すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

あと2日、露払い的感想

2016年11月26日 | 雑記帳
 混戦の九州場所。今日の取組を含めてあと2日あるが、最終的な総括はプロが語るだろうし、素人として露払い程度の感想を書いてみたい。先場所はあれだけ騒がれた稀勢の里の綱取りが早々に消えてしまい、思ってもみなかったカド番大関の全勝優勝。今場所も豪栄道の綱とり場所という同じ趣のスタートとなった。


 結局、豪栄道の綱とりはなくなり、稀勢の里の少しの復活?が見せ場をつくることとなった。最終的に1,2敗に残る2横綱がこの後どうなるか、先は読めない。どちらが勝ち抜くにしても力が拮抗していることは確かだ。王者白鵬は棚上げしても、番付が上の者が、番付通りの勝敗を残すことが最も大事だと改めて思う。



 初日は最初からテレビ観戦し、幕内入りをはたした石浦の相撲を見て、ちょっとときめいた(笑)。敗れてもその姿が印象的で、家人に「ちょっと凄いから見て」と教えたことを覚えている。案の定、そこから10連勝という活躍。終盤かなり警戒されて敗れたが、久しぶりに「小兵らしい」相撲に心躍る。楽しみだ。


 九州場所の特徴なのだろうか。ずいぶんと応援の声がうるさい。声援が大きいことは励みになるだろうし、盛り上がりには必要だ。しかし、それが立ち合い時もお構いなしに聞こえるのは、品がない。九州出身の力士たちに最初は声が集中した。しかし徐々に勝ち抜く者に固まっているよう…。正直だが薄情にも思える。


 熊本出身の正代が活躍を見せた。前半に九州出身力士紹介のコーナーがあり、家族や小さい頃の様子など放送されたが、思わずびっくりすることがあった。正代という四股名が名字であることは知っていたが、お祖母さんの名前がなんと「正代正代」。これからは「しょうだい」と呼ばずに「まさよ」と呼んでいいのか。

乱読する晩秋

2016年11月25日 | 読書
『使える!「徒然草」』(齋藤 孝 PHP新書)

 齋藤孝と言えば「上達論」。この新書もそれが半分以上だろう。著者がたくさんの書籍で挙げてきたことを「徒然草」の記述で確かめているというとらえ方もできる。ただ「徒然草」は、もう一つ上の人生観を深める古典でもあり、兼好の「心のエネルギー」という視点にも結びつく。これもまた、齋藤らしい切り口だ。


『教師をやめて、ちんどん屋になった!』(カチューシャ安田  無明舎出版)

 著者とは直接の面識はないが、昔、民教研の集会に参加した頃に何度か一緒になった記憶がある。音楽教師は私には憧れの対象である。それはある面で自由度の高い印象からくるのだが、この自伝的な著を読むと音楽を愛するゆえの苦悩も感じられる。教師よりちんどん屋が「音楽を広めやすい」という結論もありか。



『養生の実技 ~つよいカラダでなく』(五木寛之 角川ONEテーマ21)

 小説家というより「伝道師」「教祖」といった表現が似合う著者だ。似たようなテーマの本も読んだ。この本では「医学も、法律も、教育も、人間を普遍的な同一の存在とみなすことから出発する」という一節が心に響く。「養生」とはあくまで個であり、それゆえ「自分を感じる」に徹することは重要で、かつ難しい。


『フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』(速水健朗  朝日新書)

 実に興味深く読んだ。この題名が意味するところは、「何を選び、何を食べるか」は政治選択であるということ。それも些細なことではない。著者が左翼、右翼を位置づけるために示した「食のマトリックス」の指標は、縦軸に「健康志向⇔ジャンク志向」横軸に「地域主義⇔グローバリズム」である。まず自分を定めよ。

立ち止まったままだが

2016年11月24日 | 読書
『吉野弘エッセイ集 詩の一歩手前で』(吉野弘 河出文庫)


 この詩人には思い入れがある。よく知れ渡っている「祝婚歌」もいいが、「奈々子に」という我が子へ宛てた形の作品は、かなり好きな詩の一つでもある。学生時代、少し現代詩をかじったが、その難解な言い回しに辟易していた自分にとって、吉野弘は憧れの一人だった。日常の言葉に真実が探れるような気がした。


 ある時、電車で一緒に乗り合わせた先輩教師と少し話した記憶がある。詩人として詩集も出していたそのT先生が「ほおぅっ、吉野弘ねえ」と上げた声を覚えている。まだ自分にも詩が書けると思っていた頃だ。「人は25歳までは誰しも詩人になれる」という誰かの言葉を信じ、訳のわからない字句を書きつけていた。



 だから、この文庫の原本である『遊動視点』(思潮社)も発刊当時に手に入れて読んだはずだ。改めてページをめくると、ずいぶんと時が流れたように感ずる部分が多い。ただ「言葉の身辺」という章にある日常語や漢字等についての記述には、かなり影響を受けていたことを今更ながらに発見する。例えばこの一節だ。

幸いの中の人知れぬ辛さ
そして時に
辛さも忘れている幸い
何が満たされて幸いになり
何が足らなくて辛いのか

 「幸」と「辛」。字形はわずかな違いだが、まるで意味が異なる二つの漢字には、人の生き方が照らし合わされて、経験や実感を呼び起こそうとする自分がいる。「詩」とは何か。今もって明晰には語れないが、やはり言葉や文字への興味は尽きていないと改めて感じる。まさに「詩の一歩手前で」立ち止まったままではあるが。

「風景」の中を生きる

2016年11月23日 | 読書
Volume28

  「人はみな、『風景』の中を生きている。それは、客観的な環境世界についての正確な視覚像ではなくて、進化を通して獲得された知覚と行為の連関をベースに、知識や想像力と言った『主体的にしかアクセスできない』要素を混入しながら立ち上がる実感である。何を知っているのか、どのように世界を理解しているか、あるいは何を想像しているかが、風景の現れ方を左右する。」


 第15回小林秀雄賞を受賞した森田真生の『数学する身体』の受賞作抄録にあった言葉である。
 「風景」という語のもつ本質を、これほどクリアに感じたことは今までなかった。



 例えば、絵葉書にあるような風景を目にしたとき、類似した経験の量によって感動は左右されるだろう。

 しかしまた、そこに関わる知識を身につけ、その場で知覚を全開すれば、必ず、そこにしかない線や色、光や風もとらえることが出来るようになる。

 そういう即時性、一回性に向かう精神を鍛えることによって、風景とは常に新鮮である。


 また、例えば今自分が、学校という風景(それは校舎そのものであったり、活動の様子や職員の働きであったりする)に接するとき、一年前と違って見えるのは当然である。

 それは当事者性を失ったことと同時に、現在の知覚と行為において、対象として「学校」をより客観性を持ってとらえているからとも言える。

 ただ、知識と想像力を絶えず行き来させておかないと、風景の現れ方はぼやけてしまうことも心したい。

いい夫婦の日と言うけれど

2016年11月22日 | 雑記帳
 11月22日の語呂合わせで作られたらしい「いい夫婦の日」。朝にテレビ番組から聞こえてきて、ふと先週のことを思い出した。地元紙に『えんぴつ四季』という投稿欄があって、その掲載された内容のことだ。読む習慣はなかったが、ラジオ番組で朗読コーナーがあり紹介された時に、とても心惹かれた文章だった。


 「夕方、職場に迎えに来た夫の車に乗り込むと『ああ、正直だなぁ』と夫が言った」と始まるそのエッセイは、季節に伴う自然の変化に目をつけ、会話する夫婦のひと時を淡々と語る内容である。強く心に残った一節は「もう、これからは成し遂げるべきこともなければ、追い掛けてくるものもない」という箇所だ。


 六十代後半の夫婦ともなれば、そんな心持ちなのか。自分たちもそんなに遠くないか…と感慨めく気持ちもわいたが、同時にまだそこまでは達観しきれていない面もあることを認めた。そしてこれは、単に年齢を重ねたからではなく、日常を丁寧に積み重ねて過ごしてきた一つの境地なのだなあと、はっきりと気づく。



 「暗くなった」「月がきれいだ」という、単に目の前の状況をそのままに語る言葉が二人をつなぐためには、「心の通い合い」といった一言では括れない、過ぎ去った時間と繰り返した風景があざなっている空間が必要である。その瞬間に流れている空気が包むのである。それを感じ取り紡ぎだした感覚に、一本取られた。


 結びの文章がまた素晴らしい。「私たちにある確かなことは、今、2人でこうして生きていて、過ぎて行く季節に心を動かされているということだ。」きっと、このご夫婦は「毎日がいい夫婦の日」だろう、などとオベンチャラは言うまい。夫婦とは、いい悪いと形容するのでなく、いい悪いをくぐり抜ける同士なのだから。

番組収録会場で考える

2016年11月21日 | 雑記帳
 昨日は、某ローカルTVの番組収録会場へ。「内容や結果については、大切な人以外はお知らせにならないように」というアナウンスが何回もあったので、触れません。ここでは久々に触れた収録現場で感じたことを少し…。その前に気になるのが「大切な人」という言い回し。これでなんとなく伝わるのが日本人なのか。



 前説として出てきた、たぶんADさん。会場の参加者、観客に向けて行う拍手練習。前年も、という話をしたから不慣れではないが、平凡だなと思う。緩急をつけてこそ一体感を醸し出せる。さらに本番で指示するADさんの位置が悪い。少なくとも会場全体から見渡せない。俯瞰しなくて作れるのかと疑問を感じる。


 局アナ以外の進行役は、毎年のお二人。ローカルタレントとしては盤石の位置を築いている方々だが、思うに本県はその後がいないなあ、とつくづく思う。バリトンさんのボケ味は実に貴重だ。しかしもう少し新鮮なキャラクターが出てもよくないか。ネット全盛であっても、まだまだテレビタレントの影響力は強い。


 冒頭でTV局のお偉いさん?が挨拶した。他県系列局の勤務を経て秋田にきたらしいが、話によるとCMづくり番組で全市町村の参加は、秋田だけらしい。この団結力を素晴らしいととるか、恐ろしいまでの右倣え主義ととらえるか微妙なところだろう。ただ言えるのは市町村による温度差は確かにありましたね、ハイッ。

勝手に生きろと言えない訳

2016年11月16日 | 読書
Volume27

 「親が子離れできないのは、大学まで、あるいは就職するまで、子どもにすごく投資しちゃうからですよ。子どもが自己実現の対象になっているから、子どもに勝手に生きろとは言えないんだよね、今の親は。」


 ゴリラ研究者として著名な京都大学総長山極寿一が、ある対談で語ったこと。

 「子どもへの投資」という言葉が出てきて、ずいぶん時が経った。
 「教育の経済合理性」などということをずいぶん考えていた十数年前、私も親相手に「子どもへの投資」などと知ったかぶりで喋ったことがある。



 しかし、今その時のことを振り返ると、やはり経済優先の時流に毒されていたと反省する。
 生身の子どもとどう向き合うかが問題なのであって、投資の対象とみるような傲慢なことは許されない。

 もちろん多くはそんなことを考えていないと思う。
 しかし、親の自己実現の対象になっている傾向は否めないだろう。

 それは、もしかしたら無関心な親に匹敵するほど、教育にとってキビシイ現実かもしれない。

言葉が掘り出す人間性

2016年11月14日 | 読書
『父からの手紙』(小杉健治  光文社文庫)

 初めて読む作家。400ページを超す長編ミステリである。失礼ながらなんとなく予想がつくような展開だった。二人の主たる視点人物の独白が冗長に感じられたのは、文体のせいか。人物のキャラがあまり統一されていない点も気になった。しかしそもそも人間とは複雑な生き物、当然かもしれないと読後にそう浮かぶ。



 使ったことのある言葉であり、読めるけれども自分が書くときは漢字ではないという言葉がいくつか出てきて、またそんなところを気にしてしまった。例えば「相伴」(しょうばん)、例えば「縒り」(より)、そして「縋る」(すがる)…そう挙げてみると、人との関係性を表していることに気づく。少し距離を感じる。


 「相伴しようか」などと使うのは、人が集まったときだな。「縒りをもどそうよ」なんて色気のある話は…昔からないか。「縋って追いかける」ことも同様だろう。小説の設定とはある意味で特殊状況なのだから、当然、そうした人間の持つ機微にふれることが表現される。そう考えると、言葉が掘り出す人間性は結構多い。


 題名の「父からの手紙」に詳しく触れられない。ただ、主人公へ毎年送られた手紙の背後には、夥しい数の読まれない手紙があったことが最後に描かれる。主人公はその父からの手紙の言葉に勇気づけられ、前に進む。人の心に届く言葉とは、言葉そのものではなく、込められた深さが必ずあることは確かに違いない。

地味にスゴイ!ドラマ

2016年11月12日 | 雑記帳
 視聴率はあまり良くないようだが、秋のドラマでは『地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子』を面白く観ている。先日、誰かも言っていたような記憶がある(酔っていたので定かでない)。石原さとみのファンではないのだが、あの『シン・ゴジラ』と打って変わって主人公役に実にマッチしている。脳と口の直結か。


 校閲のための、というより偏執的に興味ある事を語る調子がいい。2話だったか見終わって「ああこれは、」と気づいた。彼女のデビュー間もないときの主演作、NHKの朝ドラ『てるてる家族』の末娘役とかなり似ているのだ。思ったことを口にしたい性分、どこまでも前向きに実行していく、ある意味ではうるさい。


 うるさいことが魅力になるって凄いなあ、と感心しつつ、ビジュアルの関係なくそういう女優や芸人が結構いることに気づいた。まあもちろんうるさいばかりでなく、そこに濃淡を入れ、時に真逆な面を見せることも考えているからだろう。特徴を生かすとは計算なり、と改めて考える。反対の要素をどこで見せるか。



 このドラマの重要要素として「出版業界」を扱っていることが挙げられる。御多分に漏れず、漫画が原作になっているようだ。どうやら、出版を描くこともちょっとブームらしい。『重版出来』というTBSの夏ドラマもあった。これは再放送で見たが実に面白く、質も高かった。一般人として覗きたい世界なのだろう。


 『校閲ガール』も『重版出来』も、今まで知らなかったことが次々と出てくる。本や雑誌を我々が手にするまで、どんな段階があるか大まかには知っていても、なかに数知れぬドラマがあることを感じさせてくれる。そして、いずれにも見えるのが、個の持つ志や誇りと見栄や権力とのせめぎあい。よく描きだしている。

「トランプ」で遊ぼう

2016年11月09日 | 雑記帳
 トランプという言葉を一度でも辞書で調べたことがある人は知っているだろう。トランプのもともとの意味は「切り札」であることを。アメリカ国民が選んだ大統領がはたして切り札になるのか、その時どんな札をきってくるのか、まともに影響をうけるこの国の庶民としては、いささか心配だけれど…あっ言語編です。



 「トランプ」とは小さい辞書には載っていないが、英国では「てくてく歩くこと。徒歩旅行」の意味を指すらしい。また「切り札」に近い「最後の手段」という意味も持つ。その派生なのか「口語」と断って「頼もしい人」もある。もう一つ「トランペット」に通ずる「らっぱ」もある。さて大統領、どちらが近いか。


 カードのトランプはそもそも4種類13枚ずつの52枚だったらしく、ジョーカーは後から付け足されたようだ。切り札になるのは後からだったのか。歴史事典によると、起源は様々で世界的な統一は19世紀のようだ。日本へは江戸後期。なお国産トランプは1903年あの任天堂製が最初。任天堂もかの国で頑張っています。


 それにしても、和英辞典に挙げられている例は、冒頭の「トランプで勝つ」はまだしも「トランプで賭博をやる」「トランプで運を占う」「トランプを切る」「トランプの手品」といったものばかり。良き未来を想像できる人はいいが、何やら不安定な例文に緊張する。影響はあるだろうが、ゲームに惑わされないことかな。