SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

備忘録1

2006年05月08日 | Weblog
「ある関係性を表現過程の中に作為的、意識的に仕込むことはできない。何故なら、もし相互の了解の中でこれが成立するのであれば、本来の意味からずれ、予定調和の出来事として成立してしまう」(川俣正 『先端芸術宣言!』(岩波書店)より)

「しかし私は、自分の議論の数を十八に限らなくてはならない。この討論の規約の一つは(最終の審級においては、それは最も限定力の弱い規約だとは限らない、とSecは言っている)、この討論が、もし起こる=場をもつのなら、主に音声的なタイプの書記法、そしてより正確にはアルファベット・タイプの書記法(graphie)という境位において起こる=場をもつということである。これは、恣意的な部分をもっている。その恣意性の効果はこうである。私は、もはや十八文字あるいは十八発しか手元にもっておらず、それで済ませなければならない、ということ。何とつまらない=偶然的な(contingente)制限なのだ、とひとは言うだろう。何と作為的で外的な制限なのだろう、と。今度は、テクストのなかにこれらの縁を統合し、これらの枠を考慮に入れていくのだろうか? これらのすべての寄生物=雑音(parasites)を、この言説のエコノミーのなかに体内化していくのだろうか? 計算のなかに、紙の面積や使える時間の内容等を統合していくのだろうか? そして、なぜタイプライターの残量ではいけないのか? どうしていけないのだろうか? これこそが問いなのである」(ジャック・デリダ『有限責任会社abc...』(法政大学出版局)より)

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