昨日は授業を2コマ、会議3コマ、といささか、自分の身体が浮遊している状態であった。
授業1コマは教員ストライキだったが、相互作用とは何かを考えさせるものであった。
怒る、叱る、は共同注意の一環であり、それが、中途半端な三人称の怒り方なら、意識は薄らぎ、情動としての身体反応は起こらず、やがて、その記憶は消去される。自分にとっての一人称的にはたいしたことの無い事実、いや、自分は違うといった意識や、自分は関係ないの意識になる。いまの若者の典型だ。
それでは、障害を持った人々に接することはできない。
学科会議でもあがったが、実習指導者や教員が友達感覚となり、そもそも、叱られるという現実を知らない学生が多い。
その経験がないと、結局はどのように行動を計画していけばよいのかわからない。ワーキングメモリだが、ワーキングメモリにも経験がないと作動はもちろんしない。今まで、本気で叱られたことがない学生が多い。本気とは一人称でだ。一般的には・・・云々などの三人称ではない。義務教育の教員たちはその三人称が多い。むかしの小学校の先生は一人称で本気で口でしばかれた。
メタ認知だ。
友達になってよい空間と時間と、そうでない空間と時間。
それを判断する前頭葉の希薄さが目立つ。
大学生の中学生化であるようだ。
それが、現在の4回生の実習の問題の根本にあることが、会議でも指摘された。
どうも、その根本の問題が親にあるように思う。
物質が豊かになった分、こころの未熟さが親にあるのだ。
もちろん、私にもそれがあるだろう。
今回の、キレルモードの怒り方は一人称的であり、教員としての三人称ではない。
それも戦略的であり、いろんな意識が発生してよい。
いやだ、とか、こわいとか、そういうネガティブ思考や、自分自身の反省へと結ぶポジティブ思考へと進む人間、受けて側は千差万別であるし、逆に刺激を与える側の意識も千差万別であると思えばいい。
人間だから違うのである。
たいしたことないのが、ある環境ではたいしたことがある。
今まで本気で注意されなかったのが、俺から言えば、非常識であり、それは教育でない。
いずれにしても、僕自身にも反省することは多々ある。
日々、反省である。
教員がみんな同じであれば、学生は成長しない。
全員の意識や思考は違う。なぜなら、履歴が違うからだ(それを記憶という)。
しかし、共通項はなにかを探るのが社会人になるための学生の学ぶ視点である。
自由とは自分で考え、判断し、行動することを意味し、自分勝手に振る舞い、秩序を乱すことでない。
授業をメタ認知する。
それに欠落した人間は、医療者としてでもなく、社会人として、どの世界でも通用しない。
一流とは、自分に厳しい人間である。
もちろん、他人にも厳しい。
人に優しくというが、それは、人権を意味する。
これで、機能解離がしばらく起こりそうだが、アポトーシスしないように配慮していきたい。
それでもシステムはオートポイエーシスする。
いずれにしても、小学校~今まで、問題が封印化させていたのだろう。
その問題が浮き彫りになるためには、強烈な意識経験が必要だ。
中途半端が一番よくない。
嫌われても、それが、個人、社会のためになるのであれば、それを突っ走るのが先輩の役割であり、教員の使命である。
表面だけ、好かれても仕方ない。
肝心なのは目に見えない。
これは私自身の自省も含めてだ。
しかし、大学で「しつけ」か・・・ 私のこころは重い。
さてさて、岡山に出るとするか。
授業1コマは教員ストライキだったが、相互作用とは何かを考えさせるものであった。
怒る、叱る、は共同注意の一環であり、それが、中途半端な三人称の怒り方なら、意識は薄らぎ、情動としての身体反応は起こらず、やがて、その記憶は消去される。自分にとっての一人称的にはたいしたことの無い事実、いや、自分は違うといった意識や、自分は関係ないの意識になる。いまの若者の典型だ。
それでは、障害を持った人々に接することはできない。
学科会議でもあがったが、実習指導者や教員が友達感覚となり、そもそも、叱られるという現実を知らない学生が多い。
その経験がないと、結局はどのように行動を計画していけばよいのかわからない。ワーキングメモリだが、ワーキングメモリにも経験がないと作動はもちろんしない。今まで、本気で叱られたことがない学生が多い。本気とは一人称でだ。一般的には・・・云々などの三人称ではない。義務教育の教員たちはその三人称が多い。むかしの小学校の先生は一人称で本気で口でしばかれた。
メタ認知だ。
友達になってよい空間と時間と、そうでない空間と時間。
それを判断する前頭葉の希薄さが目立つ。
大学生の中学生化であるようだ。
それが、現在の4回生の実習の問題の根本にあることが、会議でも指摘された。
どうも、その根本の問題が親にあるように思う。
物質が豊かになった分、こころの未熟さが親にあるのだ。
もちろん、私にもそれがあるだろう。
今回の、キレルモードの怒り方は一人称的であり、教員としての三人称ではない。
それも戦略的であり、いろんな意識が発生してよい。
いやだ、とか、こわいとか、そういうネガティブ思考や、自分自身の反省へと結ぶポジティブ思考へと進む人間、受けて側は千差万別であるし、逆に刺激を与える側の意識も千差万別であると思えばいい。
人間だから違うのである。
たいしたことないのが、ある環境ではたいしたことがある。
今まで本気で注意されなかったのが、俺から言えば、非常識であり、それは教育でない。
いずれにしても、僕自身にも反省することは多々ある。
日々、反省である。
教員がみんな同じであれば、学生は成長しない。
全員の意識や思考は違う。なぜなら、履歴が違うからだ(それを記憶という)。
しかし、共通項はなにかを探るのが社会人になるための学生の学ぶ視点である。
自由とは自分で考え、判断し、行動することを意味し、自分勝手に振る舞い、秩序を乱すことでない。
授業をメタ認知する。
それに欠落した人間は、医療者としてでもなく、社会人として、どの世界でも通用しない。
一流とは、自分に厳しい人間である。
もちろん、他人にも厳しい。
人に優しくというが、それは、人権を意味する。
これで、機能解離がしばらく起こりそうだが、アポトーシスしないように配慮していきたい。
それでもシステムはオートポイエーシスする。
いずれにしても、小学校~今まで、問題が封印化させていたのだろう。
その問題が浮き彫りになるためには、強烈な意識経験が必要だ。
中途半端が一番よくない。
嫌われても、それが、個人、社会のためになるのであれば、それを突っ走るのが先輩の役割であり、教員の使命である。
表面だけ、好かれても仕方ない。
肝心なのは目に見えない。
これは私自身の自省も含めてだ。
しかし、大学で「しつけ」か・・・ 私のこころは重い。
さてさて、岡山に出るとするか。