SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

三鷹天命反転住宅

2008年12月30日 | Weblog
 これから私が言うことは、もしかしたら古谷利裕の「セザンヌと村上隆を同時に観る」という馬鹿げた妄想以上に狂ったことなのかもしれない。おそらく私はそれで読者の多くを失うことになるだろうし、自らの批評家生命を絶つことにもなりかねないのである。しかしそれでも言っておかねばならないのだ。私には、三鷹天命反転住宅とでじこが同じものに見える、のである。かなり前からうすうす気がついていたわけだが、ついにフラグが立ったのは、以下の斉藤環の一文を読んだときである。

>インタビューにおけるリンチは、あまり多くを語らない。寡黙なのではなくて、本当に言葉が貧しいのだ。一見物静かで常識的な大人にもみえるこの映画監督が、家の中では魚やトリを分解して「魚キット」などを作っては喜んでいる事実は、何を意味するのだろう。(斉藤環著『文学の断層』序文13ページより抜粋)

 この「魚キット」という言葉を目にしたとき、私は自分の頭の中で何かが「解除」されたような感じがしたのである。そして「三鷹天命反転住宅とでじこを同時に観る」ことは十分可能であると、なぜか確信したのである。それまで東浩紀のエッセイ「静かな昆虫的世界」を読んで「チャンス到来」まで上昇していたものが、この斉藤環の序文を読んで、ついに「ボーナス確定」となったのである。私はこれから「養老天命反転地」とともに「三鷹天命反転住宅」の謎の解明にも挑むつもりでいる。もしも、でじこをダミアン・ハーストよろしく真っ二つに割ったとしたら、そこにはどのような断面図が描けるだろうか。私の「三鷹天命反転住宅」の解読は、これまでにない画期的なものとなるだろう。ちなみにこれがディヴィッド・リンチの「魚キット」である