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パリ五輪提灯ニュースもなるほど。実は日中日米戦争よりも、ホンネは1940年東京五輪を開催したかった

2024-07-01 08:54:49 | ブツブツ日記
 最初の東京五輪は1940年(昭和15年)開催する予定だった。これの招致運動で感触のいい返事が来たのが1929年(昭和4年)。実際に招致に名乗りを上げたのが1932年(昭和7年)、決定したのが、1936年(昭和11年)。延々11年計画だった。
 しかもその36年は、有名なヒトラーのベルリン五輪が開催された時で、日独伊三国同盟の日本としては、ヒトラーに続く4年後の東京五輪で、これで世界制覇ができると勘違いした。
 ところが日中戦争をやらかして、2年後の38年に返上することになったとWik辺りでは書かれているが、返上とは名ばかりで、どうせ連合国からはく奪されたに決まっている。
 延々と満州事変の以前から、五輪計画していたのは、実は幕末の黒船恐怖症というのは相当なモノで、それから尊王攘夷の鬼畜米英は始まり、その最先端がなんといっても、合法的に鬼畜を到達させるための、柔道での背負い投げであり、バレーボールのアタック、レスリングの固め技でもあった。残念である。これが政府の姿勢だったわけだ。
 ところが軍部というのは、こんなまどろこしい方法を嫌って、満州事変から強引に中国併合を考えて、五輪などはぶっ潰してもいいから、略奪するという方法に国民を洗脳して、どうやらその方向に傾いた。この五輪はく奪の腹いせに、真珠湾攻撃したと思われる。
 そして4年後に無条件降伏して、米軍占領は1952年まで続いた。
 お笑いなのはそれからである。
 このサンフランシスコ講和条約が発効するのが、この年の4月28日。これで日本は戦後ようやく独立国家に戻ったことになった。同時にそれは五輪参加への復権という意味ももった。
 それからなんと、わずかに3週間後に東京議会は五輪招致に名を挙げた。1960年はローマ五輪だったが、ここに東京五輪も競合して招致したのである。が、破れて、結局その4年後1964年に東京五輪は実現した。
 ということは日本の昭和史とは、日中日米戦争を強行に進めた軍部の歴史でもあるのだが、実は並行して五輪招致と、その失敗の歴史なのでもある。
 先日の駅伝ニューイヤーの連載の途中に私はこれを知ることになるのだが、これはつまり、実は戦争ではなくて、昭和の日本は五輪を開催したかったのが、ホンネだったのではないかと思ったほどである。
 3年前の東京で、あれほど汚職があったIOCと政府なのに、何の反省もなく、ノー天気な顔してパリ五輪参加するし、そのメダル取りに狂騒する。かつて水泳の千葉すずは「日本人はメダル気違い」と喝破して連盟を干されたが、まさに気違いなのだ。
 大東亜共栄圏でアジアから世界を植民地にするか、五輪で金メダル取って、鬼畜米英を完成させることしか、頭にない。本当にマッカーサーがいったように成人なのに12歳の偏差値しか、今でも持ち合わせない劣等人種だと思うのだ。その一例が、大谷翔平狂騒曲にしても、あれはMLB応援ではなくて、日本人がホームラン王取るという、鬼畜米国のその一旦でしかない。
 ついでにいえば、3年前のあの東京五輪も一番実現したかったのは、当時の都知事の石原慎太郎で。この右翼やろうは、当時「また東京五輪で夢をみようじゃないか」とアホウなことをいっていた。NOと言える日本人という彼の著作は、アメリカ人ごときに平こらすることなく、堂々とNOを言おうと、それはまっとうにその通りなのだが、その根底に、右翼思想があることに、この人の残念なところがあった。何しろスカイツリーを「大江戸櫓」に。東京環状と決まっていた地下鉄路線をいまの「大江戸線」に変えたのがこいつだった。百合子山の都知事政権では、首都大学を都立大学に戻したように、残るは悪名の大江戸線を東京環状線と改めることである。
 慎太郎もいくつかの成果はあったのだが、何ともアンバランスな脳構造が、軍部と同程度だったことが情けない。

 
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