北アルプス・大日岳で00年3月、国の冬山研修会中に大学生2人が死亡した事故をめぐり、遺族が国を訴えた損害賠償請求訴訟の控訴審第3回和解協議が26日、名古屋高裁金沢支部(長門栄吉裁判長)であった。双方が和解に合意し、国が原告に計約1億6700万円の損害賠償を支払う。
同じ春スキーをやるものとして、注目していた裁判だったが、国が負けて、亡くなった大学生に一人8千万円とは大盤振る舞いだが、支払われることになった。
登山が、野外教育なのか、野外冒険なのかは、40年前から争われていたことでもある。当時は中学生登山なら教育だが、高校山岳部ともなると冒険だと思われていた。つまり中学生の事故には教師が責任を持つが、高校生になると持たない。自然災害は教師の指導の範疇を超えるという見方だった。
それが今では、大学生の新人訓練のような文部省主催の春スキーまで、当時の中学生登山の範疇に入った。時代の流れでその通りなのだろうと思う。多分社会人山岳会にあっても、1年目の会員の事故に関しては、同じようにクラブで責任を持たなければならない時代になったと思われる。要するにそれは「教育の場」であって、冒険のずっと手前の初心者指導という解釈だからだ。
ところがこの裁判は、裁判の中で争われていたことは、雪庇の崩落が予測できたかどうかという、春山の細かい登山技術に踏み込んでいた。そして、ヒマラヤ経験があり、欧州のガイドでもある山本その他の指導に落ち度があり、判断ミスだったという一審の国の敗訴判決が出たのであるが、それが大笑いだと私たちは思うわけだ。私が懸念したのは当初そのことであった。
事故原因は雪庇の崩壊。冬山春山では雪庇の崩壊は日常茶飯事である。予測できない自然災害というのは、隕石の落下、ジェット機の墜落、大地震くらいで、落雷でも洪水でも鉄砲水でもその程度は誰もが予測できる。つまり裁判は、事故原因に踏み込んではならず、この登山が教育の現場だったことと、予測できる事故だったという二つの事実が明らかになれば、国は負けることが可能だったという、本来の裁判の進行はそんなところが理想であろうと、思われた。
ところが裁判は結論だけを見れば、国の敗訴という理想どおりだったのだが、その過程となると、ど素人の富山や名古屋の裁判官連中が、30mの雪庇が崩落したことを、プロのガイドが予測できなかったことは、しかもそこで休憩していたことが、明らかに判断ミスだったという、飛んでも判決を出していることだ。大体大日岳に30mの雪庇ができるとこの裁判を通じて論じられていることだが、それ自体が一体本当のことなのだろうか。昨日まで大日岳の麓に住んでいた人でも、雪庇は10mが最大といっているわけだ。しかも雪庇の上での休憩などは、誰だって少しくらいはやるものだ。そもそも大日岳で3月にスキーをして、無事故で帰ってくることこそ、相当の幸運を持っていると言い切っても差し支えない。こんな雪庇の崩落は、そのとき登っていた自分たちが遭遇するとは、これは誰も予測ができない。それこそ自然の不可抗力に近い。(山の中でどこかで毎日必ず雪崩や崩落があるのは知られているが、それが自分の足元で発生するという狭い意味において、予測は相当難しいといっているわけだ)。そんな登山の細かい技術に踏み込んで、そこにガイドの過失がありという無理やり結論を導いたことが私は不満であり、しかし結論としては正しかったという話である。
村上ファンドも同じことだ。あんなものは合法に決まっている。しかし世論に迎合する裁判としては、どんな理由でもいいから有罪としたかったというだけの話。この大日岳も、どんな理由でもいいから、文部省や国を負けさせたかった。なぜなら二十歳の可愛い僕ちゃん二人を死なせてしまったという世間の趨勢を逆なですることを文部省がやってしまったわけで、世間に迎合する裁判としては、理由はともかく結論ありき。
こんな裁判じゃ、やっぱり笑わせると私は思う。判決とは世間の趨勢を越えることができないという、やっぱり女王は、午前中から公園にたむろしている子育て母ちゃんの井戸端会議ということになるのか。