宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

「羅須地人協会時代」の賢治の農業指導(前編)

2017年01月10日 | 常識でこそ見えてくる


























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 「羅須地人協会時代」の賢治の農業指導
 巷間、賢治は聖農であるとか農聖であるとか言われ、あるいは中には、それこそ老農の「石川理紀之助につづく系譜を、正しくつぐもの」であると褒め称える人さえもいる。ということは、賢治はさぞかし稲作指導に奔走し、農民たちのために献身し、しかも相当の成果を挙げたことであろう。それでは、「羅須地人協会時代」の賢治は具体的には如何ほどのことを為したのだろうか。
 しかしながら、よくよく考えてみれば不安が湧いてくる。何となれば、「羅須地人協会時代」に賢治が本格的に稲作指導を開始したのは、昭和2年2月1日以降と一般に言われているようだから、その期間はせいぜい昭和3年8月10日までのわずか1年半余に過ぎない(しかも、その間には約3ヶ月間のチェロの猛勉強のための滞京もあったと考えられるし、「約三週間ほど」の農繁期の滞京もある)し、それ程多くの具体的な賢治の指導実践を私はあまり見つけられないでいるからだ。

肥料設計
 そこで今回は、農閑期の稲作指導、実質的には賢治の肥料設計・肥料相談について検証してみたい。まずその中身がかなりはっきりしているのが、「塚の根肥料相談所」(石鳥谷肥料相談所)の開設だろう。それは、次の3人の証言等、
(1) 菊池信一の次の追想「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」の中で次のような記述、
 羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年三月三十日。雪の消え失せた許りの並木敷地には、春の陽をいつぱいにうけて蕗の芽は萌え初((ママ))めてゐた。
      …(筆者略)…
 去る十五日から一週間午前八時から午後四時まで、休む暇もなく續けざまに肥料の設計を行つたが日毎に人の增える許り、それに先生は次の場所も又次の場所も決まつてゐるので、やつとの事で今日、以前にお氣の毒だつたひと達の淸算に來られる事になつてゐたのであつた。
 七時半の列車に迎へると、先生はいつもの最初の感じで、とても優しく、そして親しげに笑みをたゝえてをられた。…(筆者略)…
 大馬力で三十枚ほども整理し、お晝飯をしたのは一時すぎだつた。
    <『宮澤賢治追悼号』(昭和9年1月発行)、11p~>
(2) 川村与與衛門の座談会における次の発言、
 大正15年の夏休みでしたか、石鳥谷の駅前で、2年ほど宮沢先生が肥料設計をやっていた時代があります。その時、私達も手伝ってくれという事でした。新聞に書いたものを農家に回して歩いて、そうすると、田んぼの土を一つかみ新聞に包んで持ってきて、それを先生が見て、
「ほでこの田んぼには、マメタマ1枚、あるいは1枚半、硫安何貫目、あるいはダラ(人糞尿)を何荷、1かつぎ1荷だから、何荷すれば、また1反歩で何石ぐらい取れる。」
ということを1週間くらい来て指導していった訳です。石鳥谷ではその時3人、菊池信一さん、関良助さんと、私がお世話をして、農民の方々が土を持って来たのを整理して、設計書を宮沢先生が書いてやる。すると、次の日その農民の方がお出でになって、いろいろと土壌の事を聞いてみたりしておったのが、印象的でございました。
        <『花巻農業高校90周年記念誌』、522p~>
(3) 板垣亮一の次の随筆(昭和51年2月24日『岩手日報』掲載のの「ばん茶せん茶」)
 今は亡き菊池君とは同級で、無二の親友であった私は、宮澤沢先生が開設した肥料相談所を訪れ、先生から直接、具体的に稲作指導をしていただいた一人である。
 助手の菊池君が、私から前年度の施肥状況を聞き取り、その記録簿を参考にしながら、赤紫のけい線を引いた肥料設計書を手にした宮澤先生は、私に
「去年の稲の作柄はどうだったの?」
と問われるので、
「秋、出穂後、早く枯れてしまうようで困りました」
と答えたら、
「アンモホスや骨粉など新しい肥料を取り入れてみたらいい」
それに、
「これからは、気象にも大いに関心を持つようにしなけらばならない……」
といわれた記憶がある。…(筆者略)…
 石鳥谷肥料相談所は、午前八時ごろから、午後五時ごろまで開かれていたが、その日課は、農民一人ひとりを相手にした対話方式の設計書の作成やら、訪れたもの全員に対する講話方式の基本的な施肥説明に費やされていた。その相談所を訪れること三日間に及んだ私が聞いた説明の要旨は……
     <『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)、64p~>
があるから、賢治による本格的な肥料相談が複数日に亘って、少なくとも石鳥谷で行われたことはまず間違いないと判断できよう。
 ただしその時期については、巷間昭和3年3月15日からの一週間だったと云われているが、この開設時期については、菊池の「羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年」という記述に矛盾があるから、伊藤光弥氏が疑問を呈しているように、はたして昭和3年のことだったのかということの検討を要するとは思う。そしてそれだけではなく、川村与與衛門の発言、「大正15年の夏休みでしたか、石鳥谷の駅前で、2年ほど宮沢先生が肥料設計をやっていた時代があります」に注意すれば、少なくとも昭和3年に石鳥谷の駅前で賢治は肥料設計をやったとは川村は語っておらず、他の年にであったということになりそうだから、なおさら開設年についての検討は必要だろう。
 他にも、「羅須地人協会時代」に賢治の肥料相談が地元花巻でも行われたことは、
(4) 賢治と下根子桜で暫く一緒に暮らしていた千葉恭が『宮澤先生を追つて(四)』において、
 羅須地人協会の仕事も忙しかつたのでした。秋も過ぎ東北独特の冬が來て五、六尺の雪が積もつた花巻の町角のせまい土間を借りて、百姓相手に土壌の相談と肥料設計に、時には畫食も夕食も食はずに一日を過ごすこともありました。土間といつても間尺三尺奥行二間位のせまい処でした。そのせまい土間にビール箱を机にして、設計用紙と万年筆一本を頼りに、近郷の村々から朝から押しかけて來る百姓達を笑顔で迎え、仔細に質問しながら設計用紙に必要事項を満たしていくのでした。…(筆者略)…農民達は作物に愛着を持ち収穫を充分に希つてゐますが、それについて研究するでもなく、たゞ泥まみれになつて働くばかりが、百姓だと云ふ観念を打破する一番早い策としては肥料、土壌、耕作に対して興味を持たせることであり、興味を持たせるには理論より先に、実際から見る判断であるからその方法をとることであると先生は考えられたのでせう。
 羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究する様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。
           <『四次元9号』(宮澤賢治友の会)、22p>
と語っていることや、川原仁左エ門が『宮沢賢治とその周辺』で紹介している次の、
(5) 平賀林一郎の次のような証言、
 賢治は肥料設計相談所を花巻下町の間口二間に奥行一間の所(今の額縁屋)をかりて農業相談も受け受講者に岩手県農会の経営改善農家になつた湯口村平賀林一郎もその一人であつた。
 平賀一郎の話によると無料相談だというので、いつも数人が待つていて、自分も半日待つて相談を受けたが、その作業の敏速な事は神業を思はしめたと語つていた。肥料設計は県農会の肥料設計に比して多肥多収のもので化学肥料が多いように感じられ自分には自信が持てずその通りには実施しないといつていた。一農家(例へば平賀に)一週間から二週間かかり切りで、施肥其他一切の設計するのとは到底比較にはならないのではあるが。それで、同年七月十日には「稲作指導」を心配した詩が作られるので、二千枚もの肥料設計書を書いたと云はれる賢治は、その作柄の成否には心配であつたと思はれる。と同時に、当時の農業技術員は、勇敢に「肥料設計」を沢山作るのに驚歎し、危惧の念を抱いていたものだ。賢治の天才と勤勉それに稗貫郡下の土性調査の結果が、之を押し切つたのであろう。…(筆者略)…
 当時亀之尾、大野早生が花巻附近の農家で栽培されていて之に多肥に耐えうる陸羽百三十二号をかえて、従来の農家の少肥に油粕、大豆粕を硫安、石灰窒素、加里肥料に置換する賢治の「肥料設計」はされ作成して貰つた農家に幾分は当惑があつたと云はれている。
 が、賢治の農学校や国民高等学校時代の教え子や協会に出入りする農民には、十分理解し得ただろうし、肥料の三要素、基肥追肥潅排水の方法等の講習に大いに効果があつたと思はれる。
 <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、昭和47年)、278p>
 そしてこれまた川原が紹介している、昭和3年4月発行の「岩手県農会報」における、
(6) 佐藤文郷の「農界の特志家/宮沢賢治君」の次の記事、
    農界の特志家     佐藤文郷
 花巻の名物は温泉と人形とおこしとだけではない。円満な物外和尚をしのばせる様な宮沢君も現在花巻名物の一つである。そして此の花巻名物が県の名物となる時が来るかと思われる。…(筆者略)…
 最近二度ほど君の仕事を見るに、冬閑は農家の希望により、学術講演に近村に出かけ殆んど寧日がないとか而して決して謝礼を受けない。昨今は土木管区事務所に出張して、農家の相談相手となり、肥料設計をしてゐる。数日前、君の店を訪問したるに箱の様な代用机三・四脚の腰掛、其処で十四・五名の農家は順番に設計の出来るのを待つて居つた。非常に丁寧な遠慮深い農家だと思つたに、是は皆な無料設計で用紙なども自宅印刷なので、自己を節するに勇敢で他に奉ずる事に厚いと噂にきいてゐる。宮沢君は世評の如く誠に飾ざる服装で如何にも農民の味方の感があつた。(岩手県農会報 百八八号 昭和三年四月刊)
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、昭和47年)、301p>
などから、地元花巻でも肥料相談所が何ヶ所かに開設され、そこで賢治が熱心に肥料設計などに取り組んでいたということもこれまた間違いなかろう。
 よって、「羅須地人協会時代」の賢治が特に農閑期を始めとして、肥料設計や肥料相談にかなり熱心に取り組んでいたということは事実であった、と判断できるだろう。また、本書の最初で取り上げた千葉恭の家(真城村、現奥州市水沢区真城)の田圃等に対しても肥料設計を行っていたことを私は知ることができたから、地元はもちろんのこと石鳥谷、はては水沢の田圃に対してまでもそれらを行っていたことは紛れもない事実であったと言えるだろう。

 石灰の施用についての問題点
 ではここでは、肥料設計の際にその施用を賢治が推奨したと言われている石灰について考えてみたい。
 当時羅須地人協会員でもあった高橋光一は飛田三郎に対して、
(賢治が)羅須地人協會を始める時には「まんず、先さたって助けろ。」(とに角、先頭に立って助力してください)と云われて行きました。
 <『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』(筑摩書房、昭和44年)283p>
と語ったという。そして続けて、
 けれども、先生のことを全部が全部、良く云う人ばかりではありませんでした。…(筆者略)…
 土地全體が酸性なので、中和のために一反歩に五、六十貫目石灰を入れた時には、これも氣に入らず、表土一面真っ白になった樣子に、さも呆れて「いまに磐になるぞ。」とか、「あれやぁ、亀ヶ森の会社に買収されたんだべ。あったな事すてるのは……」とかさまざまでした。けれども私は負けませんでした。先生のおっしゃる事を信じていたからです。
<同285p>
いうことも証言していた。
 そしてこのことを知った私は、ちょっとおかしいなと思った。それは、賢治から石灰の効用を教わった高橋は、
 「いまに磐になるぞ」と呆れられる程の石灰を撒いたことがあった。……①
と言っていることになるからだ。常識的に、それほどの石灰を撒いたのでは「過ぎたるは及ばざるが如し」だろうと思ったのだった。
 その一方で、賢治は肥料の三要素の他に石灰の効用を説いたことは承知の通りである。そしてたしかに、賢治の肥料設計書〔施肥表A〕には「石灰岩抹」の項がありこれが「石灰」に当たるのであろう。ではなぜ石灰を撒布するのかというと、「東北地方の酸性土壌を中和させるには石灰が必要」というのがその理由であったからのようだ。

 ところが平成28年9月7日に、滝沢市のKT氏(かつての満蒙開拓青少年義勇軍の一人で、昭和2年生まれだからこの時約89歳。満州から引き揚げた後に滝沢巣子の開拓地に入植した方)に会った際に、
    水稲は酸性には耐性がある。……②
という意味のことを教えていただいて、私はハッとした。
 つい今までは、巣子は岩手山の麓でありたしかに土壌は酸性土壌であったであろうから、石灰を撒布などしてさぞかし土壌改良して中和せねばならなかったであろう思い込んでいた私は、とんでもない誤解をしていたのかもしれないと直感したからだ。そして、やはり〝①〟はまさしく「過ぎたるは及ばざるが如し」だった蓋然性が極めて高かったであろうということを覚悟した。
 そこで、インターネット上で調べたみたならば次のような論文
   「第2 土づくりの基本」
http://www.maff.go.jp/j/seisan/kankyo/hozen_type/h_sehi_kizyun/pdf/08400104chap2kihon.pdf#search='%E6%B0%B4%E7%A8%B2%E3%81%AB%E6%9C%80%E9%81%A9%E3%81%AA%EF%BD%90%EF%BD%88%E5%80%A4'
が見つかり、その中の「(2) 土壌pH調整資材 ア 低pHの土地改良」によれば、
 推薦の土壌の改良目標はpH5.5~6.5である。水稲は酸性に強い
とあるではないか。なんと、たしかに「水稲は酸性に強い」とある。なおかつ同様な記述は他にも見つかった。

 やはり、満蒙開拓青少年義勇軍で苦労し、日本に戻ってからは岩手山の麓故に酸性土壌であるはずの巣子に開拓農民として入植されたKT氏だけあって、仰る通りだった。水稲用の土壌は、場合によっては中性化(pHの値をより大きくすると言う意味の)する必要はあったとしても、最適なそれは中性ではなかったのだ。ましてや、アルカリ性であることでは決してなかったのだ。そうではなくて、実は、
 酸性である〝pH5.5~6.5〟の土壌にすることが水稲にとっては最適なpHだったのだ。
ということをやっとここに至って私は初めて知った。
 つまり、水稲用の土壌は中であっては駄目である。 何となれば、周知のように、 pH7で中性であり、それ未満が酸性、それを越せばアルカリ性だ。よって、最適の〝pH5.5~6.5〟はpH7よりも値が小さいのでもちろん酸性(より精確には弱酸性~微酸性)である。
 当然、
   稲に対して石灰のやり過ぎは危険である。……●
ということにもなる。
 例えばよく知られているように、小岩井農場も酸性土壌の改良のために石灰を撒布したと言われているが、小岩井の場合は牧草を育てるための土壌改良だし、論文〝「土壌pHの矯正が牧草の生育・ミネラルバランスに及ぼす影響」、新潟畜試研報Nol2(1998)〟によれば、一般的な牧草の
 アルファルファは中性からアルカリ性、オーチャードグラスは弱酸性
といわれているそうなので、水稲の場合とは異なっている。簡潔に言えば、小岩井農場と同じような石灰の撒布をしたのでは、牧草には適していたとしても水稲のためにはかえって好ましくなく、逆に〝●〟ということになるということが容易に導かれる。

 したがって、賢治はこの時の高橋に対する石灰施用指導がはたして適正だったかということを本来ならば検証しつつ指導を続けるべきだったはずだが、そこまでのケアをはたして賢治は行ったのだろうか。おそらくそれは為されなかった可能性が高い。なぜならば、私が知る限りではそのようなことをしたという証言や資料が残されていないからだ。
 よって、上手くいかなった場合のその原因は指導された側にだけあったわけではなくて賢治の側にも、つまり、指導の仕方にもともと限界があったり、あるいは理論そのものが始めから間違っていたりしていたという可能性も否定できない。
 それはまず、賢治は水稲の場合も土壌は中性が最適であると思い込んでいたということもあながち否定できないし、あるいは当時の賢治は水稲の適正ななpHは〝pH5.5~6.5〟であったということを知らなかったか、はたまた時代がまだそのことをわかっていなかったということもあり得るからである。
 そしてこのことは、賢治とはかつて花巻農学校で同僚で、当時花巻市農業共済組合長であった阿部繁の森荘已池の次の質問に対する、
森 賢治の肥料設計は古いんだと、とくとくとして言っているのを聞いて淋しいと思ったことがありましたが。
阿部 その通りです。科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもない人間ですから、時代と技術を超えることは出来ません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです。宮沢さんの場合、岩手県の農業を進歩させたとか、岩手県の農業普及に大きな功績があったというのではありません。宮沢さんは試験場長でも育種研究家でもないのですから――。そして農業技術の方から見た場合は低くて貧しく、そしてまずい稗貫あたりの農業のやり方を幾分でも進歩させ、いくらかでも収穫量を高めたいということで、一生懸命やったので、岩手県の農業全般を高めたなどということはありません。そんなことではなくて、宮沢さんの場合、もっとも大事なことは、技術の根本にある、隣人を愛すという深い愛情にあることの方が、はるかに重大なことと信じます。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)82p~>
という阿部の回答を知れば、十分に起こり得たことだとわかる。
 それは他でもない、かつての花巻農学校の同僚阿部の発言である、「科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもない人間ですから、時代と技術を超えることは出来ません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです」という発言は、そのことを示唆しているのかもしれないからである。
 どうやら、賢治の石灰施用の指導にはもともと理論的な欠陥があったという可能性が浮上してきた。つまり、賢治の当時の石灰施用の指導には始めから限界があったのだということもあり得そうだ。もちろんだからといって、それは阿部が『時代と技術を超えることは出来ません』と言うように、賢治一人の責任ではなかったのだが。

 さて、私は水稲に適した土壌はついついアルカリ性が適していたとばかり今まで思っていたが、それはもちろん不適だし、中性であってさえも同様であることを知った。そしてこのことと似たことを今思い出した。
 それは、賢治の先見の明と尽力があって岩手に陸羽132号が普及したと、かつての私は思い込んでいたのだが、『水沢市史 四』によれば、
 水沢地方での陸羽百三十二号は、大正末期から昭和三十七年(一九二六)までの実に四十年間の長い期間栽培された。亀の尾以来の寿命の長い品種であった。
 岩手県には、高橋茂がこの品種を胆江分場に持って来た。高橋茂は大正九年(一九二〇)の五月陸羽支場から着任したが、よく十年一月郷里に里帰りした際に、まだ品種名が附いていないものを陸羽支場から貰って来たのであった。勿論その年のうちには陸羽百三十二号という品種名は附けられた。そして大正十三年県奨励品種に採用されると、冷害にも稲熱病にも強い品種を待ち望んで農家から歓迎を受け、昭和二年に作付割合が三〇パーセントを超え、同十八年(一九四三)には八五.五パーセントにもなった。
<『水沢市史 四』(水沢市史編纂委員会編、水沢市史刊行会、
昭和61年11月発行)259p~>
ということだから、陸羽132号が逸早く普及したのは胆江分場の功績が大きかったし、大正13年には県の奨励品種に指定される前から、江刺や胆沢の分場に近いところに普及されていたという訳である。そしてもちろん、岩手県全体としても同品種は既に大正13年に県の奨励品種となっていたということがわかる
 また、『年譜宮澤賢治伝』を見ていたら
 筆者はある年、花巻農会を訪ねていろいろきいたことがある。職員のある人はこういった。
 ――賢治のやったことは、当時農会でもやってましたよ。陸羽一三二号だってとっくにやってました。何も特別なことはないですよ。
<『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)338p~>
 したがって常識的に判断すれば、岩手県全体に陸羽132号が広まったのは宮澤賢治一人が奨励したから広まったという訳ではどうやらなかった、と言えるだろう。

稲作指導
 さて、「羅須地人協会時代」の賢治は、少なくとも農閑期を中心として肥料設計や肥料相談に熱心だった時があったことはこれで明らかになった。それでは今度は、同時代の農繁期の賢治の稲作指導は具体的にはどのようなものであったのだろうかということを検証してみたい。
 そこで、まずは「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走したであろうことを裏付けてくれそうな資料等を渉猟してみる。その候補群を時系列に従って並べてみるとほぼ以下のような【リスト1】となる。ただし私が調べてみた限りでは、明らかに気象面や稲作被害等で事実誤認をしている個所(〈註一〉)は赤色文字に、そしてこれまた同様に、気象面から、あるいは新聞報道等によればあくまでも推定である個所、あるいは「羅須地人協会時代」としては当て嵌まらない蓋然性が高い個所はともに橙色文字にしてある。

【リスト1】
① (昭和2年)七月の末の雨の降り樣について、いままでの降雨量や年々の雨の降つた日取りなどを聽き、調べて歸られた。昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)所収
「測候所と宮澤君(福井規矩三)」>
② 又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した爲、先生を招き色々と駆除豫防法などを教へられた事がある。
 先生は先に立つて一々水田を巡り色々お話をして下さつた。先生は田に手を入れ土を壓して見たり又稻株を握つて見たりして、肥料の吸収状態をのべ又病氣に對しての方法などわかり易くおはなしゝて下さつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)所収
「ありし日の思ひ出(平来作)」>
③ 飯豊の役場近くになつた田圃道にさしかゝつたとき、頰かむり懐手して馬に手綱を頸にかけて、呑氣に馬をひいて來る五十歳許りの親爺さんに出逢つたのです。通りかゝるとき、
「おまへさんの田コ、この近くだんすカ」
 雪溶けの水でザンブと浸つてゐた田に手を突込んで、眞黑な土を取り出して、指でこすつてみたり、水洗ひして、掌でよく觀察してをつたやうですが
「去年の稻なじょだつたス」
「…………………………」
「肥料何々やつたス
 金肥なじよなのやつたス」
「…………………………」
 尚も掌の土をこまごまと調べてをつたのですが、
「それぢア、今年の肥料少し考へだほーよがんす」
「………………………………」
「………………………………」
 汚くなつた手をザブザブと無雜作に洗ひ流してゐました。
 親爺さんは、
「おまへさん、どこの人だんス」
「近くの町の人ス」
 先生はかうして一百姓に、今年の取るべき稻作方法を教へたのですが、懇ろに教へ導いて行く樣子は、誠に快い感じを與へてくれるのでした。気障ではなく、心の奥底から迸る誠意の言葉であつたのです。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)所収
「宮澤賢治先生(照井謹二郎)」>
④ その年(昭和3年:筆者註)は恐ろしく天候不順であった。先生はとうに現在を見越して、陸羽一三二号種を極力勸められ、主としてそれによつて設計されたが、その人達は他所の減収どころか大抵二割方の增収を得て、年末には先生へ餅を搗いて運ぶとか云つてみんな嬉しがつてゐた。たゞだそれをきかずに、又品種に対する肥料の参酌せずに亀の尾一號などを作られた人々は若干倒伏した樣だつた。それは極めて少數だつたが、他人を決して憾まなかつた先生は大いに氣に留められ、暑い日盛りを幾度となくそれらの稻田を見廻られた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)所収
「石鳥谷肥料相談所の思ひ出(菊池信一)」>
⑤ 五日間ほどでその相談所(塚の根肥料相談所:筆者註)を閉ぢましたが、苗が水田に移されて大分經つた頃、賢治さんはこの地方の稻草の状況を視察に來たらしく、ひよつこり教え子の菊田の家に立ち寄りました。
「この邊を濟まないが案内して下さい。」
 焦げ穴のあるヅボンにゴム靴を履いた賢治さんは、行く先々でゴム靴を脱いで田の中に入り、手をつゝこんで水溫地中溫を調べ、莖をたはめて稲の強さを計り、その缺點を指摘し、處理すべきことをいひ付けて行きます。その後は九月まで一人で來て、その地方の田を幾囘見廻つたか判りません。大變な責任をもつたものです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年)、178p>
⑥ 賢治氏は稲作の指導といふよりはもつと根本的な土壌の改良、肥料の設計、勞働の能率等について、農村自體の向上のために非常な努力を拂はれました。齋藤彌惣さんの家にも年々二度位づゝわざわざ出かけて行き、その直接の指導にあたりました。
 鍋倉は町から近道を行けば約一里半ですが、賢治氏は志戸平温泉へ行く方の道、つまり縣道を眞直ぐに行つて、途中上根子や二ツ堰のの人たちを訪問し、その足で鍋倉へ行きました。鍋倉を終ると、湯口村の隣の湯本村へ行つて、小瀬川などを訪問して歸るのであります。…(筆者略)…
 賢治氏はそれから齋藤さんと畠へ出て行きそのへんの土を手にとりながら、土壌改良法に就いて、齋藤さんに解り易い言葉を以て叮寧に説明します。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、協榮出版、昭和18年)、3p~>
⑦ 羅須地人協会ができるとともに、宮澤先生のお仕事は、ひろくふかくなつて來ました。花巻の町や、花巻の近くの村に、肥料相談所をつくりました。みんなただで、稻のつくり方の相談所をひらいたのです。そこで相談しただけでありません、來たひとびとのたんぼは秋のとり入れのときまで、見てまはつて、これはああすればよい、これはかうすればよいと、教へたのです。ときには、村村へ行つて、稻作の講演会もひらきます。もちろん、ただの一銭もお金はもらひません。<『宮澤賢治』(森荘已池著、昭和18年)175p>
⑧ ひでり、大根、稻に害のある虫、寒い夏、洪水、昭和二三年のころには、こんな天災が、多かつたのです。そのたびに、宮澤先生は村村をかけまはつて、それをふせぐにはどうしたらよいか、お百姓さんたちに教へてまはりました。
<『宮澤賢治』(森荘已池著、昭和18年)、201p>
⑨ 賢治は大正十五年年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農學校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊をしながら、附近を開墾して半農耕生活を始めたのでありますが、やがてその地方一帯の農家のために数箇所の肥料設計事務所を設け、無料で相談に応じ、手弁当で農村を廻っては、稻作の実地指導をしていたのであります。昭和二年六月までに肥料設計書の枚数は二千枚に達していたそうで、その後もときに断続はありましたけれども、死ぬまで引続いてやつていたのであります。しかもそういう指導に当っては、自らその田畑の土を取って舐め、時に肥料も舐めた。昭和三年肺炎で倒れたのも、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走したための風邪がもとだったのでありまして、その農民のための仕事を竟に死の床までもちこんだのであります。
<『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局、昭和45年)所収の16p~の「雨ニモマケズ」(昭和19年9月20日に東京女子大における谷川の講演)>
⑩ 単に肥料や土壌のことばかりではなく、出來得るだけ農家自體の内容を聞いて、善處させるやうに智恵を借((ママ))してをりました。…(筆者略)…「齋藤さんとこの苗代は、苗代の位置が惡いし、芝垣も生えて日蔭になるから苗の生長もよくない。併し苗代を變へることはさう簡単にゆかないでせうから、來年はあそこの苗代を先づ半分こちらへ移し、翌年はまたかへてゆくやうにしてごらんなさい。」と親切に教へてくれました。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和22年)、48p>
⑪ 稻作相談所というのもやつた。これも肥料設計と同樣に、いっさい謝禮というものをうけとらなかつた。何里の道でも、じぶんでおべんとうをもつてあるいて出かたのである。私のきいたところによると、汽車で二時間もかかるところさえも徒歩でいつている。
 昭和二年は、風水害、蟲害、冷害、いろいろの凶作的現象がいちどにおしよせた年であるが、このときの彼の活動はすさまじいものがあつた。そしてとうとう稻作指導にでたとき、大雨にぬれてかえつたことから肺炎になつて病床の人となったのであつた。
<『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、日本社、昭和23年)、68p>
⑫ 賢治の住んでいる下根子はじめ花巻あたりでは、春に田に種もみをまいてから、四十日目くらいに田植えをする習慣があつたが、賢治は、種もみをまいてから五十日目から、五日間位で植えるようにと教えている。
 何故かというと、四十日で植えてしまうと、田によけいに肥料がいるからであると教えている。
「田の草は一箇月のうちにみなとつてしまつて、あとは田んぼの中にはいつてはいけない。稻の根を切つてはいけない。一本でも稻の根を切ると、もう一粒だけ、實の入らない粒が出る。」
 と、いふように、まつたくこまかなところまで、ていねいに教えている。
 水が冷たいので、どうしても思つたよりも米の収穫の少ないといつて指導をうけにくる農民には、
「苗をうすくまいてね、つよくそだてて、三本くらい一株にしてやつてみて下さい。」
 と懇切な指導をしてくれるのである。
 田んぼに、硫安を使うひけつを質ねると、
「ああ、それは雜作もないことですね。硫安を土に混ぜ、その土を田にまけば、硫安は土と共に田の底に沈み、田に水のある場合も流れず、まきちらした硫安の効果は充分にあがるわけです。もちろん、田植えをした後の田にまくのですね。」
 こうした技術指導が、手にとるように行われたのである。賢治が、花巻近郊の農民から「肥料の神さま」といわれるようになつたことは當然なことであろうとおもう。
<『宮澤賢治 作品と生涯』(小田邦雄著、新文化出版、
昭和25年)、227p~>
⑬ 「齋藤さん、今年の稻の丈は去年よりどうですか。」と聞くと、齋藤さんはあいまいな面持ちをして、「どうもそこまで計つて見たこともありません。」といひますと、賢治氏は面を柔らげ「それは困りますね、農村人が他の文化より遲れてゐるやうにいはれたり、事実割の惡い貧乏に甘んじなければならなかつたりすることは、色々の社會的な關係もありませうが、農村自体がもつと聰明にならなければならない。唯昔からありきたりの習慣制度を守つただけで年月を過ごすやうでは、いつまでたつても、不遇の位置から逃れることは出來ません。それには心を、土壌にも肥料にも天候にも又農業に必要な知識へぴつたりと向けて、一日々々を大事な日として良い方へ向けてゆくより外に仕方がないのです。…(以下略)…」
<『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、酪農学園出版部、
昭和25年)、192p~>
⑭「昨年の稲作は案外よくまことに安心いたしました。それはあの天候に対して燐酸と加里が充分入つてゐたのが効いたのでせう。
 今年も昨年通りでいゝと思ひますが、なにぶんどの肥料も高くなつてゐますから、もしもつと安くしやうと思へば次の通りになります。但し結局は昨年通りが得でせう。」
 ◎肥料も大事ですがだんだん深耕してまだまだとる工夫をしませう。
<『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、酪農学園出版部、
昭和25年)、205p~>
⑮ ある時などは、肥料を入れたばかりの田の水へ手を入れ、温度を計つてみられたり、土をつまんで舌の上でなめてみられたり、おそらくどこの先生だつてやりそうもない事をやつて、農業の原理を教えて下さるのでした。
 ある七月の無類に暑い時、稲熱病が発生したので、先生をお招きして、駆除予防法を教えられたこともあります。
 そんな時も、先生は田に手を入れて土を押してみたりして、肥料の吸収状態をのべたり、病気に対しての方法など、わかりやすくお話しして下さいました。
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、
昭和32年)、212p>
⑯ (昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、
「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった。その時もあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。」
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)、620p>
⑰ (昭和3年)七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(筆者略)…おはなしゝて下さつた。」
とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月の旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)、633p~>
⑱ 一九二八年の夏、周囲の田に稲熱病が発生、賢治はあちこち走りまわって、病気駆除の指導をしてまわったが、遂に八月十日高熱に倒れ、それから四十日間熱と汗に苦しんだ後、両側浸潤と診断された。
<『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社、昭和56年4月)、91p>
⑲ (昭和2年)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。…(筆者略)…
 (昭和3年)七~八月、稲熱病や旱魃の対策に奔走、八月発病病臥。
<『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫、平成元年)所収年譜>
⑳ その上、これまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者注)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。彼は測候所へ出かけて記録を調べたり、天気予報をきいて、対策に走りまわった。けれどもその結果は、次の詩が示す通りである。
<『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、
翰林書房、平成7年)、152p>
㉑ 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するために農村巡りを始める。この肥料設計こそ無料奉仕で行われたものである。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社、
平成13年)、79p>
㉒ (昭和2年)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
<『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社、昭和59年)、77p>
(以上)
 そこでこのリスト全体を眺めていると、昭和52年以降になると赤色文字や橙色文字が多いことに気付く。つまり、昭和52年の『校本宮澤賢治全集第十四巻』出版以降になると、事実誤認やあくまでも単なる推定、あるいは「羅須地人協会時代」としては当て嵌まらないものが目立つようになっている。となればさて、その理由は何であろうか。
 まずは、上掲リストを落ち着いて眺めて見ればその節目は、福井の「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった(ただし先に実証したように、これは福井の「事実誤認」)」であることが一目瞭然である。したがって、この「事実誤認」そのものと、及びその影響力の甚大さに鑑みれば、その「事実誤認」を検証もせずに載せた「旧校本年譜」がその主たる「理由」であろうことが常識的には言えるだろう。なぜならば、「旧校本年譜」出版以降で「問題となる記述内容(つまり赤色文字や橙色文字部分)」は皆、この福井の「事実誤認」と符合するものばかりだからである。しかも、それ以前にはこの「事実誤認」は他の論考等で引用されていないからである。

 ということは次のような現象がそこに起こっていたと言えそうだ。この「事実誤認」の初出は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年、317p)だから、誰一人として昭和52年まではこの「事実誤認」を自分の論考に引用した人はないということであり、そのような人達はおそらくこれは「事実誤認」であるということを知っていたか、あるいは裏付けをとろうとしたところ、昭和2年は冷夏でもなければ、ひどい凶作でもなかったことに気付いていたのであろう。
 ところが、「旧校本年譜」にこの「事実誤認」が載ってしまった途端に、少なからぬ賢治研究家がこの事実誤認である「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」を検証もせず裏付けも取らずに、筑摩書房の発行したものだからとその中身を端から真に受け、いわば「文献の孫引き」をしてこれは歴史的事実だと安易に思い込んでしまったという現象がである。
 まさにこの現象は、先に引用した、
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
という石井洋二郎氏の懸念していたことが現実に起こった一つの具体的な事例だと言えそうで、
〝「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という「事実誤認」が「旧校本年譜」に載ってしまった〟
ということがまさに、
〝あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまう〟
ということになったと言えそうだ。
 言い換えれば、「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導の裏付けとして使える資料としては、赤色文字や橙色文字部分があるものは資料としての信頼度が低いのでそれらを除いたものとならざるを得ないだろう。

<註一> 福井の「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」は彼の全くの事実誤認であることは、既に実証したところであるが、それどころか逆に、稗貫郡の昭和2年の水稲は天候にも恵まれ、周りの郡とは違っては稲熱病による被害もそれほどではなく、昭和2年の稲作は少なくとも平年作を上回っていたと判断できる。
 また、昭和3年の夏に盛岡や花巻周辺で40日以上も日照りが続いたことはたしかに事実だったと言えるが、かといって、「気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走した」ということはほぼ考えられないことについては拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』において実証したところである。しかも、この年に稲熱病が発生したとしてもそれが稗貫郡で猖獗したということは当時の新聞報道によればそのような事実は見つからないし、稲熱病が猖獗するような気象条件等にもほぼなかったので、「一九二八年の夏、周囲の田に稲熱病が発生」ということもまずあり得ない。
***************************** 以上 ****************************

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』             ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)         ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』    ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』   ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』



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