今日は昨日の夕方から降り始めた雨が昼頃まで続く予報だ。 ただ、雨でも気温はそれほど低く感じない。 真冬の雨とは違って、それほど寒さを感じない。。やはり季節が春に近づいて要る証拠だろうか。
もちろん、まだまだ冬の寒さは繰り返して訪れるだろう。 来月3月に入ると春らしい日を感じる事も出来るだろう。
そして、4月からはバイトに行く予定にしている。 もちろん、まだ決定しているわけではないが、仕事内容や労働時間、時給などを考慮して決めたい。 ある程度の体力は要るだろうし、夏や冬などの寒暖などでも私の体力で続ける事ができるか。 出来るなら屋内の仕事の方が夏場、冬場でも身体への負担は少ないだろう。 まっ、いろんな条件を考慮して、長く続けられるバイトであるといい。
さて、昨日は北朝鮮がICBMを日本の排他的経済水域内へ落下させた。 今年だけでも相当数のミサイルが発射されていて、経済的にも豊かではない北朝鮮がこれほどのミサイルを発射出来るだけの資金をどこから入手しているのか?
ロシアや中国などとの物資などの取引で資金を得ている事もあるし、海外で働く北朝鮮の労働者からの資金もある。 さらには、詐欺やサイバーテロなどで得る資金もあるだろう。
特に海外で活動する労働者が稼ぐ資金は北朝鮮の経済を支える大きな資金になっている。 海外で貿易や並行輸入などの取引で稼ぐ人民は貴重な人材だ。
こうした金儲けに長けている人間は世界中に居る。 ロシアは制裁でアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアや日本、韓国、フィリピンやその他の多くの国からの物資が入らないはずである。 ロシアを拠点にして展開していた企業も戦争後には撤収する企業が相次ぎ、日本の自動車メーカーだけでは無く、アパレル業界や、家電業界、外食産業なども撤収している。
それでも、ロシアの自動車販売店には日本の車やヨーロッパの自動車が豊かに並んでいる。 マクドナルドやユニクロなどの店舗も多少の名前を変えて、そのまま営業を継続している。
こうした事が可能になっているのは、所謂並行輸入などの取引である。
海外で買い付けた商品をロシアに輸出している。 車はもちろん、衣料品、医薬品、その他の商品、部品、機械なども海外のブローカーが入手して、ロシアとの取引をしている背景がある。
経済制裁をしている国はこうした取引が出来ない仕組みがあるが、その他の制裁をしていない国では日本やアメリカ、ヨーロッパなどの車や衣類やその他の商品をその国で買い付け、ロシアに輸出している。
逆にそうしたブローカーは通常の価格以上にロシアに輸出するメリットがあるだろう。 ロシアでは制裁以前よりも価格は高騰しているのは間違いが、それでも、物資やそうした制裁国家である製品も手に入れるルートを持つ事が出来ている。 スマホやIT関連製品も入手出来る。
これは制裁国家が輸出される製品のルートやブローカーなどの転売するルートなどを規制する仕組みや、仮にそうしたロシアなどの制裁国家への輸出が確認された時点で発生する罰則規定や刑罰の対象になるような法規制も必要だろう。 そうでなければ、ロシアはどんなに制裁を科せられても、安穏に海外の制裁国家からいくらでも欲しい物を手に入れる事が可能だろう。
TVを見る時間はそれほどないけど、午前中の報道番組を見ながらブログを書いている事が多い。 PCの横にTVを設置しているので、PCを見ながらTVでニュース報道を見ている。
連日ほとんど同じ内容に付いてMCはもちろん、連日、日替わりでキャスターや専門分野の人達の意見、提案や指摘、問題点などの話をしている。
以前は連日報道していた旧統一教会の話が今はほとんど出てこない。 政府はこの教会に対して質問権の行使をしたのであるが、その後の進展などの話が出てこない。 どうなった?? 自民党からも何も話が出てこない。
今はトルコの地震災害の状態や、ウクライナの戦況、岸田内閣の子供支援の問題やLGBTQの法制度など。
その他の海外の報道もあるが、結局は世間で注目が集まっている物に焦点を当てて、視聴率重視の番組作成であるのは否めない。 もちろん、TV局は視聴率が上がらない場合にはスポンサー獲得に影響もあるし、局はあくまでもこうしたスポンサーからの資金が唯一なので仕方ない面のあるだろう。
こうした傾向は今の自民党政権も同様な事が言えるだろう。
今はジャンダーやLGBTQへの差別発言などで更迭された首相補佐官などの問題もあり、自身の発言も指摘され、問題視されていて、いろんな有識者などからも問題点を指摘されている。
国会答弁でも首相自らが「社会が変わってしまう」という発言があり、「変わってしまう」の「・・・しまう」と言う意味はなんだろう?
何がどう変わるのか? で、変わる事が問題なのか?
松野官房長官も「親族間での権利義務関係、利害関係への影響・・」などと言っている。
こうした家族間の問題は国家の問題ではない。 家族の関係は家族の問題である。 各個人の問題だ。 同性婚も同様だ。 同性との生計や営みを選択する事は社会への影響はない。 これは個人的な意思の問題だ。 家族間の問題であり、これは国家の利害関係とは関係ない。 異性との婚姻を好むならそうすれば良いのであって、同性との婚姻を強要するような事も無いし、社会生活に影響はないだろう。 少子化は同性婚が要因でもない。 そもそも少子化は高齢化社会の中で高額な税金や給料が増えず、物価が高騰して実質賃金が下がって居る現状での子供を育てる為に必要な生活基盤が保てない事への不安材料が多くあるからだ。 さらには、今はネット社会が進み、出会う機会が昔に比較すると大幅に減少している。 もちろん、ネット上での出会いはあるだろう。 しかし、あくまでもネットの出会いは現実味が無く、人間味も薄れている。
さらには、今の若い人達は恋愛に対する憧れや希望や楽しみを見つける事を求めていない。 男性が女性化している背景もあるだろう。 これはすでに100年以上も前から明白になっていた。 今後はもっと男性の女性化は進むだろう。 未来は女性が男性化して、男性が女性化する時代になっているかもしれない。 男女の立場や仕事や容姿や考え方も逆転する時代が来る事もあり得る。 男性がスカートを履き、化粧をして、ネイルをして、脱毛して、毎日スキンケアを欠かさないのが当たり前の時代も想像できそうだ。
もちろん、女性が男性化するのはちょっと考えにくいが、社会的な立場や責任や仕事の内容も現状の男性優位の仕事も女性の仕事として当たり前に成っている時代が来るだろう。
これはまさしく、LGBTQとの差別化は完全に無くなる時代だ。 同性婚も当然だろうが、一夫多妻(夫が女性でも同様、妻が男性でも同様)の家族関係が当たり前になっているかもしれないし、婚姻制度も一夫一婦制の規制が無くなるかもしれない。 これはその該当者の任意である限りは個人的な問題であり、権利利害関係もそうした制度改正をする事で解決出来るし、それで幸せな生活が実現出来ているならそれが人間の基本的な幸福なんだろう。
各個人が法律を遵守して、各個人は自己確立が出来、自分を肯定し、他人を肯定する事が当たり前の事だろう。 これは何も性別や人種や社会的な地位や経済的な豊かさなどは関係ない。
自分を肯定出来ない人間は他人に対しても肯定する事が出来ない。
他人の意思や思考や立場や容姿なども含めて、尊重して、肯定して、優しさを持って接する事が出来るのは、自分自身の意思や容姿や行動や社会的な立ち位置を肯定出来る人だ。
富裕層への憧れや夢は持っているが、それを妬んだり、恨んだりする事はないだろう。 経済的な優位性は幸せの一つの要素になるだろうが、決してそれが全てでもないし、決して必須な物でもない。
しかし、日本国内なら生活費用を稼ぐ事はそれほど難しくもない。
いろんな職種や求人も沢山あるし、その気になればお金は十分に稼ぐ事は可能だろう。 もちろん、生活が厳しい家庭もある。本当に困窮する家庭や子供、家族への国家としての支援は必須だろうし、特に子供への教育に関しては、国家が責任を持って全て支援する事は国家の未来を考えると当然のことだ。
国家は今の大人や高齢者以上に将来をこの国で生きる子供達こそがその恩恵をい受ける権利があることを認識することだ。
高齢者も上限を設けた方が良いと言うのは、私の意見だけど、スエーデンなども高齢医療などへの対応もほとんどしない。
福祉国家であるスエーデンには寝たきり老人はほとんどいない。 これは高齢になり、病気が重症化しても特別な処置をしない事が当たり前になっているからだ。 自然死を好む、あるいは、そうした死に方が当たり前になっている社会や国民の意識がある。
健康で楽しく生きる事が重要であり、長く生きる事は意味が無いという考え方である。 こうした考え方はアメリカや欧米などではある程度浸透していて、日本のようにすぐにいろんな処置をしたり、薬や延命治療で生命を維持するような処置を好まないし、自身はもちろん、家族や医師なども自然死を優先する傾向が当たり前になっているからだ。
もちろん、日本の平均寿命は世界一であり、そうした平均寿命を支えているのも延命治療であると言える部分もある。
日本と海外との死に対する意識が明らかに違う点もあるが、そうした考え方は今後は日本でも進むだろう。
本当の幸せとななんなのか? 高齢になって、寝たきりで家族に支えられて生きている状態でも生きたいか? ベッドに張り付いているだけの人生の最後は果たして幸せだろうか?
少なくとも、私は絶対にそうした生活を望まないし、家族がどんなに支援をする意思があるとしても、私は求めないし、して欲しくない。
自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の力で生きる事や、今の当たり前の生活が出来ないなら、あえて生きていたいとも思わない。
ましてや、不治の病気を患ったなら、化学療法や薬や延命のためだけの治療をする意思は全くない。 私は65歳になったが、今はまだまだ健全で、若いときとの差はあまり感じないし、経済的な生活費用も問題ないし、子供達はすすでに大人に成長して、自分たちの生活を確立している。
なので、死への不安は相当に消えている。 今は自分の好きなギターを好きなだけ弾けるし、好きな物を食べて、夜は好きなアルコールを飲んで、毎日が平穏で幸せな人生を送る事が出来ている。
これまでの人生でいろんな人との交流や関わりを経験してきたし、これからもまだまだ新しい事待っているだろう。
それでも、余命宣告されても後悔はないし、これまで一度も入院などをすることも無く人生を送る事が出来た事に感謝したい。
高齢になったらいつでも死を意識する事が出来るだろう。 生きる事に固執するよりも、楽しい生活を送る事に固執する方が良い。
これまでいろんな苦労や経験を重ねて来たので、今更、生きるとは・・・。なぜ生きているんだろう?? なんて事はどうでも良い。
今生きている事の事実をそのまま受け止めて、今自分が何をどのようにしたいのか? どうしたら楽しい人生を最後まで送る事が可能なのか? そのために何をすべきか? 死ぬまでそうした考察を繰り返し、選択し、決断して最後の死に対する肯定をして死んでいきたい。