宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

91 イギリス海岸(その3)

2008年12月15日 | Weblog
 ”イギリス海岸(その2)”の続きである。

 いまどこにいるかというと
《1 現在地》(『イギリス海岸 案内図』より)

赤丸の所にいる。この赤丸の場所から上の案内図でいえば真上方向に真っ直ぐ進むと道の左手に
《2 赤煉瓦の塀》(平成20年12月10日撮影)

がある。この写真の右端の電信柱のところで左奥を見ると
《3 赤煉瓦の塀》(平成20年12月10日撮影)

が続く。
 ところで、賢治に『煙』という次のような詩
   川上の
   練瓦工場の煙突から
   けむりが雲につゞいてゐる
   あの脚もとにひろがった
   青じろい頁岩の盤で
   尖って長いくるみの化石をさがしたり
   古いけものの足痕を
   うすら濁ってつぶやく水のなかからとったり
   二夏のあひだ
   実習のすんだ毎日の午后を
   生徒らとたのしくあそんで過ごしたのに
   いま山山は四方にくらく
   一ぺんすっかり破産した
   練瓦工場の煙突からは
   何をたいてゐるのか
   黒いけむりがどんどんたって
   そらいっぱいの雲にもまぎれ
   白金いろの天末も
   だんだん狭くちゞまって行く

があり、”練瓦工場”が詠み込まれている。
 一方、『校本 宮沢賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)の
《4 花巻付近概念図(大正初期)》

と比べてみると大分岸辺の形状が現在のものとは異なっているなと思う。それはそれとして、イギリス海岸の上方に”煉瓦工場”と書いてあることに気がついた。
 この図と詩『煙』の中身からして、この赤煉瓦の立派な塀のある場所は”煉瓦工場”の跡地ではなかろうかと思った。
 この場所から南方向を見ると
《5 大きな柳》(平成20年12月10日撮影)

がある。もちろんあの『Λ重 上台ギャラリー』の柳の大木である。
 このS字カーブの道を進んで振り返って見た
《6 赤煉瓦塀》(平成20年12月11日撮影)

 また、北上川の方には
《7 イギリス海岸の駐車場とモニュメント等》(平成20年12月10日撮影)

が見える。
《8 イギリス海岸》(平成20年9月19日撮影)

《9 北上川(上流方向)》(平成20年9月19日撮影)

《10 北上川(下流方向)》(平成20年9月19日撮影)

写真の左が朝日橋、右が瀬川橋、右端の構造物が船着場である。
《11 イギリス海岸 案内図)

この案内図の右端の船着場がそれである。
《12 船着場》(平成20年12月10日撮影)

《13 〃 》(平成20年12月10日撮影)

なお、この写真の川面に見える数本の杭は渡し舟の名残の杭のようである。
 ここで堤防(桜堤)に出てみるとそこには
《14 石碑》(平成20年12月10日撮影)

あり。
《15 顕彰碑》(平成20年12月10日撮影)

であった。
《16 〃 (裏)》(平成20年12月10日撮影)

江戸時代41年の歳月を費やして、北上川の切替工事が3度目にしてついに貞享3年に成功したことを顕彰しているのだそうだ。
《17 〃 》(平成20年12月10日撮影)

この図のように、徳川時代中期まで北上川は、本館下からいまの桜台小学校、花巻神社の下を通り愛宕町雄山寺の近く、そして坂本町瑞興寺下を通り、小舟渡地内のいまの後川付近を流れていたのだそうだ。
《18 『花巻城の歴史』の説明図》(平成20年12月10日撮影)

の中の花巻城の下を”L字状”に流れる”瀬川”と書かれている流れが現在の後川である。

 なお、瀬川橋・朝日橋を渡って、北上川に関してイギリス海岸の対岸、下小路側に行ってみたのでその報告を続ける。
 瀬川橋を渡って堤防沿いに遡ると
《19 ここにもイギリス海岸の案内》(平成20年10月21日撮影)

があり
《20 川越しに見た対岸のイギリス海岸》(平成20年10月21日撮影)

《21 かつての渡し舟があったところ》(平成20年10月21日撮影)

《22 対岸の船着場を望む》(平成20年10月21日撮影)

《23 対岸から見たイギリス海岸》(平成20年10月21日撮影)

《24 〃の川舟》(平成20年10月21日撮影)

《25 〃と白鷺》(平成20年10月21日撮影)

《26 舞い上がる白鷺》(平成20年10月21日撮影)

宮澤賢治は北上川を銀河に見立てているふしがある。そして、『銀河鉄道の夜』の例えば”八、鳥を捕る人 ”の中に次のような場面 
「あすこへ行ってる。ずゐぶん奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまへるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといゝな。」と云った途端、がらんとした桔梗いろの空から、さっき見たやうな鷺が、まるで雪の降るやうに、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞ひおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだといふやうにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片っ端から押へて、布の袋の中に入れるのでした。すると鷺は、蛍のやうに、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしてゐましたが、おしまひたうたう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまへられる鳥よりは、つかまへられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見てゐると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融けるやうに、縮まって扁べったくなって、間もなく熔鉱炉から出た銅の汁のやうに、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についてゐるのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしてゐるうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまふのでした。
   <『宮沢賢治全集 7』(ちくま文庫)より>
があるが、おそらく賢治もこの海岸で沢山の白鷺を何度も見ていたのだろう。
《27 イギリス海岸瀬川との合流地点》(平成20年10月21日撮影)

《28 〃のズームアップ》(平成20年10月21日撮影)


 なお、下小路にあった金毘羅さん等についても報告する。
《29 石塔群》(平成20年10月21日撮影)

《30 秋葉山等の供養塔》(平成20年10月21日撮影)

《31 金毘羅供養塔》(平成20年10月21日撮影)

《32 舟玉十二社供養塔》(平成20年10月21日撮影)

 これも
《33 金比羅供養塔》(平成20年10月21日撮影)

《34 庚申供養塔》(平成20年10月21日撮影)

《35 古峰神社、月山等供養塔》(平成20年10月21日撮影)


 ここに金毘羅さんの石塔が2つにもあるとは思いもよらなかったが、考えてみればこのあたりは船着場であり、渡し舟があったところだということに鑑みれば当たり前か。

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