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日本語はすでに亡びている
本書はちょっと前にブログ界で話題になったようだが、妻が買って「つまらない」といって投げ出した。私もパラパラと読んでみたが、やはりつまらなかった。論旨が整理されておらず、何がいいたいのかよくわからないのだ。タイトルから日本語が文字どおり使われなくなると主張しているのかと思って読むと、どうもそうではないようだ。要するに、このまま放置すると英語が<普遍語>になり、日本語が<現地語>になって、日本文学が亡びるので守らなければいけないということらしいが、これは認識として間違っている。少なくとも学問やビジネスの世界では、日本語はとっくに現地語でしかない。著者は「日本文学の衰退」をしきりに憂えるが、私はローカルな文化としての日本語は衰えないと思う。問題はむしろ日本語が発達しすぎ、ほとんどの用がそれで足りるため、すべての文化が国内で閉じていることだ。国際学会に出ると、日本語の発表はもちろん、日本人の発表もほとんどない。無理やり「アジア代表」で招待された日本人も、うつむいて原稿を読むだけ。技術標準を決める会議でもそんな調子で、日本人は参加者は多いが発言しないので、標準化の得意なヨーロッパ人が勝手に決めてしまうそうだ。
この「日本語の壁」を、著者のいうように教育で是正することは困難だと思う。これは日本がアジアでほとんど唯一、植民地化されなかったおかげだからだ。東南アジアへ行くと、子供でも慣れた英語を話すし、学問は英語でしかできない。それは彼らの自国語が現地語の地位を強制されたからで、必ずしもうらやむべきことではない。地政学的にも文化的にも他から隔離されてきた日本人が、TOEFLで214ケ国中197位、アジアでは北朝鮮(これも在日だから日本人と同じ)と並んで最下位になるのは当然なのだ。
ただ現状が危機的だという認識は、私も同感だ。日本語が現地語になることは避けられないが、普遍語ができれば問題はない。ところがほとんどの日本人は、普遍語としての英語もできない。日本語でほとんどの用が足りるというのも、インターネットや科学の最先端ではもう当てはまらない。日本語の本しか読まないビジネスマンは、世界から取り残されているのだが、彼らは取り残されたことさえ気づかない。ところが英語教育を強化しようとすると、「英語より国語のほうが大事だ」などという国粋主義者が出てくる。彼らは国語教育の現状を知っているのだろうか。
日本の国語教育や英語教育をだめにしているのは、著者が守ろうとしている「文学」である。国語の時間に教わるのは小説の解釈ばかりで、自分の意見を発表する訓練はほとんどない。英語の授業では、まともに発音もできない先生が小説を重箱モードで解釈し、1年かかって100ページぐらいの薄い教科書を読む。こんな教育をしていては、大量の英語の文書を読んで表現することは絶対にできない。国語や英語の授業は廃止し、英語はすべて語学学校にアウトソースして、大学入試の語学はTOEFLで代えるべきだ。
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極論を言ってしまうと、経済活動のほとんどは無駄です。人間のほとんどは自分の紡いだ物語の中に生きているだけです。人の物語を読み解くためにも文学は重要ですよ。フランス人は、この点で執拗です。だからフランス人は日本文化を好んでいます。日本は、全く別の物語だから。
国語は必要ですが、従来よりはもっと欧米テキスト文化に沿ったものになる必要があります。読み解き方と要約と再構成の技術を蓄積しないといけません。
危機感を感じているのだと思います。
中学生、高校生などがこういった文体を好む傾向あるためでしょうか。
最近、洋画でも吹き替え版が同時上映されますね。手軽さが重要なのでしょう。
バラエティテレビ番組はセリフを字幕スーパー(死語?)を入れるので、
音が不要なくらい過剰でマンガ的演出の乱用は"内向きスパイラル"なのかぁと、
思ってしまいます。
MELT DOWN関連被害が少ないで日本が一番!な論評をする評論家が多く、
日本の中に閉篭もる事を是とする評論家が多いことも悲しいです。
今こそ内需だ!ヘリマネだ!給付金は20兆ばら撒けなどなど...
最近マンガを読めない子供が増えています。
その為、説明的描写が多いライトノベルというジャンルが産まれています。
まあライトノベルの定義が定かではありませんが...日本語の娯楽コンテンツで
この有様ですから、実用的な英語力を付けさせよとするには画一的な学校教育では
無理だと思います。中学校くらいからアウトソースで映画や小説などを題材にしながら...
でも結局、人間は必要に差し迫らないと覚えようとはしない気がします(苦笑)
私は、「国家の品格」なんて本が流行る日本が大嫌いです。みんな英語ができないから、「英語より国語」って言われてうれしかったのでしょう。
英語教育については、今の和訳中心の英語教育は、現在の日本の社会では、悪い意味で有意義だと思います。会社でも、英語で読める上司がいないから、多くの時間を英文書類の和訳や日本語による要約に費やしますし、海外の論調等を翻訳して紹介するだけで学界やマスコミではやっていけちゃいます。
国粋主義者の国語教育重視も今の国語教育ではダメです。海外で感じることは、日本人で(日本語でも)論理的にしゃべれる人は少なく、外国人を説得させる能力を持つ人が極めて少ないということです。今の国語教育は、「思ったことをそのまま書いてみよう」っていう作文教育で、ほかの科目でもフランスのような哲学の勉強もしない。歴史教育も暗記中心で考えることをさせない。これじゃ、大学に入ったって、試験前に模範解答覚える勉強しかできないと思います。
論理の重要性を過度に否定する「国家の品格」とその本で理屈なんていらないって思っちゃう読者もやばいと思います。
私は、今まで英語の勉強をたくさんしてきました。
しかし、なんだかんだいって英語を使う機会は少なく、1年も経つとだいぶ忘れてしまいます。
改めて勉強しても、結局英語の利用機会がほとんどなく、またもや忘れてしまいます。
今では、英語は実際に利用する機会がないならば、勉強するのは時間の無駄であると考え方が変わりました。
ただし、現在の義務教育では、もっと必要度の低い勉強を押し付けているので、それぐらいだったら英語にもっと注力した方がいい気もしますが。
精神的な内向きさ,シャイさも原因かもしれませんね.韓国人が国際柔道協会の会長になってルールをサクサクと変えてしまうのなどを見ると,特に良く思います.言語的にかなり似ている日韓間でこれだけ差があるのは良くも悪くも厚かましさの差という点が大きいような気がします.
確かに、この点その通りだと思いました。
未だに日本の技術や教育やビジネスが世界トップレベルだと信じているビジネスマンがさまざまな業界にいます。彼らは例外なく、英語が分からなかったり、国外の事情も分かりません。当然この人たちは危機意識もないし、現状を変える必要性も感じていません。
私はむしろ日本語が衰退しないで、普遍語とのギャップが広がることが問題だと思います。日本語は主要言語の中では群を抜いて難解で非効率だから国際化できないので、日本人が英語を理解するしかないのですが、日本語の音韻体系はこれまた群を抜いて単純なので、他の言語が聞き取れない。今まではこのギャップを翻訳が埋めてきたのですが、ウェブの発達で重要な情報は英語のまま流通するようになりました。経済学などは、最近の重要な業績はほとんど英語の論文で、訳されるのは啓蒙書だけ。おかげで、専門家と一般人の知識の格差がかえって広がっています。
ただこの厄介な日本語を支えてきたのは、その「文学」的な側面であることも事実で、それを大事にしようという著者の主張は理解できます。しかし文学を守ることを政策目標として教育改革をするなんてナンセンスです。言語は文化の一側面であり、「美しい言語」を守ることを自己目的にすると、フランスのように不便になるだけ。明治期に美しい日本語を求めるのも昔からよくある懐古趣味で、彼女の美意識は今の若者には通じない。どっちの美意識が正しいかなんて、だれにも決められない。
私の中高時代ががまさにそうで、受験勉強から逃れたはずの大学でさらに悪化しました。
日本の英語教育のコンセプトは、おそらく昭和初期あたりから不変で、「紳士淑女の嗜み」ってところでしょう。昔は一般の日本人が外国人と接することはまず無く、トリビア的な知識でもひけらかしておけば「おお、流石に教養がおありになる」ってなもんでしょう。
今でも文科省は「英会話はやらない」「英語を通した文化理解が…」なんたらと言っているようです。上の方も仰っていますが、もはや学校教育は生徒の為のものではなく、無能な教師が失業しない為の制度としか言えません。
もっとも、これは英語に限った話ではないですね。社会科にしろ歴史にしろ数学にしろ、それを教わって実社会で役立つか?なんてことは眼中にありません。むしろ学生に変に知識を付けさせて、社会に疑問を持たせるより、無垢なまま大学まで育てて、社会人になってから企業で教育し、忠誠心が高い社員を作ろうと言う、高度成長期のパターンそのままです。
小学校の頃は、国語の成績はいつも異常なほど
悪かったです。
国語のテストで作者の気持ちは?なんて問題が
出たら全部自分の意見を書いてペケを
もらってましたよ。
親に心配されて塾に行かされたほどでした。
ただ、塾で勉強する国語は凄く楽しかったです。
小説の解説とかは、やらずに“国語”の勉強を
教えてくれたからだと思います。
中学生になってからは、内申書があったので
我慢して点数の取れる解答を出してました。
正直なところ学校以外で小説を読んだことが
今の今まで一度もありません。
英語に関しても大学生になって原書を
読むようになってからは、中高時代の勉強が
無駄だったような感覚に囚われます。
今の時代は、テレビや動画や漫画や演劇やミュージカルなど様々な媒体があるので主要な地位を持っていませんが、実際には文学はほとんどの媒体の基礎です。
問題なのは、今の日本語が文学を形成する時に、別の時点の他の言語圏の人に共感をもって迎えられる材料を持っているのか?ということです。
日本の作家では村上春樹という人が有名ですが、この人も実は翻訳をやっている人です。他の言語圏に片足をつっこんでいるので、両方で共感を得られる言葉の選択をするセンスが備わっているのかもしれません。
意志の疎通という意味ではどんな言語でも大概のことは伝えられます。しかし、ある意味文学的と言うか、必要もない余分で娯楽的ともとれる表現などを含まないコミュニケーションは、十分でも無味乾燥なものです。そういう余分な所に日本語というか日本人の独自性が現れているとするならば、日本語が不便ならば使われ無くなるだけのことと割り切ってしまうのも、寂しい感じがします。日本語を喋らない日本人は文化的な意味で日本人で無くなってしまうのではないかと考えます。利便性だけの問題ならば、実際にアカデミアなんかでは日本語を使う理由なんて既に皆無でしょうし。
言語は使う動機がないと能力の維持もままならないと思います。ある意味日本人が英語が上手くならないのは、今の日本人にとって必要がない、もしくは日本人が必要とする程度には既に使えている。或いは、専門家に翻訳される程度で足りているからとも考えられるのではないでしょうか。
それは全然時系列が違います。ライトノベルというのは、少年少女向けの小説のうちの一部が、漫画・ゲーム文化の影響を受けて変異を遂げたものです。「漫画を読めない子がライトノベルを読む」というのは全くの事実誤認。どちらかといえば、「漫画は読むがライトノベルは読まない」という人の方が多い。
自国語に加えて英語を使えないといけない時代になると、それ以外の国の人にとってはかなりのハンデになりますね
それでも世の中の流れというものを認めなければならないのでしょうか?
だから何年たっても変わらないのでしょう。
それを変えようと考えている人が教育界にいるのでしょうか。
また、そんな意欲をもつ学生が文科省に採用されるでしょうか。
その結果、例えば50歳主婦の正答率が50%以下のものは義務教育から外すとか、逆に何かを追加するとか。
この国では、現状把握を行わないまま適当に済ませて、20年くらい経ったら大騒ぎしてまた適当に済ませる、というのが多過ぎます。というか、全部がそうですね。
英語を(準)公用語にすることは、この言語障壁を取っ払ってしまうことに等しい。すると、欧州のように、文化も産業も、ペンペン草も生えない米国の植民地になってしまいかねない。
しかし、自言語内に引きこもっていると、グローバルな経済、IT、学術、コミュニケーションから取り残されるので、結局はこっちを選択するしかない。
今、東アジア、特に日本や韓国は、このジレンマの中にいるようですね。韓国は規模的に余裕が無い分、どんどんグローバルに開いていこうとしていますし、もともと英語教育熱心ですから、英語が(準)公用語的になるのもそう遠くないでしょう。日本はまだ迷い続けてますね。経済的にもっと徹底的に落ち目にならないと決断できないのかもしれません。
いずれにしても、このことは、従来的な東アジアの「和魂洋才」モデルの破綻を意味し、経済だけでなく、民族意識、国家意識のありようを根底から覆されることになるので、新たな民族観、国家観を用意しとかないと、危ないかもしれません。
ところで、昨今の教育が間違えているのは、此の国が、江戸時代から作り上げてきた、形を与えるという教育を放棄してしまったことです。長くなりますから止めますが、7歳にして論語の素読を教え、読書百遍と考えることを禁じた教育が、実は此の国の根本を作り上げてきたことを放棄してしまったことが、此の国の最近の失敗です。
それにしても、母語を失えば、文化を失います。英語は、国際における単なる機能言語に過ぎません。「現地語」を失えば、その帰属する主体を失います。
「、「英語より国語のほうが大事だ」などという国粋主義者が出てくる。彼らは国語教育の現状を知っているのだろうか。」という発言には、明確に反対します。国語教育が間違えたのは、形を与えるという原理を放棄したことにあります。形を与えると云うことは、姑息なスキルと与えることではありません。大量の文章を与えて、その文章から自ら学ばせる習うより、倣う教育です。倣って、そこから形を習熟して、独創を創出する。それが文化です。
(日本の出版業界の寡占と既得権益の影響で、そういう小説家はまともに食べていけません。)
少し前の「意味付け」の記事でお話に出た「物語」はつまりそれを語る媒体である閉じた言語の環境によって補完されていて、お互いを閉塞する方向性を持っているということと思います。それは既得権益にしがみつく社会構造とパラレルで、経済的な圧力で目に見えない言論統制のようなものを形作ってしまっています。「美しい日本語」などはその典型です。
しかし個人的には、それらを批判することすらばかばかしいと最近は思うようになりました。どうせ壊れるのであるなら、そんなものの批判をする暇があるなら壊れた後の準備をしておかないとと。一つ前の記事のゾンビ企業とかもしかりです。
本にのっとっていえば、ギリシア語を翻訳することで、ラテン語が成熟し、ラテン語を翻訳することで、西洋近代語が成熟し、西洋近代語を翻訳することで近代日本語は成熟したわけで、日本語という言語は(通用する範囲はさておき)、成熟・洗練の度合いでいえば、学問ができる、と。というか、できてた。
なのに、日本語では学問ができない。
それはたしかに、西洋近代語が成熟する以前に、ラテン語が普遍語であったのとは、たしかに状況が違うかもしれない。だから苛立つのかな、とも思いました。
たとえば、人類学者が研究対象とするような言語では、学問はできないでしょうし。
前半のアメリカへ行くくだりなんか面白いですけどね、小説家の筆だと思いました。
日本の言語教育がダメダメだってのは、共感しますけれど。なかには頑張ってる先生もいますし、学校英語が役に立たなかったとは思わないけど、…そう思うのはわたしが幸運だったのでしょうか。
世界にはゴミ山でのゴミを拾っている子供もいるのに、日本の子供は翻訳の山から言葉を拾って、それを形にして結構お金になっているという現実があるわけです。
有望な漫画家の卵が居たら、国が世界放浪旅行の資金を出して、題材集めに協力するのも今日的なやりかたかもしれません。ワインの漫画を描いた人間が、フランス文化におけるワインの文脈を執拗に追うのも良いかもしれません。
しかし、、、インターネットで専門用語を調べると、英語で検索すると学術論文も含め何万件もヒットするのに、日本語だと貧弱な情報が数百件ってことがよくあります。つまり、日本語と英語では恐るべき情報格差があります。この格差を無くすためにも、このブログを読むレベルの大学生なら英語教育などに期待せず、自ら英語の世界に飛び込まないといけません。問答無用です。
自分は大学までは英語は駄目でしたが、仕事で使うようになってすぐ身に付きました。今では部下も英語圏の外国人ですし、重要な書類や会議は英語です。これからのビジネスを生き抜くには問答無用で英語は必要です。英語の書類は国際的に審査されたり使われたりするのでよりシビアに評価されます。その結果、相手を説得するための論理思考力が増し、結局日本語能力も向上します。
例えば、日本の企業がアメリカの会社に買われると書類や会議が英語に変わってしまうのに、日本企業に買収された会社だけでなく、現地子会社ですら日本語が公用語?でないことがほとんどです。
日本側日本人のみ、米某所支社日本人3人/アメリカ人1人という日米を繋いだテレカンを英語でやって違和感を持ったことがあります。会議の主題は日本の本社へのお金の無心だったのに(笑) 話が行き詰って日本人同士が日本語で話し始めたら、現地のマネージャーは英語で話せ、と怒りだしました。
「日本企業に勤めてるくせに何言ってんだ」と思いましたが、それを言えない自分もまた「日本人」だな、と。
TOEICで730点もとれない教師がたくさんいるという報道がありましたが、はっきりいってTOEICなら860点はとれないと、仕事では使いものになりません。日本人の英語力を本当にアップさせたいなら、全国の中学高校の英語教師にTOEIC 900点またはTOEFL PAPER 600点(CBT 250点)以上を義務化すべきじゃないかと思います。
名門の私立学校や一部の都会のトップ校はともかく、日本の教育の大部分を担っている公立中学高校の英語教育現場は、「文学と英語が……」なんて高尚な議論をするはるか以前の状態です。
しかし「主に」言語によって民族性が規定されるのであれば、シンガポールもフィリピンもチャモロ社会もアメリカやイギリスにならなくてはならない筈ですが、どうにも似ても似つかない。つまり言語の民族性への影響は皆無ではないが、それほど重大なものでもない、という所だと思います。
英語については、日本語の構造と欧米語の構造が違うので、日本人がマスターするには欧米人よりより多くの時間をかけるしかありません。それなのに、量的にも日本の英語の授業数はオランダの3分の1らしく、質的にも購読中心の内容なので、これじゃ使える英語が身に付きません。しかし、僕は、学校の授業時間も限られているので、義務教育ではしっかりした知的好奇心や考える能力と態度を身につける方が将来にも役に立つので、そちらに多くの時間を割くべきであり、英語の授業は音をもっと重視した内容であれば基礎の基礎で十分であると思います。多くの人は、簡単な日常会話が旅行の時にできればいいのです。将来のエリートを養成する高校や大学では、英語で授業を行うぐらいのハイレベルなことが必要だと思います。
そのためには、そういう教員を増やす必要があるでしょう。JETプログラムでちょこっと英米人を使うだけじゃ、外国人アレルギーを減らす程度の意味しかないのでは。
自分の子供を英語ベースの国際学校(小学校)で教育させている現役の父親です。両親ともに母国語も家庭内会話も日本語なので、子供への英語教育には(最近まで)ずいぶんと気を使いました。その経験で言うと、
1)小学校1年から英語を始めるべき:
言葉は早く始めるほど習得が容易である事を否定する人はいないとおもいます。
2)発音記号を主体とした単語の発音習得は改めるべき:
専門家じゃないので用語はわかりませんが、米国から来た小学校1年の時の先生は、単語をいくつかの節に区切り、それを一定のルールで発音させるやり方で、単語の発音を習得させていました。それで、初めて見る単語でも、かなり正確に発音する(読む)事ができるようになります。
3)会話は弁論で習得する
英語は言葉であり、言葉は道具です。道具は練習しないと使い方の習熟ができません。うちの小学校(低学年)では、毎週全員、自分の考えたアイデアや工作物のプレゼンを行って、話す表現力を習得させる授業がありました。
4)書く力は作文で習得する:
また、自分で短い小説を書かせて発表させる事で、書く表現力を習得させていました。低学年クラスの壁には、いつも子供達の書いた短い小説がよく貼ってありました。
3)普通の小説を教科書に使う
カリキュラムに沿って文法や単語が出てくる教科書を止めて、子供用の普通の小説を教科書に使うべきです。また、できるだけ沢山の小説や科学解説の本を読むべきです。
4)読む、理解する、文法の順で学習する:
小学生からはじめるのであれば、最初は文章が読めるようになる事からはじめる。次に文章を理解できるようにする。文法の理解は最後でよいとおもいます。
5)会話は3ヶ月で習得できる:
上記の話とは別に、中学卒業程度の英語力があれば、英語で生活する場所へ来て、3ヶ月でなんとか英語会話ができるようになります。あとはボキャブラリーの数だけです。日常会話でも会議の場でも、英会話なんてそんなものです。
6)最後はやはり書く力が大事:
読み書きが大事になるのは業務で英語の報告書や文章を書く人です。つまり英語圏で仕事をしようとおもったら、英語の文章力が一番大事だという事です。
バイリンガルではないですが、日本語から非日本語の絶対時空に落ちるときが稀にあります。
小学校で英語を教えることには意味がありません。
英語を、母語にしたいなら、英語圏で子育てをすれば済むことです。日本人は、日本語を母語とし、日本語で考えるから、日本人です。 その日本人が、英語を習得し、英語を理解するのは、トランスレーション、つまり、変換です。日本語の正しい理解と思索があって、その構造を理解して、知識と、訓練によって、文化を変換することが、即ち、外国語を習得することです。
単に、英語に曝されていれば、何の努力も為しに、英語が出来るようになると考えるのは間違いです。
外国語を使うとは、文法という構造を知識として理解し、積み上げて、訓練して、習熟して意図して、理解して、言語を変換する作業です。
先ず何よりも、母語の確立が大前提です。
完成された母語のの存在を前提とすべきです。
おっしゃるとおりですね。
私は、仕事で大学生の採用面接をしています。
昔からそうかもしれませんが、日本の大学生の多くは、「空気を読む」ことを妙に気にします。「みんな」に迎合するのはやめにして、自分の意見を堂々と言えるようにする教育が必要だと思います。
>英語の早期教育に反対します。
>小学校で英語を教えることには意味がありません。
大きな意味がありますよ。早ければ早い方が良いのです。さっきは小学校と書きましたが、幼稚園の年少からに訂正しましょう。フィリピンでは、幼稚園の年少のその前から英語で教育しています。ちなみに、香港のインターでは幼稚園の年少からもう1つの言語(うちの子供の学校では北京語)が授業にあります。
>英語を、母語にしたいなら、
誰も母国語を英語にするなどと言っていません。英語を習得する、と言っているのです。香港、シンガポール、フィリピン等、小学生で既に英語と母国語の2ヶ国語を話す国はアジアにはけっこうありますよ。日本人にそれが出来ないと考える理由はありません。
>日本人が、英語を習得し、英語を理解するのは、トランスレーション、つまり、変換です。
それは正しいとも、間違っているとも言えます。幼稚園からインターに通っている我が家の小学5年は、「日本語で考えて英語で話す」と答えました。20年間海外生活している私よりもかなり上手に英語を読み、話します。私の場合、英語はそれほど上手ではありませんが、日本語会話は日本語で、英会話は英語で考えますので、普通は脳内トランスレーションしません。その方がシンプルに英語を話せます。
>日本語の正しい理解と思索があって、その構造を理解して、
そういう考え方がある事は知っていますが、それはある程度成長した後で語学を習得する人のケースだとおもいます。しかも、それが正しい習得法かどうかは不明です。
>外国語を使うとは、文法という構造を知識として理解し、積み上げて、訓練して、
そういう考え方が、日本の英語教育を駄目にしているのですね。日本の子供は学校へ行くまで日本を話す事ができませんか?米国の子供はどうですか?極論すれば、グラマーを習得しないとちゃんと出来ないのは文章を書く事だけです。
>単に、英語に曝されていれば、何の努力も為しに、
努力は可能なかぎりすべきです。我が家の小学生は、1年から3年まで、ずっと英語の家庭教師をつけていましたし、英語の塾にも通わせました。それとは別に、日本語の学力をつける為に、家庭ではベネッセの通信教材を日本から送ってもらい、国語や算数の勉強をさせました。
>先ず何よりも、母語の確立が大前提です。
>完成された母語のの存在を前提とすべきです。
私がこのコメント書いているところに来た我が家の小学5年生は、かも・しかさんのコメントを読んで、「この人の意見はなんか違うね」とコメントして行きました。(私が言わせた訳ではありませんよ!)
私は、英語は中学からで良いと考えています。「早ければ早いほど良い」というほど単純ではないと痛感しているからです。
一般的に言って、バイリンガルの子はモノリンガルの子よりも、どうしても言語的発達が遅れます。これは、一言語に対する被曝時間が違うので当然です。そして、人間は言語で思考しますから、言語的発達の遅れはそのまま思考力の発達の遅れに繋がります。それが親としての悩みなのです。
例えて言えば、モノリンガルの子供の頭の中に高さ1メートルの1本の木が育っているとき、バイリンガルの子供は80センチの木と60センチの木が2本ある、そんな感じでしょうか。
ちなみに、これは単に我が家だけの話ではありません。私はヒスパニック居住区に住んでいるのですが、英語=スペイン語の家庭も同じ悩みを抱えています。
ですから、モノリンガル環境の中で基礎的な思考が出来るところまで育て、それから英語を始めるというのが理想的だと思うのです。
但し、「日本人が英語を理解するのはトランスレーションだ」には、経験上同意出来ません。英語ベースで仕事をなさったことのある方なら分かって戴けると思うのですが、それでは粗くなってしまうのです。業務で英和翻訳をするときには、私が英語で理解した内容を、読み手が共有出来る日本語に置き換えることにいつも苦労しています。
結局は、上の子供と同じ例えですが、頭の中にもう一本英語の木をコツコツ作っていくしか無いんですね。そう考えると、今の英語教育のカリキュラムではこなす量があまりにも少な過ぎる、と考えています。
私の経験では、小学校で英語を習っていた子は、中学ではほぼ例外無く英語が苦手になります。
公立中学で英語ができるようになる子は、大人ときちんとした会話ができ、生活習慣のしっかりした子です。小学校時代の英語学習は逆効果としか思えません。(塾が「英語学習は早いほど良い」というのは単なるビジネス上の売り文句でしかありません。)
中学受験をする子は、小学校時代英語の学習などするヒマはありません。特に上位校を狙う場合は。そんな子が大学受験でするときにはトップクラスの大学を受けるようになります。
英語学習は、私の経験では中学一年からでじゅうぶんです。
ま、受験英語の話ですけどね、
価値の無いことしか語れない、あるいは知ろうとしない人間が英語を使うことが出来ても、無意味です。そういう意味で、全体的な教育レベルが低くなってしまった日本で生半可にネイティブレベルの英語を使える国民を量産しても、相乗効果は期待できないのではないでしょうか。日本が単にアメリカの植民地にでもなりたいのなら、それこそ日本語習得という無駄なステップを踏まずに、英語を日本の公用語にするための努力をすべきですが。
国粋主義者とかは思われたくはないですけれど、教育が国単位で行われる現状においては、日本に住む人間が、世界の中に存在する日本という局地で生きるために、一般的にもっとも実りの多い教育を施すことを優先すべきと考えます。この場合、数学や科学、社会の勉強よりも英語が重要とは思いません。
英語教育をおざなりにしろということではないですが、英語の習得は物心付いてからでもまったく手遅れではない。必要とあらば余計な努力をしなくても英語力はある程度伸ばせるでしょう。それこそ上にあげたような普遍的な事をより深く知りたいという欲求を持てば、英語で情報を得る方がより容易で手っ取り早い、あるいは必須であることはすぐに分かるので、一定の層の日本人は英語を真剣に学ぶというモーティベーションを持たざるを得ないと思います。
私個人は日本人の英語がいくら上達しても、議論を戦わせる過程より、コンセンサスの形成を重視する日本人のコミュニケーションの在り方が変わらない限り、世界に生きていく上で大した効果は現れないと思います。そういった日本人の意識の変化は、英語教育といった単純な方法では期待できません。
このコメントに寄せている方々もよくご存知かとか思いますが、欧米系言語には、卑語、罵倒語、スェワーワード等々、日本語に対訳できないくらいの所謂汚い単語が沢山あります。私は、日本が英語を日本に入れる事により、あの途轍もない侮蔑的で下品な単語が、我々日本人に身に着く事は許せません。アメリカ人夫婦が喧嘩をすると、これでもかこれでもかと思うくらい罵倒語の応酬です。子供と親の喧嘩も同じ。
アメリカでも子供たちの携帯のテキストメッセージ、メッセンジャーメッセージの解読は、大人達は不可能状態です。アメリカの一般人の文法は、ここにコメントを寄せていられる知識層の方々なら、よくお分かりだと思いますが、He don't,She don'tでもOKなんですよ。(白人会話)Badは悪いとも良いともとります。
アメリカで育って、教育を受けた子供達でさえ、SATのReadingで600点をとるのは、大変な事です。まして、近頃は、男子の成績の低下が、非常に顕著になり、各学校区では、その対策、セミナー等々が行われています。家の土田舎の高校でも、その年の卒業生10番は80%まで女の子です。現大学の比率も65%が女の子です。
この移民の国アメリカには、沢山のEnglish as a second languageのリサーチがあり、それの略結論から、頭脳は、1つの言語で形成された方がその知識度は、高くなる事。5歳以下でアメリカに来て、英語を覚えると、Nativeが聞いても発音に相違が認められない。
確かに、人前で、英語で喋れない日本人。でも、喋れない英語で営業をして、ここまでの実績を世界で作り上げたのも、我々日本人。去年、トヨタアメリカから幹部がその忠誠心も恩義も見せずに去ったけど、今年、助けて欲しいとアップアップしているアメリカのカーメーカー。英語を喋れなくても、経営は出来る。
言語は、所詮、人間動物が意思の疎通をする為のツールでしかない。ただ、母国語は、その生まれたツールでそれを使用する人間の血となり、知識と培われて国民を作り上げてった。他の言語を話す人間との間では、ツールで十分。
日本で日本国語の勉強は大事です。それが、作者の思いを理解することであれ、文脈を読み取る事であれ、使用しない漢文や古典であれ。日本語は、端的で美しい言語です。それは、この国の形でもあるはずです。私達の言語の端的さは、英語の新聞の多さと記事の長さからも明らかです。彼らの文章は、所謂、表現調。日本語は、箇条書き調。だから、拙い英語でも営業が、製品を売る事が出来たのです。と同時に、製品が説明要らずで、優秀だったのです。
>>水村美苗はファザコンである、
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2008/11/20081122.html
という大蟻食様のご意見が一番腑に落ちた。
父≒(nearly equal)旦那 なのかもしれない。
ほめてる2人も(nearly equal)の矢印の先にいることが(気楽で)好きみたいだし。
私はそんなに英語が得意じゃないけれど、世界の古典は日本語訳より英語(訳)のほうがスラスラわかるのが不思議。
それが、明治期の翻訳などを通して他言語の影響を受け変容しながら今日に至っているわけです。
残念なのは、空気を読むのに適した特性そのものを否定してしまう論調があることと、明治期以降の時間を通じた文体などの変容をたどるテキスト分析などの研究が少ないことです。文体の研究が進んで、随筆にはこういう文体、要約にはこういう文体、論文にはこういう文体などと標準的なものが日本語で確立されて、欧米的なテキスト文化が組み込まれた教育の中で、そこに標準として受け継がれるようになると良いと思います。
また、英語については、あまり空気を読むのに適していない言語で、空気を伝えるために隠喩・寓喩を忍ばせる傾向があります。ハリウッド映画などに盛んに利用されているように思えるのですが、もう少し認知・意識・注目されると良いと思います。
私の娘は幼い頃から近所の英国人の友達と遊び(日本語で)、ディズニーの英語のビデオを観ていました(カリキュラムに従った親子でのレッスンは挫折。)。海外アーティストの音楽(英語)も聞いてきました。しかし、海外経験はなく、一度も英語塾に通っていません。しかし、地域の英語スピーチコンテストで認められ、今回は英語スピーチコンテストの全国大会に出場します。昨年出場した地域の大会では、帰国子女以外の部に出場する私の娘以外の殆どはlとr、sとthの発音すらできない。幼児期や小学校低学年の頃、英語幼児教育で盛り上がっていたあの沢山の人達は、どこに行ってしまったのか…。と不思議でした。私の子育ての経験からいえば、偏見なく外国人と接する。それが大事であり、英語があれば世の中が渡っていける。というような考えは、歪んでいると考えます。
世の中には、英語事大主義があふれているようです。ナレーターの小林克也氏の英語などはその典型でしょう。しかし、そういう英語事大主義の時代は終わろうとしています。最近、ある英語のスピーチコンテストに参加したのですが、その審査においても、大げさで、いかにも英語というような表現は嫌われ、より自然で、内容を伝える思いを大切に表現するようなことを評価する方向に向かっていると思われます。
経済的に余裕があれば、英語教育に投資することは悪いことではないでしょう。とはいえ、それだけで国際人になれるのかといえば疑問です。英語が喋れるのは当然のことであって、誇るほどのことでもない。だから、lとrの発音の違いができなくても英語は通じる・喋れる。そういう時代がやってきている。と、感じています。
では、本当に今の英語教育、日本語教育でよいのでしょうか?現状肯定派やプティ国粋主義者の皆さんは、多くの日本人が国際場裏で、英語が出来ず、また論理的思考も発表方法も出来ないため、非常に苦労し、そのため非常に損をしている現状をそのままにしてもいいというのでしょうか?今は、外交でもビジネスの場でも、日本の存在感が圧倒的だから、下手な英語でも耳を傾けてくれ、黙っていれば先方からじっくり必要事項を理解するまで聞いてくれますが、今後日本の経済力が相対的に(下手すりゃ、絶対的にも)低下することが確実なのに、このままでは日本人は国際場裏で置いて行かれれるだけです。まだ、受験勉強で毒カ威力だけはあるなら良かったのですが、少子化による大学全入時代を迎え、受験英語さえしっかりやらない状況で、ますますグローバル化する経済で日本は活躍できる人材が少なくなるのではないでしょうか?
文学や日本文化の特色は、英語教育の早期化や国語教育の「文学重視」を実学重視に変えても、それほど影響受けないでしょう。文化はそもそも学校教育だけで維持・発展するものでないからです。パリに住んでいるとフランス人の日本のマンガに対する強烈な愛着に圧倒されます・日本のマンガ文化は世界に誇れるものになっていますが、それは学校教育のおかげではないはずです。また、日本の現代文学でさえ、古くは漱石、鴎外、芥川、三島、辻邦夫、遠藤周作、大江健三郎、最近は村上春樹など、外国文学の深い理解および影響から生まれてきています。極論すれば、清少納言などは漢文の素養から大きく影響を受けているのです。日本文化は過去からも常に外国からの影響を受けて発展してきており、これからもそうでしょう。それを現時点の文化で止めることは不適切であり、またできることでもありません。
ビジネスの世界の話に戻れば、やはり文学重視の教育を現実の社会にも影響する教育に改革する必要があるのは明白です。
それには、(1)国語教育における論理的思考の育成、(2)英語教育の単純購読主義から、コミュニケーション能力重視への転換(そのためには、できるだけ早期に英語と外国人に慣れさせる教育は必須かと思います)、の二点が絶対必要だと確信しています。
先に述べたように、大部分の日本人は、実際は英語に触れずに日本的思考様式だけでも生きていけますが、そこに義務教育の目標を合わせていては、今後発展することが確実な他国との競争で勝ち抜ける人材が必要数生まれてきません。上記2点での義務教育の充実をしてベースを作った上で、国際場裏で活躍することが求められるエリートに対しては高校や大学で徹底した国際標準の教育をどの科目でも行うべきと考えます。
>バイリンガルの子はモノリンガルの子よりも、どうしても言語的発達が遅れ
仰る通り、言葉を話し出す年齢(2歳から3歳)が単一言語の環境より半年から1年くらい遅くなるようです。
>言語的発達の遅れはそのまま思考力の発達の遅れに
バイリンガル環境でも、脳内で母国語が決まって、母国語+もう一つの言語を普通に話し出します。そこから先は、他の子供にすぐに追いつきます。我が家でもそうでした。これらは幼児期の話しですから、思考力の発達の遅れは小学校入学年齢までに追いつけるはずです。
小学校入学以降で、バイリンガル環境の子供の学校成績が悪くなるのは、思考力の問題ではなく、授業と教科書の英語を十分に理解できていないだけです。
故に日英環境の子供の親は、学校の授業(特に読む英語と書く英語)についてゆけるように、塾や家庭教師をつけて、会話ではなく読み書きの英語力を補強してやれば、学校の成績が他の子供にくらべて悪くなる事はないと思います。
>スポンダ中村さん
>私の娘は幼い頃から近所の英国人の友達と遊び(日本語で)、ディズニーの英語のビデオを観ていました
言葉は道具です。道具は使い方(会話)を体で覚える事が最初は必要です。道具を覚える練習は、つらいより楽しい方が良い。だから会話の為の英語は、幼稚園と小学校で「遊び」ながら楽しく「慣れる」(学ぶのではない)方が良い。
>最低限のコミュニケーションのための英語は中学英語で大丈夫。
グラマーは、会話ができるようになってからやるべきです。そのような正しい読み書きの為の英語を、日本で第二外国語として習得するには、たしかに中学からで十分かもしれませんね。
ところで香港の英語系インターの生徒の多くは外国人ではなくて香港人です。香港人の母国語は広東語なので、授業で使う英語、教科として習う北京語を含めて、小学生でも3ヶ国語を使っている子供が多い。英語系インターだけでなく、地元の学校も英語で授業をして、北京語も教えているところが多いです。以前は英語で授業するのが普通でしたが、英語で落ちこぼれる子供の為に、英語系の学校と広東語系の学校に分けました。大学の授業もかなりの科目が英語です。ですから香港で大学を卒業して、(上手い下手はありますが)英語の会話や読み書きができない人はいません。だからといって、香港の大学(香港大学、中文大学、理工大学など)が世界的にレベルが低いとはいえません。
これらの状況から判断するに、幼児から2ヶ国語あるいは3ヶ国語で生活し、教育する事は、幼児期の出だしで多少の遅れはあるものの、小学生以降で大きな差を生み出しません。それはシンガポールの学生の国際的な学力評価を見ればご理解頂けるとおもいます。しかし、マルチ言語環境に適応するには、子供と親の努力が必要です。教育へのお金もそれなりに必要です。ですから全員に平等の英語教育を幼児期から行う必要はありません。親と子供に学校選択のオプションがあれば良いのだとおもいます。
モチベーションも与えられない状況で「英語を学ぶ」というのはよほどいい教師か恵まれた環境にないと、むしろ「害」です。
学校の英語教育で習う文法や単語が役に立っているという人がいるのも事実でしょうが、それは学校で習ったからではなくて、英語を使う上でその程度の文法はまず知らないと話にならないだけです。
むしろ頭の柔軟な若いうちに変な発音や、英文和訳技術に慣らされることが、以後の発展を妨げるノイズになりさえします。
「英語より国語を」という意見も、現状の英語教育も大概だけど、国語教育も同じくらい酷いということでしょう。漢字の習得に時間をかける分、文脈を把握しその上に自ら論を建てる練習が足りないのかもしれませんね。
mochibさんの
>日本語の危機とか美しい日本語とかを語る文学者など三流だということだと思います。
は尤もですね。日本語に一家言あるつもりの文学者であるならば、守りたくなるような日本語の名文学を書いて挑むべきでしょう。
これからはある特定のビジネス言語と土着言語を併用する技能は、世界のどこに住んでいようが最低限必要になると思いますので、一言語のみで初等教育を行おうなんてどういうコレクトネスを主張されようと無理でしょう。むしろ今から制度を変えるなら、context-freeな文法を最初から教えてしまってもいいんじゃないでしょうか(チョムスキーの生成文法は個人的には嫌いですが)。児童のグループに自分達で言語を作成させる訓練なんかやると面白そうですね。もちろんweb端末とwebがあれば昔とは(今の現役教師が若かった頃とは)比例にならないほどの言語リソースが無料で手に入りますので、興味がある子は勝手にやるといいですね。
(youtubeで西アフリカのウォロフ語の入門講座が見れたりします)
ただの著者のグチ集でしょう。
池田先生の相手じゃないっすよ。
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