治のことをそれなりに調べることができた。

  2.いくつかのおかしい事例 
 すると、賢治に関する「通説」や「旧校本年譜」(『校本宮澤賢治全集第十四巻』所収「賢治年譜」)等において、常識的に考えればこれはおかしいと思われるところが、特に「羅須地人協会時代」を中心として少なからず見つかるのだった。そして実際それらを検証してみたところやはり皆ほぼおかしかった。そこで、そうかそういうことだったのかと、恩師の嘆きの意味を初めて覚った気がした。では、ここではそのような中から五つの事例を以下に取り上げてみたい。

  ㈠「独居自炊」とは言い切れない
 私が最初におかしいと思ったのは「旧校本年譜」の「大正15年7月25日」の記述、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
だった。この記述に従えば、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」とは言い切れないので「通説」とは異なることになるからだ。
 ならば、まずは千葉恭なる人物のこと知ろうと思ったが、いつ頃からいつ頃まで賢治のところに寝泊りしていたのかも、その出身地さえも含めて、恭自身のことに関しては『校本宮澤賢治全集』に殆ど何も書かれていない。となれば自分で調べるしかなかったのだがその結果、恭に関して出身地はもちろんのこと、穀物検査所を辞めた日及び復職した日、賢治から肥料設計をしてもらっていたこと、楽団ではマンドリン担当だったことなども明らかにできた。
 また、
〈仮説〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
を立ててみたところその検証もできたのだった。そして実際、恭は『私が炊事を手傳ひました』とはっきり証言していた(『四次元7号』、宮澤賢治友の會)ことも知った。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れないことになるし、恭のことが今まで意識的に無視されてきたのではないかと思わないでもない。これに加えて、この時代が「独居自炊」と譬えられるようになったのは『昭和文学全集14宮澤賢治集』(昭和28年)発行以降であり、奇しくも、高村光太郎のそれこそ『獨居自炊』(昭和26年)の発行を境にしていることもわかった。それ故、「羅須地人協会時代」を「独居自炊」で譬えるのは換骨奪胎の感が否めず、あまり後味のいいものではない。
〈注一〉この項については、拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』において実証的に考察し、それを詳述してある。

  ㈡「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」という誤認
 次に、賢治に関する論考等においてしばしば、
・昭和二年は…(筆者略)…六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。
・一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
というような断定表現に出会うが、いわゆる『阿部晁の家政日誌』によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、これらの断定もおかしいことがわかった。
 ところが、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それ故、私はその典拠を推測するしかないのだが、『新校本年譜』(『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』)等を見てみると、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、たしかに福井は「測候所と宮澤君」において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)〉
と述べているから、これがその典拠と言えるだろう(私が調べた限り、これ以外に前掲の断定の拠り所になるようなものは見当たらないからだ)。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、このいわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 ところが、先の『阿部晁の家政日誌』のみならず福井自身が発行した『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所)や、『岩手日報』の県米実収高の記事等に依って、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くないことを実証できる。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。
 したがって、『新校本年譜』等はこの福井の証言の裏付けを取っていなかったということになろう。また、前掲の断定表現の二つの引用文も同様に事実誤認だったということになるから、それぞれの論考等に於いてこの誤認を含む個所は当然論理が破綻してしまい、大幅な修正が迫られることになるのではなかろうか。
〈注二〉この項については、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』において実証的に考察し、それを詳述してある。

  ㈢「大正15年12月2日の上京」のあやかし
 今度は『新校本年譜』の次の記載、
(大正15年)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。
についてだが、この注釈として
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
とあり、これもおかしい。その変更の根拠も明示せずに、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」とまるで思考停止したかの如き表現が、『校本』と銘打った全集の中に登場しているという奇妙な現象が起こっているからだ。
 次に、その「関『随聞』二一五頁」を実際に見てみると、
 昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
という沢里武治の証言が載っているから更に愕然とする。それは、この証言の最後の部分「先生は三か月間の…帰郷なさいました」を『新校本年譜』が完全に無視していることに気付くからだ。具体的には、いくら四苦八苦してこの「三か月間の滞京」を大正15年12月2日以降に当て嵌めようとしてもそれができないことに気付く。同年譜では、牽強付会なことがしれっとして行われていた。
 ではこの矛盾はどうすれば解消できるかだが、それはこの時の上京に関連する前掲の「関『随聞』二一五頁」の他に次の二人の証言、
 (1) 伊藤清の証言
(「羅須地人協会時代」に)上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。
〈『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)〉
 (2) 柳原昌悦の証言
 一般には沢里一人ということになっているが、あのときは俺も沢里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。
〈菊池忠二氏の柳原昌悦からの聞き取り〉
を組み合わせればおのずから導かれる。
 具体的には、三人の証言を補完し合いながら組み合わせれば、
〈仮説〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強したがその結果病気となり、3ヶ月弱後の昭和3年1月に帰花した。
が定立できるし、この仮説を裏付けることはいろいろあっても、明らかな反例は一つも見つからなかったから検証できたことになる。
 当然これに伴って、これまでの「賢治年譜」は、
・大正15年12月2日:柳原、沢里に見送られて上京。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治はひとり見送る沢里に言い残して、チェロを持って上京。
・昭和3年1月:滞京しながらチェロの猛勉強をしていたがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身体衰弱。
というような修訂が必要となる。また、「三か月間の滞京」期間ももちろんこれで問題なく当て嵌められるので矛盾も解消できる。
 とまれ、現「賢治年譜」は大正15年12月2日の上京の典拠にしているという証言を実は恣意的に使っており、そこには解消困難な「三か月間の滞京」という難題が横たわっているのである。
〈注三〉この項については、拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』において実証的に考察し、それを詳述してある。

  ㈣「一九二八年の秋の日」の安易な変更
 同じく『新校本年譜』の昭和2年の、
秋〔推定〕森佐一(森荘已池)「追憶記」によると、「一九二八年の秋の日」村の住居を訪ね、途中、林の中で、昂奮に真っ赤に上気し、ぎらぎらと光る目をした女性(筆者注:高瀬露のこと)に会った。家へつくと「今途中で会つたでせう、女臭くていかんですよ……」と窓をあけ放していて…(筆者略)…
 翌朝、…(筆者略)…赤い実をとってたべた。「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
におけるこのような判断の仕方もおかしい。
 この記述に従えば、同年譜は「一九二七年の秋の日」と読み変え、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになるわけだが、このような判断の仕方は安直であり、論理的でもない。そもそも、大前提となるそのような「下根子桜訪問」自体がたしかにあったという保証は何ら示せていないからだ。
 実際問題、上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡」中に、「露の下根子桜訪問期間は大正15年秋~昭和2年夏であった」という意味の露本人の証言が紹介されているから、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が下根子桜を訪問したとしても、その途中で露とすれ違うことはできないということになるのでその保証が必要だろう。
 更に事態はもっと深刻だ。「その時(昭和3年)に賢治は病臥中なので本年(同2年)に置く」という論理ならば、それと同様に、「その時(同2年)に森は病臥中なので本年(同2年)には置けない」という論理も実は同時に存在しているからだ。
 というのは、『森荘已池年譜』(浦田敬三編)等によれば、森は
・大正15年11月25日頃、心臓脚気と結核性肋膜炎を患って帰郷。
その後盛岡で長い療養生活。
・昭和2年3月 盛岡病院に入院。
・昭和3年6月 病気快癒、岩手日報入社。
ということだし、昭和2年6月5日付『岩手日報』には下山清の「『牧草』讀後感」が載っていて、その中で下山は、
 森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
と述べており、しかも「脚気衝心」とは「脚気に伴う急性の心臓障害。呼吸促迫を来たし、多くは苦悶して死に至る」と『広辞苑』が説明しているからだ。当然、このように重篤な森が「一九二七年(昭和2年)の秋の日」に下根子桜を訪問することは実際上も困難だったろうから、尚のこと、森のそのような「下根子桜訪問」自体があったという裏付けを同年譜は取らなければなかったはずだ。
 一方私がいくら探してみても、「一九二七年の秋」に森のそのような訪問があったということを裏付ける資料や証言は見つからない。しかも、森自身がかたる「下根子桜訪問」にはあやかしが多々見つかる。もちろん、もともと「一九二八年の秋」にその訪問があったということはあり得ない。その秋には既に賢治は実家に戻っていたからだ。したがって、どちらの年にしても森の件の訪問があったということを裏付ける客観的な典拠は存在していないので、その訪問は単なる虚構であり、おのずから、その際に森が露とすれ違ったということも同様であろうと判断されても致し方がなかろう。
 よって、「「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く」という処理の仕方は安易だと言わざるを得ない。
〈注四〉この項については、上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』所収の拙論「聖女の如き高瀬露」において実証的に考察し、それを詳述してある。

  ㈤「下根子桜撤退」の真相
 最後に、賢治が昭和3年8月に実家へ戻った件についてだが、
心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
が通説だと私は認識していた。ところが、先の『阿部晁の家政日誌』等によって当時の花巻の天気や気温を、更には賢治の健康状態に関する証言等を調べてみると、この通説を否定するものが多かったので、どうやらこれもおかしいということに気付いた。
 一方、賢治が教え子沢里武治に宛てた同年9月23日付書簡には、
 やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡』(筑摩書房)〉
と書かれている。しかし「すっかりすがすがしくなりました」ということであれば、病気のために実家に戻って病臥していたと云われていた賢治なのだから、普通は「そろそろ下根子桜に戻って以前のような営為を再開したい」と伝えたであろうと思いきやそうではなくて、「演習が終るころ」まではそこに戻らないと沢里に伝えていたからこれもまたおかしいことだということに気付いたのだった。同時に、実家に戻っていた最大の理由は「演習」のせいであって病気ではなかった、ということをこの書簡は示唆しているとも取れる。
 ならば、そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。それが、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。
〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)〉
という記述に偶々出くわして、「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだと直感した。そこで、他の資料等も調べてみたところ、賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)〉
と述べていた。どうやら、先の私の直感は正しかったようだ。
 また周知のように、賢治は当時労農党のシンパであったと父政次郎が証言している。そして、この時の「アカ狩り」によってその労農党員の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三、賢治と親交のあった青年八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。あげくその八重樫は北海道は函館へ、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は小樽へと同年8月にそれぞれ追われたともいう。
 しかも高杉一郎著『極光のかげに』(岩波文庫)によれば、「シベリアの捕虜収容所で高杉が将校から尋問を受けた際に、その将校が、賢治は啄木に勝るとも劣らない「アナーキスト?」と認識していた」と言えるくらいだから、この時の「アカ狩り」の際に賢治も警察からの強い圧力が避けられなかったであろう。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のその8月であったことからも窺える。
 そこへもってきてあの人間機関車浅沼稲次郎でさえも、当時、早稲田警察の特高から『田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する』と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、「私の履歴書」の中で述懐していたことを偶然知った私は、次のような
〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻って謹慎をしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に下根子桜から撤退し、実家で自宅謹慎していた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた沢里宛賢治書簡であり、「演習が終るころ」までは戻らないと沢里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」とは時期的にピッタリと重なっていることだ。その上、この反例は一つも見つからなかったから仮説の検証がなされたことになる。
 よって今後その反例が見つからない限りは、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからというよりは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったと、そして、賢治は重病だということにして実家にて「自宅謹慎」していたというのが「下根子桜撤退」の真相だったとしてよいことになった。
〈注五〉この項については、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』、『羅須地人協会の終焉―その真実―』において実証的に考察し、詳述してある。

  3.真実を識りたいという一心
 さて、「羅須地人協会時代」において常識的に考えておかしいと思われる事例のいくつかを取り上げてここまで説明してきたが、この他にも、例えば同時代の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」していたわけでもないことも含め、賢治の「通説」や「年譜」の中にはおかしなものが結構あるということを私は今までに実証できたのだった。そこで、これらの一つ一つが恩師岩田教授が嘆いたあの「いろいろなこと」に当たっているのかと得心し、幾ばくかは恩師に恩返しができたものと安堵している。
 なお正直言えば、私のこれらの検証結果の方が実は「真実」ではなかろうか、ということをもっと広く世に訴えることのできる機会と場があればなと思わないでもない。しかし、これらの検証結果は「通説」とは異なるものが多いし、「仮説検証型研究」で検証できたからといってそれが100%正しいと言えるのかと訝る人も多かろうから、今直ぐにはそれは無理だろうということは勿論承知している。
 さりながら、そんなことよりも何よりも、私はまずは真実を識りたいという一心だったから、自然科学者の端くれとして、「仮説検証型研究」によっていくつかの「真実」を明らかにできたことだけで自己満足できたし、それで十分だった。しかも結果的にではあるが、「羅須地人協会時代」の賢治は「己に対してはストイックで、貧しい農民のために献身した」と以前の私は思い込んでいたが、一連の実証的な考察結果から導かれる賢治はそれとは違っていて、それこそ「不羈奔放」だったとした方が遥かにふさわしいのだということも識ることができ、《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》より近づいたということで私自身はとても嬉しかった。
 ただし一つだけ、今後の私に残された使命と役割があるとつい先頃までは考えていた。それは、拙論「聖女の如き高瀬露」において、露が客観的な根拠もなく〈悪女〉にでっち上げられたことを私は実証できたので、それを識った以上は『義を見てせざるは勇なきなり』と己を鼓舞しながら、冤罪とも言えるこの理不尽を機会あるごとに周りに訴え続けることだった。

  4.「賢治研究」の更なる発展を願う
 ところが、ある時ある式辞を知ってからはこのままではいけないと、私は考えを改めることにした。
 その式辞とは、平成27年3月のある大学の卒業式における教養学部長石井洋二郎氏の式辞のことであり、その中で同氏は、あの有名な「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」というエピソードを検証してみたところ、
 早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です。
という思いもよらぬ結果となったことを紹介していた。私は愕然とした。その「幻」を信じてきたからだ。そして石井氏は続けて、
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。
〈「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年度教養学部学位記伝達式式辞(東大教養学部長石井洋二郎)〉
と戒め、警鐘を鳴らしていた。
 私はこの式辞を知って、賢治に関する「通説」や「年譜」のいくつかにおいてまさに石井氏の指摘どおりのことが起こっていると首肯し、共感した。たしかにこれらの中にはあやふやな情報を裏付けも取らず、あるいは検証もせぬままに、それが真実であるかの如くに断定調で活字にして世に送り出されたものなどが少なからずあることを、ここ10年間ほどの検証作業を通じて私は痛感してきたからだ。例えば、前掲〝㈡〟の場合、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」はあやふやな情報なのだが、当時の盛岡測候所長の証言であるという「真実の衣を着せられて」その証言が「賢治年譜」に載せられてしまうとたちまち「世間に流布して」しまい、「もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります」ということがまさに起こっているように。
 そして、石井氏は更に続けて、
 本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。
と危惧しているのだが、まさにそのとおりで、前揚した、
・昭和二年は…(筆者略)…未曾有の大凶作となった。
・一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
というような、先の測候所長の事実誤認の証言を露ほども疑わずに、鵜呑みしたかの如き記述が今でも横溢している。
 さりながら、この実態を今更嘆いてばかりいてもしようがない、そのような批判精神を今後作動させればよいだけの話だ、ということもまた私は石井氏から気付かされた。そこでこれからは、自己満足という殻に閉じこもってばかりいないで、間違っていることは間違っていると世にもっと訴えるべきだと私は考えを改め、早速その手始めに今この論考を書いている。
 そしてこのことは、実はこの式辞を知って、今までの私のアプローチの仕方は間違っていないから自信を持っていいのだと確信できたことにも依る。それは、石井氏は同式辞を、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
と締めくくっているのだが、次のようなことから、この「本質」と私のアプローチの仕方は通底していると認識できたからだ。
 以前から私は、「学問は疑うことから始まる」と認識していたので、一般に「賢治に関する論考」等においては、裏付けも取らず、検証もせず、その上典拠を明示せずにいともたやすく断定表現をしている個所が多過ぎるのではなかろうかということを危惧していた。そこで私は、自分で直接原典に当たり、実際自分の足で現地に出かけて行って自分の目で見、そこで直接関係者から取材等をしたりした上で、自分の手と頭で考えるというアプローチの仕方を心掛けてきた。そしてその結果、前掲の〝㈠~㈤〟などのような、特に「羅須地人協会時代」の賢治に関してのあやかしや、知られざる「真実」のいくつかを明らかにできたものと思っている。
 とはいえ、私の主張が全て正しいと言い張るつもりはない、所詮いずれも一つの仮説に過ぎないからだ。だが私が主張しているものはまず仮説を立て、次に、定性的な段階にとどまらずにできるだけ定量的な考察によって検証できたものだ。だから当然、反例が提示されれば私は即その仮説を棄却するし、されなければしない。ましてや、現「賢治年譜」には前掲の「三か月間の滞京」を始めとしていくつかの反例があり、一方で、それに対応する私の立てた仮説には反例が存在しないとなれば、同年譜は大幅な修訂が不可避だろう。
 そこでそのためにも、そして何よりも「賢治研究」の更なる発展のために、まずは、おかしいところはやはりおかしいと主張し続けることにした。それは、私たちがそのことを怠れば学問の発展を望めないということは歴史が教えてくれているところだからでもある。
 次に、賢治が亡くなってから80年以上も過ぎたことだし、人間死んで百年経てば評価が定まるとも聞くから、現「賢治年譜」の、少なくとも「羅須地人協会時代」については早急に当局に一度検証していただきたいと強く訴えたい。さもないと、「創られた偽りの宮澤賢治像」が未来永劫「宮澤賢治」になってしまう虞があるからだ。

  5.終わりに
 かつての私の賢治像はどのようして出来上がったか。それは「賢治年譜」等を少しも疑わずに信じてきたことによる。ところがその中にはあやかし等も少なくないことをこの約10年間の検証作業で識り、正直一時期は裏切られたという思いを禁じ得なかった。だからこのような嫌な思いをするのは私だけで十分であり、そのような思いを未来あるこれからの若者たちにはもう味あわせたくはない。
 換言すれば、「賢治年譜」は賢治像の基底、いわば地盤だから、そこに液状化現象が起こっているとすればそれは真っ直ぐに建たないので是非早急に解消し、皆で同じ地平に立ってそれを眺められるようにすれば、「賢治研究」がさらに発展するのではなかろか。
***************************** 以上 ****************************
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