すずきせいこの「日々雑感」

政治や暮らし、孫のことから平和・原発問題まで“本音でしなやかに”・・・

森羅万象、梅原司平コンサートin上越

2017年09月03日 | 日々思うこと

日曜日の朝は突然の雨で驚きで、昼過ぎに上越文化会館での「梅原司平コンサート」へ友人らと出かけました。日頃、子どもたちへ絵本の読み聞かせをしているIさんと、孫たちのお習字の先生のSさんとの約1時間の車中は、国連高校生平和大使として帰国した神谷優季さんのことや核兵器禁止条約のこと、亡き日野原重明先生に至るまで話しは尽きず、あっという間に会場へ到着です。

文化会館中ホールは空席がないほどでしたが、上越の友人Fさんが前から2列目を確保して待っていてくれました。梅原司平さんの上越でのコンサートは5回目で、私は昨年3月のリージョンプラザに続き2度目です。

シンガーソングライターとして45周年を迎えた富山県出身の梅原さん、今回は富山大空襲で焼け野原になったことや、貧しかった生い立ちなどを加えながらのお話しで、説得力があり平和の大切さがビンビンと伝わります。 

先ずは戦後、中学1年生用社会科副読本のあたらしい憲法のはなし』についてで、木田ひろしという人の名前をはじめて聞きました。広島出身の木田さんは、学徒出陣から戻ったら原爆で家が全滅し、文部省に入り『あたらしい憲法のはなし』という副読本を作り、その後、文部省官僚として南極観測に関わり、南極条約が日本国憲法から生まれたことを初めて知りました。

当時、観測に参加していた7カ国が南極を自分の国の領土だと主張、また米ソがそれぞれ南極に軍事基地をつくるのではないかと疑い対立していた時に木田さんは「日本は戦争放棄の新しい憲法を持ってスタートした。これを一晩読んで明日もう一度話し合ってほしい」と大演説をし、英訳した日本国憲法を配布したそうです。

各国代表は度肝を抜かれて翌日に話がまとまった、それが1959年の南極条約で内容はいたってシンプルで、領有権は凍結され人類の共有財産であること、軍事利用は禁止され、科学的な調査活動のみ、戦後の国際条約の中で最良のものの一つになりました。

その後、南極条約がモデルになって1966年には宇宙条約ができ、大気圏外は人類共有のもので軍事利用や核使用は禁止とされたこと。1968年には中南米が非核地域の条約を結び、さらに海底条約、南太平洋の非核地帯化、東南アジア非核地帯条約へ。アフリカ統一機構でも非核化を打ち出し、南アフリカ共和国はその際、すでに保有していた核兵器を廃棄した。中央アジアでもモンゴルが非核宣言をしていることを知りました。

日本国憲法を読んだ人が感動して南極条約をつくり、それをお手本にして次々に国際平和条約が作られ、戦争でもめているのは世界の中ではもはや少数派ではと受け止め、2時間半に及ぶ森羅万象のコンサートに心温かくして帰途に着きました。

夕方6時前に無事に帰宅し、北朝鮮の29日の弾道ミサイル発射に続く、核実験というニュースにビックリです。これは日本を含む周辺国への挑発で、強い憤りと悲しさを感じてしまいます。そして上空の放射線量はどうなのかと気になる一日の終わりです。

※木田ひろしさんと南極条約については、2008年の井上ひさしさんの記念講演『憲法について、いま どうしても伝えたいこと』を参考にしました。http://www.k2.dion.ne.jp/~kenpouhg/topics/inouehisashi_kouen.html


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