>「兄弟なら、刃傷沙汰」。「去るもの、日々にうとし」。この二つの格言は引用したアリストテレスの『弁論術』や『詩学』の文章に含まれる矛盾を分からせてくれる。過度の距離は無関心を呼ぶ。過度の近接は、同情も、抜き差しならない敵対も生じさせる。この両義性はギリシア悲劇で驚くべきほど生き生きと表現されたのだが、アリストテレスが生きていた社会の日々の現実の一部をなしていた。それは顔見知り関係に基づく、狭い社会だった。(カルロ・ギンズブルグ著『ピノッキオの眼-距離についての九つの省察』(せりか書房)322ページより抜粋)
このギンズブルグの本の第八章「中国人官吏を殺すこと-距離の道徳的意味」には、他にも「昆虫の苦しみへの私たちの無関心を宇宙的尺度で投影する」というセカイ系的にもかなり重要なことが書かれている(327ページ)。この本の内容がセカイ系とは直接関係無いとはいえ、こうした「距離」への表象論的な考察無くしては、いかなるセカイ系論もありえないだろう。およそヴァールブルク的図像学だけでは足りないのだ。
このギンズブルグの本の第八章「中国人官吏を殺すこと-距離の道徳的意味」には、他にも「昆虫の苦しみへの私たちの無関心を宇宙的尺度で投影する」というセカイ系的にもかなり重要なことが書かれている(327ページ)。この本の内容がセカイ系とは直接関係無いとはいえ、こうした「距離」への表象論的な考察無くしては、いかなるセカイ系論もありえないだろう。およそヴァールブルク的図像学だけでは足りないのだ。