すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

レッスンを重ねていくこと

2017年12月31日 | 読書

(今年の美酒メモリー④ 発売日当日の昨夜賞味しました。「菊」でした)

 レッスン(lesson)はなじみ深い英語で、誰しも「練習」や「学課」を表すと知っている。英和辞典をみると、加えて「教訓」や「日課」という意味も載っている。さらに原義が「読むこと→学ぶべきこと」と知ると、一層味わい深い。「書く素振り」と称して駄文を重ね続けているが、これもレッスンと言えるだろうか。


2017読了131
 『言葉のレッスン』(柳 美里  朝日新聞社)


 20年も前の古いエッセイ集で、週刊誌連載を集約したものだ。ちょうど芥川賞を受賞し、記念サイン会が脅迫によって中止騒ぎを起こした年だ。好みの作家ではないが書名に惹かれて手にとった。周辺雑記ではあるにしろ「私の外へ、外へと視線が移動したエッセイ」と自ら書いているように、作家の輪郭が見てとれた。


 正直興味を惹く文章は少なかった。しかしいくつか「掌編小説」の味わいを持つエッセイがあった。酒場、電車、温泉宿、サイン会…場は様々であるけれど、観察力と言葉のきりとりはさすがだ。また「寺山修司さんの幸福論」と題した章は、アランの幸福論批判をした寺山の論に寄り添い、見事に世相を斬っている。

 部分的に引用する。それから20年が過ぎた現在も認識はそう変わらないだろう。

 最早この時代から「わるい天気」を根元的になくすことはできない。核廃絶にしろ沖縄の基地問題にしろだれも解決策など持っていない。そこで私たちは「神々は細部に宿る」ことを信じて、日常的な世界で幸福を見出そうと躍起になっている。


 何のデータか明らかにされていないが、当時「日本人の七割は現状に満足している」と記されている。現在、その評価は下がっていると予想できるが、私たちが「小幸福」を求めて続けていることに違いない。ただ肝心なのは、もう「天気」はどうでもいいやと思わないことだ。人々の吐く息も明日の空気を作っている。

 ☆

 昨年2016年は様々な意味で節目の年。その1年を乗り切り、今年年頭に「見」を書初めの字にした。意図は「よく見る・よく考える」とブログにも挙げた。どうだったかな。ただ、実に多様な物事を見ることはできた。勤めていた頃には叶わなかったことが多いと、今振り返ってそう思う。「小幸福」に満ちた年だった。

 今年もたくさんの皆様に当ブログを訪問していただきました。
 ありがとうございました。よいお年をお迎えください。

歳末三景雑感

2017年12月30日 | 雑記帳

(今年の美酒メモリー③)

 歳末は断捨離の機会。今回まず手をつけたのはクレジットカード、最近カードを紛失し慌てたこともあるので、使用頻度の低い2枚は脱会することにした。面倒な電話手続きも終了。
 次はスマホの電池減が速いのでアプリの整理に取り掛かることにした。これは必要なし、これも…と削除or無効にして一息ついた頃、Gメールを使いたいと開いたらアリャリャ!「Google管理者~~~」という表示が出て使えない羽目になった。
 そして丸一日、その復旧にあちこち調べたり試してみたり…ああ、おかげで詳しくなったとしか言いようがない。


 先週某夜、身内だけの忘年会。ある居酒屋で会計時に説明を求めることが起きた。こちらに非がない点は認識していたので、弁明がなければ問い合わせをすると言い帰宅した。
 翌朝、メールで謝罪要求ではなく改善提案の旨を本社に連絡した。その後、店の責任者から電話があり(断ったが)自宅訪問あり、相手側は雪の降る中を慌ただしく動くことになった。
 弁償も受け取らなかったし、こちらとしては正義の味方気分に浸ったが、管理者の即時対応がいかに大事かという、過ぎし日の自分に課せられた鉄則を思い出すことにもなった。


 隔月刊の北東北マガジン「ra kra(ラ・クラ)」は創刊号から読み続けている。1,2月号の特集名が「呑みたいジモ酒」。中味に文句はないが「ジモ酒」とは…。
 「ジモサケ」「ジモザケ」それとも「ジモシュ」?とにかく「地元の酒」と言い切っている。どうして「地酒」でないのか。さらに何故「ジモ」とカタカナなのか。あれっと思うから見出しとしては有効か。
 読み進めるとなるほどなるほど。「酒」は日本酒だけでなく、ビールもワインなども、ということ。それを括る造語なわけだ。でも誰も「ジモ酒、飲みに行こう」と使わないだろうな。


ことばをほったらかしにして

2017年12月29日 | 読書

(今年の美酒メモリー②)

 「ことば」についてあれこれ考えることは楽しいので、こんなふうに書き続けている。ただ、それに飽きないのは日常の暮らしに、ことば以外の要素があればこそである。新約聖書冒頭「はじめに言葉ありき」(大きく出たな)は絶対なのかもしれないけれど、支配されたくない気もする。達人さえも、こう言っている。

Volume92
 「ことば」によって、理解し、表現し、伝え、交わる。
 このことに、重きをおきすぎているんじゃないか。
 「ことば」を使う仕事をし、「ことば」で遊びながら、
 ぼくは、ずっと思ってきたような気がしています。
 「ことば」でないものを、もっと感じたいです。


 先々週だったか、『ほぼ日』の「今日のダーリン」に糸井重里が書いた文章。
 たぶん、これぐらいの境地を持つ人なら(それってどれぐらいと言われれば、富士山のようでもあるし、グラウンドに盛り土しただけかもしれない…それだけ自由度が高いってこともある)「ことばを大事にする」ということは、「『ことば』でないもの」をもっと大事にしているんではないか、と思う。

 それは、ことばをうまく操る以上に、ことばを表出させるための、ことば以外の部分を働かせている、そんな気がするからだ。
 ある意味、ごく当然のことかもしれないが、時々は意識的にその事象を取り上げて見つめてみることも大切だと思う。

 いずれにしても、糸井が感じたいものは、
 例えば、一流のアスリートやダンサーが、自らの身体で表現するときに、芯から湧き起ってくる流れのようなもの。例えば、身体的なハンディを負っている人が、唯一動く足の指や眼の動きに込める熱いマグマのようなもの……。
 そして、そこから離れたごく平凡な日常生活のなかにあっても、例えば嬰児の笑顔から発せられる、あっという間に空気を柔らかくしてしまうもの…。

 同じようなことを『ぼのぼの』の作者であるいがらしみきおが「できるだけ言葉から遠くに」と言っていた。

 離れすぎてもいけないけれど、「ことば」で操られる出来事、考え事などは、部屋の隅っこにでも丸めてほったらかしにしておく時があってもいい。

ショーの正体は…

2017年12月28日 | 雑記帳

(今年の美酒メモリー①)

 愛想しながら「ンダガラナ、ショ」と稚児相手に言葉を発したら、周りに「その言葉、久々に聞いた」と笑われてしまった。「ショ」の方である。そういえば、自分でもこの頃使った記憶がない。昔はずいぶんと口にし、耳にしたが…。どちらかというと男言葉か。『秋田のことば』で確かめようとしたが、載っていない。


 誰かに呼びかけたり、何か確認したりするときに使うことばであるはずだ。手元にある他の資料にないか、探してみた。『東由利の方言』(H2・東由利町教育研究所)には「しょ」の見出しがあった。説明は「衆。他人を呼ぶとき使う」とあり、例として『仙北ショ』と載っている。これはこの辺りでは「シュ」だろう。


 『秋田ことば』(北条忠雄・さきがけブック)には「ショー」と見出しがあった。こんな解説である。「平鹿・雄勝方面の農村地帯には、主として青少年男子に用いられるらしいが、よびかけと第二人称を兼ね持ったような独特のショーということばがある」さらに「親愛の気持ちのこもった第二人称」という記述もある。


 そうだ!「親愛」を込めて使うものだ。「エグ来たナ、ショー」「ショ、早グ行ゴデァ」のような感じだったなあ。平鹿・雄勝の西部の分布らしいからぴったりだ。ふと、幼い頃に親戚の同年代の子が使った「」。を思い出す。これも似ている。「ヤヤ」が「貴方はどうする、どう思う」を意味したのは少し衝撃だった。

桃太郎は永遠に

2017年12月27日 | 教育ノート

(すでに冬晴れが恋しい)

 配信されたネットニュースの見出しに目を引かれた。

 「ボクのおとうさんは桃太郎に… 衝撃コピー、授業題材に」
https://www.asahi.com/articles/ASKDD5H2MKDDPPZB01H.html?ref=lettermail_1225_arti_news


 やはり「桃太郎」は面白い。

 自分でも何度か書いている気がしたので、検索してみたらこんなタイトルだった。

 「桃太郎と私」
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/ed8f5c9a103d7afdbb5d085cc0af9d31

 「続・桃太郎と私」
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/fd13c526c896221ee2fa4286f72821f1


 そういえば、この秋にかつての同僚にいい劇脚本がないか尋ねられて、自分が書くなら桃太郎だろうなと話をしたことがあった。
 結局、諸事情により実現しなかったが、思いついたテーマ「働くこと」でなくとも、様々な切り口があることに気づかされる。

 そう考えると今さらながら、昔話、有名な童話、逸話などは「心」を考える絶好の素材に思えてくる。もっと読まれていい。

コーチの意味を貫く人

2017年12月26日 | 読書
 バッグのブランド名である「COACH」と、スポーツ競技のコーチは同じ語源から来ているようだ。ハンガリーで作られた四輪馬車は大変駆動に優れたものらしく、作られた町の名が広まったということか。「大切な人をその人が望むところまで送り届ける」という意味が、競技等の指導者に使われたことに思いを馳せる。



2017読了130
 『挑む力 桑田真澄の生き方』(桑田真澄 集英社文庫)


 これは多くのスポーツ指導者に読んでほしい一冊だ。書名は「〇〇力」流行?でつけたのだろうが、個人的に優れているのは吸収力や対応力だと思う。筆者の小・中・高時代はある意味「苦難」の時代。当時の体罰やいじめに対して、どう気持ちを向かわせたか。類まれな精神力もあるが、「問う力」で乗り切っている。


 筆者自身の幼い頃から大リーグを引退するまで、関わってきたたくさんの指導者とその指導法について非常に冷静な目で観察している。そのうえで「野球の用具と戦術は、進化しています。でも指導法は進化のスピードが遅れている」と明言している。この理由の一つに「誤解された野球道」の継承ということがあった。


 大学院で研究対象とした、飛田穂洲氏の野球哲学をもとに、戦前の指導者たちが目指した理念が、戦争によって捻じ曲げられた経緯を明らかにしている。そこで抜け落ちてしまった合理性や科学的な考え方を浸透させることが、筆者の願いでもあろう。典型として記してあるバッティング理論は、すっきり納得できた。


 素人ながら「ダウンスイング」打法優先に、私も疑問を抱いてきたので共感できた。さて、野球選手として「桑田」の評価、好き嫌いは個人差が大きいだろう。しかし体格的に恵まれない身体で信念を貫き、数々の壁に挑んだことは賞賛に値する。ただ秋田県人として、甲子園準決勝の本塁打だけは忘れていないが…(笑)。詳しくは↓
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/467954461f00f17e142afd5f7d54bca4


気になるみある、はあ?

2017年12月25日 | 読書


 自分では口にしていないように思うが、いや正確には意味がつかめていなかったり、恥ずかしかったりして使えないのだが、雑誌やネットで見かけて、どうにも引っかかっていることばがある。これも一つのキニナルキとして載せておこう。

Volume91

 【み】
 穂村弘の連載に載っていた。「アントニオ猪木ある」などと使うそうである。「面白み」や「ありがたみ」の「み」に該当するようだ。検索したら昨年あたりから「雰囲気、気分」を表すとして使われ始めたようである。例えば「ご飯食べたみがある」「眠たみ」など。「さ」の類似とも考えられるが、どうなのかな。私にすれば、かなり「不思議み」や「不安定み」「流行らせようとしたみ」のある語だ。


 【オワコン】
 これは結構前から目にしていたが、近ごろ妙に発展的な使い方が出てきたように思う。「終わったコンテンツ」の略語で、流行らなくなった作品、商品、サービス等を表す語と思っていたら、例えば「日本のお笑いはオワコン」とか「夫婦という形態はオワコン」などという発言、文章を見かけるようになっている。コンテンツとは、形式に対する中身、内容のことだが、もはや形式や組織等まで拡がったか。


 【負ける気がしない】
 ごく普通と感じるが、辞書編集者の飯間浩明さんの文章で「なるほど」と思った。これは「気がしない」のに、予想になっているわけだ。今までであれば「食べた気がしない(自覚)」「読む気がしない(意志)」だったが、いつ頃からかマンガやドラマで使われ始めたのだそうだ。では、この意味をどう言うべきかを飯間さんは書いている。「負けそうにない気がする」、これで予想+自覚を表すことになる。「勝てる気がする」は予想に使えるが、「気がしない」はちょっと慎重に。

きっと駆け寄ってしまう歳末も

2017年12月24日 | 雑記帳
 あの太いざらついた低音の声で、我が主治医にたしなめられた。

 「お正月も近いから飲み過ぎないようにね」

 ドッグから半年経ったので、血液検査をしてコレステロール値や肝機能のデータを測り、教えてもらった。

 私としては予想通りの値なので「高値安定ですね」と軽口を叩いたら、呆れたように先ほどのお言葉が…。


 最近の宅飯フォトを眺めてみたら、んっなんだか肉が多い。


 これは「肉巻き豆腐」。
 軽く味噌に付け込んだ豆腐を肉で巻いたもの。美味しかった。



 本当に久しぶりに食べた豚丼。
 黄身を落として、ややツユダクっぽく…これはもっとも叱られそうな。


 これも久しぶりの焼うどん。
 冷凍うどんを使った、やや固めバージョン。シンプルさがいい。昼なのでビールは飲まなかったけど、合うだろうな。


 危ない食生活だな、要改善と思いつつ、

 駄目だ、駄目だと口では言いながら、

 きっと「口福」の所へ駆け寄ってしまうこの歳末も。

歳末乱読の章に突入

2017年12月23日 | 読書

(UGO 冬晴れ近景 そうだったか! 2017.12.21③)

 歳末という雰囲気が漂ってきたなかで、積読した本をそろそろ読まねばと、手当たり次第の乱読だ。片っ端から片づけて、締め括りにはぐっとくる一冊を読みたいなあ。


2017読了127
 『ボトルネック』(米澤穂信 新潮文庫)


 ボトルネックと言えばなんといってもギター奏法。下手だった自分には憧れだったなあ、と書名とは関係ない思い出が浮かぶ。さてここでの意味はいわゆる、障害や隘路ということ。パラレルワールドを取り上げた構成なのだが、正直少し入り込みづらかった。たぶん主人公の「痛み」が感じ取れなかったのだと思う。ただ、舞台の一つに今年訪れた金沢市があり、風景でも親近感はわくものだと改めて感じた。心に描く造形を記憶に頼っているので、だらしない読み方だ。


2017読了128
 『この世で一番の奇跡』(オグ・マンディーノ  PHP文庫)


 自己啓発、成功哲学といった類の本と言っていい。久しぶりに読んだ気がする。設定は、短い外国映画を観ている感じで心地よかった。この手の物語では、いかに聖書や文学等に通じているかが面白く読めるポイントになるかもしれない。しかし、信仰心も薄い自分であってもそれなりに理解できた気になっているのは、最近感じる「大切なもののありか」に共通性を見出しているからだ。街角から廃品や不用品等を漁るラグピッカーという仕事の象徴性をみる思いがした。


2017読了129
 『にょにょっ記』(穂村弘  文春文庫)


 大好きな「ほむほむ」のエッセイ。前作を読んだのはもう9年前だ。その時のメモによると、内容は「言葉の観察」「ヒトの観察」「自分の観察」に類別されている。基本的にそこは変わらない。観察は一種妄想モード。そこに惹かれてつい買ってしまう。もちろん何の役にも立たない。その役立たなさこそ創造の源ではないか。例えば「苺大福を食べながら、苺大福を知らないひとごっこをする」。これは単なる落書きではない。そのために必要な事を君はいくつ数えられるか。

冬至に杜氏か蕩児か

2017年12月22日 | 雑記帳

(UGO 冬晴れ近景 あれか? 2017.12.21②)

 若い方々と杯を交わした時(年配者っぽい言い方だ)「秋田の酒は美味いといつも誉められる」という話題が出た。嬉しい印象である。そんなこともあり最近かなり安価な純米酒を、普段飲み用にと買ってみた…が、正直美味くはなかった。酒造りのレベルは上がっている。しかしやはりメーカー、銘柄にまだ差がある。


 同期生たちとの忘年会。宴会定番A社のSビールを嫌って、別の銘柄を持ってこさせる私は「まだあ、何だっていいべ」と周囲から面倒な奴と思われる。「老い先短いこの人生、不味いと思うビールは飲まなくてもいい」と宣言すると、頷く者も居つつ、たいていは苦笑い。そう、本当はどんな銘柄も飲めれば一番いい。


 発泡酒、第三系の好みは、発売された頃から「麦とホップ」である。様々なラインナップ、限定も含めて全て飲んでいる。先々月だったが「ハーフ&ハーフ」ケース仕様が売られていたのには、少しびっくり。グラスはいらないので買わないが、自宅でやり始めてもう7年ぐらい経つなあ。これは安価でも十分に旨い。


 先日来客時にワイン好きな方がいて、冷蔵庫に寝かせていた95年産赤を取り出した。たしか十数年前に近所の酒屋から頂いたフランスワイン。当然冷えていたが、時間を置くとさすがに香り立つ。ワインの知識は全くない。ただ、長い眠りから目覚めたときに、作った者、味わう者の歴史が重なると想像すると嬉しい。