すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

雲と鉛筆のあいだにあるもの

2018年07月31日 | 読書
 結構な数の本を読んできた。この頃、一番価値があるのは「思わず声に出して読んでみたくなる」文章との出逢いと思えてきた。意味を読み取るとはまた別に、分からなくとも自分を心地よくさせてくれる響きを持っている。お気に入りの詩人たちの詩、かの池田晶子の書く文章、そして吉田篤弘の新刊本もそうだ。


2018読了72
 『雲と鉛筆』(吉田篤弘 ちくまプリマ―新書)



 鉛筆工場で働く「ぼく」は、屋根裏部屋に住み、小さな本棚、古びた寝台、そして遠い街で買った子供用の机と椅子に、寄り添うように暮らしている。机の上では、青いノートに考えたことを書きつけ、姉からもらったスケッチブックには十七本の鉛筆を使い夜の空を描いていく。生きる手触りの感じられる世界観だ。


 この小説のなかに際立った展開はないのだが、登場する人物はそれぞれに物語を抱えていて、主人公「ぼく」と他者の、物語の重なりや交じりによって進められる構成と言っていい。下記の「ぼく」の言葉は、プリマ―新書そのものを代弁しているのではないか。なんと言ってもシリーズ300冊刊行記念でもあるのだ。

 「すべての本は、子供たちのために書かれるべきだと思う。」

 「子供のために書かれた本には、ときどき『本当のこと』が書いてある。」



 「人生」というあだ名の友人、「ジュットク」そして「バリカン」という人物たちも、それぞれがある典型を示しているように登場している。特に「人生」が語る哲学的な言辞は印象に残る。例えば、「答えを見つけたがる」ことについて、「答えは出ない」「見つけない方がいい」と言いつつ、こんな視点も口にしている。

 「答えがふたつあるものにこそ本当のことが宿っている」

 「AでもBでもなく、じつは、そのふたつのあいだに豊かなものがある」


 「あいだの思想」と勝手に名づけよう。私たちはふだん常識と名付けていることに縛られて暮らしているのではないか。主人公が姉へ贈ったジューサーミキサーは不良品だった。しかし姉は、それをしばらくの間眺め続ける。「壊れたものには、動いているものと違う美しさがある」。そう気づく感性はまだ残っているか。

捨てられない名刺

2018年07月30日 | 雑記帳
 思い出したように机の中を整理していて、ずっと処分していなかった名刺に手をかけ始めた。頻繁に名刺を交換したりする仕事ではなかったにしても、ずいぶんと溜っていた。処理する基準は…パッと顔が浮かばない人、頂いた時の肩書、勤務先しか記していない人、それにすぐ連絡先がわかる人ということだろうか。


 めくっていくと、ずいぶん有名な方の名刺がある。現内閣官房長官が総務大臣だった時の筆書き書体の立派な一枚。もちろん直接お会いしたわけではないが…マニア(笑)の方から頂いた。bjリーグ時代の河内コミッショナーの名刺もある。これは直接交換した記憶がある。bj発足を間近に控えていた頃だったなあ。


 あっと思ったのは、有田和正先生の一枚。初めて講義を受けてから30年ほど経つが、直接名刺を交換できたのは、10年前の名古屋だった。その後二度講師依頼をした記憶がある。残念ながら都合がつかず直筆の手紙を頂いた。「次は必ず」と綴られていたが…。自分の仕事として我が町へお招きできなかった無念さが残る。


 先日その訃報を初めて知ったが、坪田耕三先生の名刺もある。付属小から出て教授になられた時の一枚だから、交換は近年だった。しかし私のかつての同僚が中心になって、ずいぶん前から継続して当町にお招きしていた。私も畑違いとはいえ、何度となく研修会に参加した。まだまだご活躍されると思っていたが…。



 初めて当町に見えられた時、忘れられない一コマがある。場所は某小体育館、百人程度の聴衆を前に模擬授業風に進められていて、ある質問で挙手を促された。その時会場でたった一人応えたのが私だった。周囲の空気は記憶にないが、ぐっと引き込まれ思わず手を挙げたのだった。一枚の名刺があの夏を呼びおこす。

「ほぼ思考」で生き残ろうぜ

2018年07月29日 | 雑記帳
 録画していた「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」で、辞書編集者として著名な飯間浩明さんの回をみた。氏のネットに載っている発信も面白く、興味深く見入った。新語を扱う場面で「ほぼほぼ」という語が出て、これが某社で選んだ「今年の新語2016」大賞に輝いたのだった。ちなみに去年は「忖度」である。


 一応「ほぼほぼ」という語は知っていたが、口にした記憶はない。使われ方からすると完成、決着等が要求される業界から始まったのだろうか。強調の繰り返しは日本語でよく見られるから、自然とも言える。「まあまあ」など典型的だ。ところで、「ほぼ」には「粗」と「略」という漢字が充てられることを改めて知った。


 この頃某携帯会社のCMでも「ほぼ」がキーワードになっているが、つい最近ある話を聞いて、「ほぼ」という語がパッと強く思い浮かんだ時があった。先週出向いた野口先生の素麺塾で、山中先生が「AI」について話題にされたときだ。実際に語られた言い回しは少し違うが、検索してみたらあったので、引用する。

 「たとえば「私は岡田と広島に行った」と「私は岡山と広島に行った」という文章を読んで、前者は岡田さんと広島に行ったということ、後者は一人で隣接する岡山と広島に行ったという意味だろう……と推測することは、AIには不可能です。」人工知能に勝つには「読解力テスト」から!?


 つまりAIの「意味内容」の理解には限界があるということだ。ふと、それは人間の「ほぼ」という思考にも関係があるのではないかと考えた。「岡田」といったらほぼ姓名であり、「岡山」が広島と並んだらほぼ地名だと判断しているから、容易に文章の意味が推測でき、字面の似通った文章の違いも理解できるのだろう。


 無意識に繰り返している「ほぼ思考」。語彙力が基盤とはいえ、類推していくためには欠かせない。『ほぼ日刊イトイ新聞』というサイトは「ほぼ」を冠しながら日刊以上のことで巨大になった。それを見習えば、一見緩そうなこの副詞の偉大さをしみじみ感ずる。「ほぼ思考」で生き残っていこうぜ!と言ったら極端か。

規準は自分のなかにある

2018年07月28日 | 読書
 「わたしには孤独死の範囲がよくわからない」と著者は書く。メディア内の「孤独死」という言葉で、「なんとなく」イメージできる事はあるが、本当に孤独と断言できるか。まして死という状況を安易に重ねて判断していいものか。軽く再読と手にしたが、時代の流れ、人間同士の関係性が浮かび上がる一冊と感心した。


2018読了71
 『言えないコトバ』(益田ミリ  集英社文庫)



 再読本にはやっぱり魅力がある、少なくとも共感できる要素が多くあるということだろう。下記のように5年前に読み2回感想メモを書いていることが何よりの証拠だ。時折週刊誌で見る著者の書くコミックもいい味がするし、エッセイは実に的を射ている。変な言い回しかもしれないが「押し付け感」皆無の文章だ。


 「言えない」から「言わない」へ

 かわいそうもうらやましいも誤魔化し


 今回、ああいいと思ったのは、取り上げた自分の言葉遣い、言葉選びに関してこう述べていることである。「流されてよいところでは、ざぶざぶと流される。そこにわたしの本質なんてないのだから」と言い切ったこと。これは、先日書いた「正しい配分法を見つける」論にも通ずるものを感じる。一つの覚悟に近い。


 肝心なのは、「流されてはよくない」部分である。例えば、以前書いた「(人が)つかえない」がそうだ。さらに、作家等の「(セリフが)降りてくる」も当てはまる。著者は「思いつく」を使うといい、その二つの間に「照れくさい」川が流れていると書く。けれど、それは表現者として正直にありたい姿勢そのものだ。


 世の中には様々な言葉が溢れ、浮かんでは消える。何を選ぶかは個人に任せられているが、規準を持っているのはあくまで自分なのだと心したい。口にする言葉に鈍感であるのは、自分自身に鈍感なことであり、周囲や社会に対してはさらに鈍感になる。言葉の濁流、流木に振り回されてばかりでは、行方を見失う。

動詞遣いの迷人

2018年07月27日 | 雑記帳
 田舎者が都会に出ると、無意識に(いや十分意識的に)方言を隠そうとする。紛れもなく自分もその一人。還暦超えがそんなことに見栄はってどうすると思いつつ、それは東北人の性か。つい使ってしまうふだんの方言、特に動詞遣いにストップをかける瞬間が出てくる。今回の旅の最初は秋田空港内ラウンジだった。


 出発時刻を待つ間に、生意気にもラウンジへ入って新聞でも読もうと思った。ルームへ入り無料のミルクティーを持ってテーブルへ。飲んでいる最中に手元が狂い、カップが横倒しになってお茶がこぼれ、テーブルを汚した。受付へ行き、「すみません、お茶をマガシテ…」とつい言いそうになり、あぶない、あぶない。



 次は宿の大浴場で。大と言っても3,4人しか入れない広さだ。朝に汗流しのつもりで入る。先客も居ず体を洗って浴槽に入るとずいぶん熱い。再び洗い場へ。お客さんが一人入ってきて同じように浴槽へ。そしたら「おっ、熱い」と囁く。で、思わず「水、ンメテいいですよ」と言いたくなったが…あぶない、あぶない。


 言ってからあっと思った。帰りの飛行機出発が間近なので、急いで到着した出発ゲート内の売店だ。バッグを肩にかけ、飲み終えた水のペットボトルを手にしていた。なかなかゴミ箱が見つからず、売店のレジで会計の折に頼もうと考えた。買った商品を渡しつつ「すみませんが、このボトル、ナゲデもらえませんか。


 店員は変な顔もせずに、にこやかな笑みをたたえ、潰したボトルを受け取る。その笑みを見ながら、今までの努力が台無しだ!とは思わなかったが、100点を逃したようで悔しい。しかし、無意識にどこかで使ってはいただろうな…。最後に秋田県人以外への解説「マガス→こぼす」「ンメル→薄める」「ナゲル→捨てる

暑くとも、今すぐ小さく笑え

2018年07月26日 | 読書
 自分が置かれた環境を、そのまま受け入れたり、働きかけて変えたりしながら、我々は生きている。当然自然環境も当てはまることだ。とすれば、災害やこの酷暑なども含め、受け止め方について少し考えを巡らしておくことは無駄にはならないはず。修養としてこんな本を手にとって読んでみることも、たまにはいい。


2018読了69
 『限りなく少なく』豊かに生きる』(ドミニック・ローホー  講談社)

 
 「豊かに生きる」ための手段、方法として「限りなく少なく」をモットーにする生き方を説く。物質面は当然であるが、精神面も強調されている。ただ、単なる精神論ではなく、具体的な提案の形で多く示されているので参考になる。例えば「大変な仕事は小分けにして取り組む」。小事を完結させて、結果を目指す。


 「言葉」「人間関係」という大ジャンルから「感情の浮き沈み」「固定観念」「思い煩い」といった精神衛生に関わる点まで範囲は広い。それらを総括しているような印象的な一節が、ベルギーのある枢機卿の言葉だ。「なすこととなせるがままにすること、また努力することと気楽にすることの正しい配分法を見つける



2018読了70
 『怒らないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ  サンガ新書)


 世の中に対してもっと怒りの声を上げて!といった言い方がある。そうした政治経済的な見方とは異なるが、個人レベルの「怒り」の感情が、自分や周囲に大きな影響を与えることは否定できないだろう。この「初期仏教法話」の結論はこうだ。「殺されそうになっても、私は殺す側に対して怒りを持たない」である。


 とても凡人の境地と思えないが、だからと言って怒りを思うまま発することはプラスとならない。怒りが、喜びや愛を損なう感情だと誰しも知っているから。そうならないために「怒りを治めるための智慧」として「笑い」が推奨される。「笑って幸福になる」こそ「正しい笑い」。笑いを目的とせず、いますぐ笑うことだ。

大暑に並び、笑い、急いで帰る

2018年07月25日 | 雑記帳
 日曜夜、素麺塾から宿に近い君津駅前までさくら社の横山社長に送っていただく。ふと足の異状に気づく。長く座っていて痺れただけと思ったが、なかなか痺れが取れない。もしかしたら…と変な想像が働く。長時間の高温もあるかととたんに不安になる。明日はどうするか、ホテルのベッドで様々な場合を想定した。


 翌朝、痛みはあるが痺れはかなり取れ、脳の異常(笑)もないようなので、予定通り、上野鈴本演芸場で寄席を観ることに決めた。のんびりと総武線で東京へ、乗換えて御徒町駅。開場1時間前だが既に多数が並んでいる。平日の昼席でこれだけ入るのは、やはり人気噺家が主任だからか。昼食を調達してから列へ加わる。



 演芸場では暑さに配慮し30分早く切符を発売、開場した。3列目のいい場所が取れる。隣には制服姿の若者たち。どうやら高校生のゼミ?らしく、引率教師らしい方が「原稿用紙1枚の感想か、または別の表現で用紙1枚仕上げる、漫画でもいい」などと低い声で確認している。時代はこんな感じで動いていると思う。


 柳家喬太郎が主任で、柳家一門が多い番組となった。落語はそれなりだと普通の感想を抱く。つまり名の通っているベテラン文楽、一朝などは味わいがあるし、権太楼、白酒という一流どころは聞かせ所を心得ている。それ以外は仮に真打であってもそれなりの表現しか出来ない。毎日のように実力が晒される世界だ。


 去年、横手の落語会へ来たマジシャン伊藤夢葉が、また鞭を持って登場した。あの折とネタは酷似していたが大いに笑える。いわば「見せずにかわす手品」とでも言おうか。その場の空気感を支配する話術を堪能した。主任喬太郎の演目は、相撲と絡めた古典「花筏」だ。古典嫌いと言いつつ十分に喬太郎流が冴える。


 4時半過ぎて終了後、痛い足を引きずりつつ急いで駅へ向かう。炎天下の熱風が凄い。これが39℃か!空港まではぎりぎりなので一心不乱に電車を乗り継ぐ。なんとか定刻前に保安場を通過できた。機内でほっと一息、少し経つと「18時半現在、秋田空港は24℃」というアナウンスが聞こえる。わが故郷は気温も平穏だ。

酷暑に「家宝」を手にする

2018年07月24日 | 雑記帳
 三年ぶりに野口芳宏先生のご自宅で行われる素麺塾に参加した。以前も同じ時期に何度か伺ったが、これほど暑い夏はもちろん初めて。朝一番の飛行機のなかで「到着地の羽田空港は朝7時半現在30℃」というアナウンスを聞き、身が引き締まった(笑)。この暑さに負けないほどの熱を持ってと言いたいところだが…。


 10時半前に到着。ご自宅裏山の涼暉荘にある温度計は既に36℃を超えていた。しかし、団扇片手に実践発表を聞いていると、ふと熱さを忘れる瞬間もある。まさに「心頭滅却すれば…」か。山中伸之先生が資料をもとに「AIと教育」について情報提供なさった。実に興味深かった。間違いなく今後の大きな課題だ。




 流し素麺の昼食を挟み、午後からは参加者全員による俳句会が行われる。三年前の会では全体の互選2位という名誉をいただいている。詳しくは→『「夏一つ」の場に感謝!』で。しかし、実を言えば悔しいという気持ちもあったのだ。かと言って意図的に句づくりに努めてきたわけでもないし、「ほど」も分かっている。


 無理矢理ひねり出した二つの句は、「風止みていつ鳴き飽くか蝉しぐれ」と「歌声や山の端越えて夏の海」である。前句はまさにその場の状況であり、似た風景を取り上げた作品は多かった。後句は、前ぶれなく歌い出した西野さんの歌声と臨む景色を絡ませ涼しさを求める心だ。まずまずかなと自評はしたのだが…。


 印刷された諸氏の句を読み進めると、いやあ、これは良いと唸る句が散見される。ところが参加者の選発表が進み、その結果当然とはいえ野口先生の点数が一番高く、次の高得点者が今回の1位ということになり、なんとその名誉がこの私に!。賞品は、先生ご自作直筆の句の短冊。「家宝」を手にした熱い夏となった。

「ほど」が機能を維持する

2018年07月23日 | 読書
Volume114
 「人間の便利さと道具としての使いやすさの”ほど”が良かったんだと思います。いまは大事なところまで機械に手助けされて、人間の機能が失われている気がする。」


 通販雑誌の対談で、落語家の春風亭昇太が昭和期の家電について語ったことば。

 内容も確かに頷いたが、「ほど」という語が目に残った。
 この頃、その語自体があまり使われなくなった。

 言うまでもなく、「ほど」とは「」であり、「程度」を示す。
 広辞苑によると、示される度合は「時間」「空間」「物事の程度・数量」に大きく区分されている。

 慣用句として「程がある」「程が好い」があるように、その一字を持って適切さや洗練、粋といった印象につながるようである。

 「ほどほど」という畳語は、多くの場合「行き過ぎない、適度」というニュアンスをうまく伝える言葉だ。


 さて、どうしてあまり使われなくなったか。勝手に書き散らすと…

 つまりは「『ほど』が共有できなくなってきた」ということではないか。

 多くの人にとって「適切」な度合いが違うようになってきた。
 また、そんなふうに社会、消費社会が作りあげられてきたのではないか。

 それは、一つにはもっと便利にもっと贅沢にという物質欲望の拡大の中で、そしてもう一つは背中合わせのように進む個別化、個性化賛美の中で。

 「ほど」が拡散してしまい、見えなくなってしまった。

 しかし、この「ほど」はまた、取り戻せるものではないかと思う。
 自分の身体や心をよく見つめ、また実際に動くなり、イメージするなりを繰り返してみて、どうすれば心地よく落ち着くのかを探ることは出来るはずである。
 その作業過程のなかで、自分が毒されている事物、感情などに気づけるのではないかとも思う。


 自分の「ほど」を知り生活するということは、先の昇太の言葉に照らし合わせれば、自分の「機能」を最大限に発揮できる状態を維持するとも言い換えられる。

夏の極私的駄目出し

2018年07月22日 | 雑記帳
 暑さのせいではないが、ちょっとイラっとする。まずは大相撲。今場所の異状さはファンなら誰しも感ずるだろう。が、休場力士の多さはここ数年の状況をみると、たまたまだとも言えまい。専門的な見地からの指摘も数多いはずだ。大相撲も興行であるなら、力士は役者と同じ面を抱えている。それが揃わないのだ。


 運動競技として捉えれば、トップアスリートたちがこれほど故障する状況はあり得るのか。どう考えても準備、調整段階に問題がある。巡業には確かに大きな意味があるが、その見世物的な部分が影響を及ぼしているはずだ。力と技がぶつかり合う真剣な場を維持する、新しい努力の仕方が提起されなければならない。


 ネット等での評判はまったく知らないが、個人的にはNHK連ドラ「半分、青い。」が実につまらなく感じる。まあ、それでも見てしまうのが年寄の日常なのだが…。ストーリーの希薄さが目立つし、変な小ネタを連発して見せるし、たどった道の紆余曲折の割に、主人公の言動に入れ込めないのは私だけなのだろうか。


 多彩な役者陣を揃えていても、脚本や演出がまずいとこうなる。わっ、言ってしまった!著名な脚本家はどこかに「今までにないものを…」と書いていたような気がする。その意味も測りかねるが、例えばナレーションを重ねて場面を説明する箇所など、どこか視聴者に媚びているような感覚を受ける。混迷の印象だ。


 熱中症による痛ましい死亡事故があり、また学校現場に目が注がれている。それ自体は当然であり、環境改善、指導改善が進むことを期待している。ただ、事故を引き起こした「指導姿勢」「不注意」に目を向けるとき、単眼的にねらいが定められてはいけない。複雑に絡み合って成立する教育現場の見定めが肝心だ。