今日は佐々木理臣氏の一周忌だ。
5年前、私ががんを再発し、病院での抗がん剤治療を途中で打ち切り、絶望の中、秋田県の玉川温泉に行き湯治を開始した時、ホテルの相部屋で佐々木氏と知り合った。
作務衣を着こなし、軽やかに東京弁をしゃべる氏は、がん患者っぽくなく、私には粋に映った。
再発の闘いを始めたばかりの私だったが、8年半後の再発なので、それまでにいろいろなことを実践していた。
氏は私に、様々なことについて、的確に質問をする。
それに答えている時、何気なく彼のメモ帳を見ると、きれいな字で印刷されたかのようにやり取りをペンで書いていた。
お互い名前と病名は言うものの、素性はあまり言わない。
でも、氏の好奇心たっぷりの質問とそのメモを見て、職業がおぼろげながら感じられた。
氏は、東京中日新聞の外報部にいて、元台湾支局長だ。
これまで、ブログでは個人名を伏せてきましたが、あなたは本も書かれており、公人のようなものなので、名前を出します。
それに、あなたが、前向きに一生懸命がんと闘っていたことを、あなたを知っている人に是非伝えたいので、書かせてもらいます。
氏は、相部屋で、茹でた枇杷の種をガリガリかじっていた。
私が枇杷の種の微粉末を見せても、ガリガリかじるのがいいようだった。
氏は、「平蔵さんの言うことは、本当のことだねえ」と言って、悩んだ時はいつも電話をしてきた。
「平蔵さんは、私の師匠だからよろしく」、と言っていたが、私はだいぶん年下だったので、氏を兄さんのように思っていた。
氏は玉川温泉と同じ北投石がある台湾の北投温泉にも湯治に行った。
玉川温泉に行くより安いようだった。
でも、知り合いが来て、宴会をするので湯治にならないと言っていた。
松山を訪れ、がんを焼き切るというお灸をした。
二人で、瀬戸内海の美味しい新鮮な魚を食べて、少しお酒をいただいた。
神奈川に帰ってからは、お姉さんに毎朝欠かさず、仕事前にお灸をしてもらっていた。
少し手を抜くのが長く続けるコツですよ、と言ったけど、真面目にやっていた。
でも、氏は西洋医学に重心を置き、東大病院等に行って、とことん納得するまで調べていた。
でも、調べるのでなくて、まず実践するのが我々の仕事ですよと伝えましたね。
そして、私が福岡でがんペプチドワクチンを始めたのを知ると、あなたも福岡でワクチンの治験を始められましたね。
その行動力には驚きました。
でも、遠かったので、少し身体が疲れましたよね。
最後に電話した時は、ホスピスに入院していた時でしたね。
「先に天国に行って、待ってるからな。わっはっは。」というのが、最後でしたね。
周りからも誰かの笑い声が聞こえました。
その後どうなったのか、ずっと気になっていましたが、電話できませんでした。
ネットで検索していると、台湾の方があなたの追悼文と思われる投稿をしていたので、中国語がわからないのですが、亡くなられたのだと思いました。
今年の7月末、もうそろそろ確認の電話しようかと思った時、お姉さんから、あなたが昨年の10月3日に亡くなったと手紙をいただきました。
私が新薬で治療をするため昨年入院しましたが、その4日前に亡くなられていたのですね。
お姉さまから、あなたの手紙をいただきました。
時空を超えた、天国からの手紙でした。
「皆様 お世話になりました。
63歳。本当に楽しい一生でした。
中国・アジアを中心にもう少し報道の仕事をしたいと思っていましたが病をかかえ残念です。
これも運命。
先に旅立ちます。
自分のことを棚に上げて言うのは生意気ですが、身体だけは大事にしてください。あの世というのはどういう所なのか、皆が困らない様に良く調べておきますから、あとからゆっくりお出で下さい。
佐々木 理臣
2013年7月29日」
既に、あの世の仕組みを調べ終わって、まだ知らない我々に伝えたくて、うずうずしているに違いないですよね。
でも、佐々木さん、私がそちらに行くのは、もう少し先になりそうなので、あの世で過ごすコツをたくさん調べておいてください。
それでは、また。
5年前、私ががんを再発し、病院での抗がん剤治療を途中で打ち切り、絶望の中、秋田県の玉川温泉に行き湯治を開始した時、ホテルの相部屋で佐々木氏と知り合った。
作務衣を着こなし、軽やかに東京弁をしゃべる氏は、がん患者っぽくなく、私には粋に映った。
再発の闘いを始めたばかりの私だったが、8年半後の再発なので、それまでにいろいろなことを実践していた。
氏は私に、様々なことについて、的確に質問をする。
それに答えている時、何気なく彼のメモ帳を見ると、きれいな字で印刷されたかのようにやり取りをペンで書いていた。
お互い名前と病名は言うものの、素性はあまり言わない。
でも、氏の好奇心たっぷりの質問とそのメモを見て、職業がおぼろげながら感じられた。
氏は、東京中日新聞の外報部にいて、元台湾支局長だ。
これまで、ブログでは個人名を伏せてきましたが、あなたは本も書かれており、公人のようなものなので、名前を出します。
それに、あなたが、前向きに一生懸命がんと闘っていたことを、あなたを知っている人に是非伝えたいので、書かせてもらいます。
氏は、相部屋で、茹でた枇杷の種をガリガリかじっていた。
私が枇杷の種の微粉末を見せても、ガリガリかじるのがいいようだった。
氏は、「平蔵さんの言うことは、本当のことだねえ」と言って、悩んだ時はいつも電話をしてきた。
「平蔵さんは、私の師匠だからよろしく」、と言っていたが、私はだいぶん年下だったので、氏を兄さんのように思っていた。
氏は玉川温泉と同じ北投石がある台湾の北投温泉にも湯治に行った。
玉川温泉に行くより安いようだった。
でも、知り合いが来て、宴会をするので湯治にならないと言っていた。
松山を訪れ、がんを焼き切るというお灸をした。
二人で、瀬戸内海の美味しい新鮮な魚を食べて、少しお酒をいただいた。
神奈川に帰ってからは、お姉さんに毎朝欠かさず、仕事前にお灸をしてもらっていた。
少し手を抜くのが長く続けるコツですよ、と言ったけど、真面目にやっていた。
でも、氏は西洋医学に重心を置き、東大病院等に行って、とことん納得するまで調べていた。
でも、調べるのでなくて、まず実践するのが我々の仕事ですよと伝えましたね。
そして、私が福岡でがんペプチドワクチンを始めたのを知ると、あなたも福岡でワクチンの治験を始められましたね。
その行動力には驚きました。
でも、遠かったので、少し身体が疲れましたよね。
最後に電話した時は、ホスピスに入院していた時でしたね。
「先に天国に行って、待ってるからな。わっはっは。」というのが、最後でしたね。
周りからも誰かの笑い声が聞こえました。
その後どうなったのか、ずっと気になっていましたが、電話できませんでした。
ネットで検索していると、台湾の方があなたの追悼文と思われる投稿をしていたので、中国語がわからないのですが、亡くなられたのだと思いました。
今年の7月末、もうそろそろ確認の電話しようかと思った時、お姉さんから、あなたが昨年の10月3日に亡くなったと手紙をいただきました。
私が新薬で治療をするため昨年入院しましたが、その4日前に亡くなられていたのですね。
お姉さまから、あなたの手紙をいただきました。
時空を超えた、天国からの手紙でした。
「皆様 お世話になりました。
63歳。本当に楽しい一生でした。
中国・アジアを中心にもう少し報道の仕事をしたいと思っていましたが病をかかえ残念です。
これも運命。
先に旅立ちます。
自分のことを棚に上げて言うのは生意気ですが、身体だけは大事にしてください。あの世というのはどういう所なのか、皆が困らない様に良く調べておきますから、あとからゆっくりお出で下さい。
佐々木 理臣
2013年7月29日」
既に、あの世の仕組みを調べ終わって、まだ知らない我々に伝えたくて、うずうずしているに違いないですよね。
でも、佐々木さん、私がそちらに行くのは、もう少し先になりそうなので、あの世で過ごすコツをたくさん調べておいてください。
それでは、また。
当方62歳、仙台在住の者です。昭和57,8年ごろ、私と彼は毎日新聞船橋支局の同僚でした。当時支局はこれに支局長を加えて3人体制。私は千葉市花見川から通勤してましたが、佐々木氏は支局の宿直室に寝泊まりしながら、生活のすべてを記者として過ごしておりました。その後彼が東京新聞に移ってからも折に触れて連絡は取り合っておりましたが、一昨年になりますか、「玉川温泉での湯治からの帰りで仙台を通過しているので、電話してみた」と懐かしい声。聞けば「俺、がんでさぁ」。でも声は相変わらず元気だったのでそれ以上は突っ込まず近況報告で終わりました。去年、今年と年賀状が来ず、どうしたんだろうとは思ってましたが、たまたま彼の名前を検索したらあなたのブログが。教えていただきありがとうございます。そして彼らしい最期の挨拶に涙。合掌
ブログを読んでいただきありがとうございました。私は、ほんの4年ほどのお付き合いでしたが、佐々木氏は義理人情に厚い人であり、どうされているのか心配している方がおられるのではないかと思いブログに掲載しました。病気が病気ですので、闘っていることもなかなか伝えづらいものです。私はその前向きに闘う姿を見せてもらったので、知るべき方に知っていただきたいと思い、お伝えすることにしました。
玉川温泉では何度か御一緒させていただきましたが、松山市にも、お灸をするため何度か来られましたので、いろいろ御案内いたしました。いろいろ楽しみながら闘っておられました。今は、神様か仏様にいろいろなことを教えてもらっているのではないでしょうか。
コメントいただき、ありがとうございました。
失礼します。