東京都やその周辺県、北海道も含めて、全国で緊急事態宣言の解除が出された。 昨日の東京都の渋谷でも大勢の人出があり、新型コロナ感染拡大への自粛要請は全面的に解除した様子だ。
勿論、実際には段階的な解除になっているし、まだ開店を控えている店も多くある。
その中でも、トレーニングジムなどにも自粛要請は解除出来ていない。
私の住む市でも、6月3日から体育館などの使用も、会議室や特定の場所以外はトレーニングルームなどの解除はされないらしい。
まだまだ、当分の間は家トレが続きそうだ。 実際、3月から家トレを継続していて、ジムに通う必要性も曖昧になった気もする。
ダンベルとフラットベンチがあれば、ジムでトレーニングしている効果とはそれほどの差が無いだろうと思うようになった。 ランニングは実際に街中を走れば良いだけで、ジムに行く必要は無いだろう。 私はランニングはそれほどすることはないし、その他の有酸素運動はあまりすることも無い。
私が唯一、ジムに行く目的は、ベンチプレスがメインなので、それ以外は自宅でダンベルとフラットベンチがあれば出来るのである。
後は、各マシーンでのトレーニングだろうか。 やはり、マシーンにはマシーンの良さがあり、フリーウエイトとは違うトレーニングが出来る事は、やはりジム以外にはないと思う。 お金と場所が有れば、自宅に全て取り揃えて、ジムに通うような事をしなくても良いだろうけど、そんな富豪でもない限り、自宅に全てのマシーンやフリーウエイトの器具を揃えることは難しい。
さらに、以前のように自由にトレーニングすることが出来る環境に戻れるだろうか?
入場人数の制限とか、時間、各マシーンなどの使用制限も考えられる。
そうなると、ジムに行くことが難しくなるし、せっかく言っても思うようにトレーニングすることが出来ないなら、意味がない。
将来的にはベンチプレスを自宅に設置することも考える事になりそうだ。
トレーニングメニュー、頻度、毎回のトレーニング記録をExcelで管理する帳票も作成して、今後は毎回のトレーニングボリュームを記入して、週単位、月単位の達成度も記録して、トレーニングを計画通りに出来ているのか、思って居る程度のトレーニングが出来ているかなど、記録することにしている。
これまでは、ジムで身体が疲労するまで我武者羅にトレーニングしていたけど、これからは、数値で管理する方向を取ることで、オーバートレーニングにならないように出来る気もする。 ただ、どうかな? 結局は自分の体調や状態を見て決める事が一番正解だろうと思うけど。
さて、今日も夕方のいつもの時間にトレーニングをするけど、最近はトレーニングもあまり気が向かいのは、やはり、自宅で一人でダンベルを扱っている事は楽しくないのは否めない。
ジムの良さは、こうしたモチベーションを保つことが出来る点では、通う意味があるのだろう。
コロナ禍が早く収束して、以前のような生活が戻ることが一番の望みとも言える。
私のように、ジムに通えないというような愚痴なんて物は、コロナ禍で生活自体が崩壊するような事態になっている人からすると、どうでもいいだろう。
人には人の価値観や生き甲斐、趣味、趣向、求める物が違っている。
生活環境は勿論、各個人の現状は誰一人として同じではない。
同じ空間の中で生きているが、同じ観念の中ではない。 それは、自己以外には誰もその心の中を知る事が出来ないからだ。
逆に言うと、人生は自分の中の現実で、他人は全て、自分と言う世界の中で生きている存在だ。 自分の意識が無いなら、人生は無い。 どんなに、他者がそこに息づいていても、それは他者としてでしかない。
ならば、自身そのものが人生でしかない。 自分から外に抜け出して、客観的に自分を見ることが出来るなら、自分自身もただの他人になる。
人間は言葉を手に入れてからは、感受性は大幅に退化した。 触覚で感じるようなある意味では一次元的な思考能力を無くし、 常に言葉に変換される物に注目するうようになった。
それは、動物的な感受性が欠落することになった人間の悲しさだろう。
こうした人間が自身の価値観から外れている他人に対して、攻撃するような姿勢を見ることがある。
SNSでの誹謗、中傷はその顕著な例で、単純な動機だけで平然と良く知りもしない相手に対して、いろんな感情を投げかける行動になるのである。
それは、そうした人間が犯す衝動的、能動的な自己防衛システムが作動する時だろう。 人生に不満や欺瞞、疑いを持ち、さらに、社会的にも見返りが無いような人生を歩んできた人の特長だと言っても良い。
自分自身に対する人生の不満を社会の問題に置き換える姿勢で、自己を擁護する答えを導きだしたいのだろう。
人生は個人の意識の中での存在で、実像は自身が目にした物の連続性から成り立つ。 しかし、それは実際の現実とは違っている。 自身の全ての価値観に左右される実像だ。 実像は絶対的な真実ではない。 それは、全てが自身の心の中から生まれた映像だ。
だからこそ、他人の誹謗、中傷は自身の招き出した社会その物。 それを変革するのは自身の確率だけだ。
個人的な精神性の可能性は無限だし、 他人の意思、言動なんて物は取るに足らない戯言に過ぎない。 人生は全て、その人自身の内面で形作られる。
自分の精神的な領域で生きている事を知るべきだろう。