SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

世界へとオクレ出す脳

2008年12月15日 | Weblog
 美術界のMr.オクレ、古谷利裕が本を出したらしい。もともと文化的にオクレていた人なのだけれども、保坂和志とつるむようになってから、ますますオクレてきているようだ。書店でその本を手に取った瞬間、「うわあ、オクレてるー!」と思った。その装丁とともに、古谷の文章から滲み出すこの「オクレ感」は何なのだろうか。いまどき「ボヴァリー夫人」はないだろうに。いまさら「ウテナ」はないだろうに。それでもリンチや岡崎を語ればオクレていないとでも思っているのだろうか。しかしこの評論のオクレ感は、語る対象がオクレているからというより、古谷自身のその特異な体質から滲み出して来ているのだろうと思う。だから古谷に評論されたら、たまったもんじゃない。誰のどんな作品もあっという間にオクレてしまうことになる。これまでもセザンヌで村上隆をオクレさせ、この本でもマティスで横尾忠則をオクレさせている。どこまで現代のアーティストをオクレさせれば気が済むというのだろう。作家はこの美術界のMr.オクレに気をつけたほうがいい。

【追記】 とはいえ日本の美術評論界はMr.オクレの巣窟だといっていい。ブログに限っても、ほとんどの奴はMr.オクレだ。たとえば、この井上治幸殿のオクレ度はハンパじゃない。文章はもとよりプロフィールの写真からしてオクレており、というかオクレているのを自慢しているかのようだ。井上殿はホンモノのオクレだ。あと彦坂尚嘉も取り返しがつかないほどのオクレ感を見せている。自覚はないのだろうか。(ちなみに上の写真のいちばん左のメガネの人が彦坂氏である)

夢や空想まで映像化?脳血流パターンから画像再現に成功

2008年12月13日 | Weblog
「人が見た文字や図形を脳から読み取り、画像化する技術を国際電気通信基礎技術研究所(ATR、京都府精華町)などが開発した。11日付の米科学誌ニューロンに発表する。将来、睡眠中の夢や、頭の中で空想した内容などを、映像にできる可能性があるという。人が目で見たものは、網膜で電気信号に変換され、大脳の視覚野で映像化される。同研究所の神谷之康・神経情報学研究室長らは、100個のマス目に白と黒のモザイク模様が並ぶ画像400枚を被験者に見せ、脳の活動(血流の変化)を機能的磁気共鳴画像(fMRI)という装置で計測した。そのデータをコンピューターで分析し、脳の血流変化のパターンから、見たマス目が白だったか黒だったかを類推する技術を編み出した。この方法を用いて、アルファベットや図形を見せた人の脳から読み取った情報を基に、元の文字や図形を再現することに成功した」(2008年12月11日03時04分 読売新聞

 すげえな。そのうちYouTubeやニコ動に脳内映像を直接アップロードしたりダウンロードしたりする時代が来るのかな。ハードSFもビックリの現実だ。これで精神分析もクオリア脳科学も共におしまいだ。

バスキア

2008年12月11日 | Weblog


 藤枝晃雄教授はこれまでずっと村上隆の悪口を言い続けているわけだけれども、本当は、その心の深いところに、村上への何か熱い思いがあるんじゃないか、と私は思っている。というか信じている。私は画家のジュリアン・シュナーベルが製作した映画 『バスキア』(1996年)のなかの、このシーンがとても好きだ。何度見ても熱いものがこみ上げて来る。クリストファー・ウォーケンならではの演技である。

小林秀雄とクオリアと恐山

2008年12月09日 | Weblog


「革命が近い。単なる科学革命ではなく、人間存在の拠って立つ基盤自体が変化し、私たちと世界の関係自体が変化するような革命の足音が聞こえはじめている。人間とは何か、人間はどこから来てどこへ行くのか? このような究極の問いに答えるための鍵となるステップが今や見えてきている。人間とは何かという問いに答える鍵は、私たちの心の中のクオリア、及びそれを支える主観性の構造の物質的基礎を明らかにすることである。クオリアや主観性の起源を明らかにすること以上に重要な知的チャレンジは存在しない」(茂木健一郎)---子育てパパのブログ日記『ノーベル賞に最も近い日本人「茂木健一郎」氏が唱える「クオリア」と「うつ病」』より抜粋

最後の一つ前の Chim↑Pom

2008年12月08日 | Weblog


 先の藤枝教授の非難を受けていた作品「タイムボカン」について、村上隆は以上のような解説をしている。最後の言葉を、最後の言葉の一つ前の言葉の反復、その単調な繰り返しに貶めるメカニズムについて、もっと考えなければならないだろう。たとえばChim↑Pomが広島の上空に描いた「ピカッ」という文字は、その次に来るはずの「ドン」という最後の言葉の一つ前の言葉である(ピカドン)。しかし来たのは「ドン(死)」ではなく、周知のとおりの騒動である。ここで「ドン(死)」は二つに分割され、Chim↑Pomは、そのもう一つの意味で「ドン」されるほかなかったのである。

現代芸術の不満

2008年12月07日 | Weblog


『シミュレーショニズム2』の第三章は衝撃的である。私はこの本が完成したらまず武蔵野美術大学に贈呈し、あの高名な名誉教授に対談を申し込むつもりでいる。ターゲットはモダニズム芸術のボスキャラともいうべき、あの藤枝晃雄教授である。『シミュレーショニズム2』の第三章は藤枝教授の価値観への徹底的な批判となっているのだ。もし対談が実現したら、私はとうとう言ってしまうつもりだ。「先生の考え方は間違っている。それも少し間違っているんじゃない、最初から最後まで全部間違っている」。殴られようが何をされようが構わず言ってしまうつもりだ。「先生は今の現代アートを『面白主義』だと言って非難されていますが、ならば先生の認めるフォーマリズムの絵画なんて、たんに『面白くない主義』のお絵かきに過ぎない」等々......。藤枝教授に、スーパーフラット(村上隆)の素晴らしさや、イリュージョンの楽園(太郎千恵藏)の楽しさや、ピュアランド(森万里子)の美しさを伝えるのは不可能だ。だが私はその絶対的な不可能にこそ挑戦したい。それこそ批評の醍醐味というものではないだろうか。いつか誰か、このモダニズムのボスキャラを倒せねばならないのだ。

『シミュレーショニズム2』について

2008年12月06日 | Weblog
 先の予告トレーラーでは誤記はあるはオチはつまらんはで散々な結果に終わったわけだが、デュシャンが便器で荒川がトイレット・ペーパーならば私は便所の落書き(2ちゃんねる)でいこうと、そう安易に考えたのが失敗の原因であった。だが、『シミュレーショニズム2』を書くというのは本当だ。椹木野衣の名著『シミュレーショニズム』(1991)の続編は、このゼロ年代のうちに誰かが書かねばならなかったのである。しかし誰も書かなかったので、ならば私がこれから書こうというわけだ。また人のふんどしで相撲をとる気か、と言いたいのならそう言えばいい。池田のアニキが指摘しているように、今の日本の文化は国際的にも(そして歴史的にも)完全に閉じている。日本の美術界ではいまだに「モーリス・ルイス」とか「ジャクソン・ポロック」などの「近代絵画」を観てありがたがっている「時代遅れ」の人々が沢山いる。いまどき「モダニズム」はないだろうに。このゼロ年代に「マティスとセザンヌ」はないだろうに。日本の美術界がこのまま「鎖国」するのを防ぐためにも、私は書かねばならないのだ。やり遂げねばならない。

紙かそれとも私か。ご存知のように......

2008年12月05日 | Weblog


「自宅の壁が厚くなるばかりです。色を塗った壁紙によってではなく、棚によって。やがて足の踏み場もなくなるでしょう。紙の上に紙を置くようになるでしょう。困ったことです。環境が屑のような書類になり、自宅が紙の問屋になるのです。ここで問題にしているのは残念なことに、もはやペンで書く紙ではなく(残念なことに私が判読しにくい文字をペンで書くことはほとんどなくなったのですが)、さきほど「二次的な」と呼んだ紙のことです。印刷された紙、技術的な再生可能性をそなえた紙、その他の紙、要するに、原本の〈あとの〉紙です。そうして曲線が反転します。私はこうした紙を消費します。コンピュータや、紙が不要になると言うので「サンパピエ」と呼ばれるマシンを導入する前よりも多くの紙を、自宅にため込んでいるのです。本は別にしてです。紙はこうして私を自宅から追いだすのです。紙が私を狩りだすのです。今度は、どちらか一つです。紙〈かそれとも〉私か、その〈どちらか〉だけ」(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻380ページ「紙かそれとも私か。ご存知のように......」より抜粋)

予告

2008年12月03日 | Weblog


【訂正】「シュミレーショニズム」を「シミュレーショニズム」に訂正したいのだが、もうどうにもならんしな(爆)