すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

桜日記2022.4.28

2022年04月29日 | 
 火曜夜からの荒天で、ここらの桜はほぼ終わり。
 では…というわけではないが、2年2か月ぶりに県外へ足を踏み出す。

 有名な観光スポットは翌日からの混雑に備えているようだった。



お目当ては、この一本桜。うん、まあそれなりに…



 実は今回の一番はこれ…


 花は2,3,日過ぎたが、実はライトアップされた夜桜に見入った。
 おわかりでしょうが…なにしろ露天風呂ですよ。
 朝イチでカメラを持って風呂へ。

足を洗って踏み出す

2022年04月27日 | 読書
 早く目覚め、ベッドの中で開いた新聞に「新・地図のない旅」というタイトルで連載している記事を見つけた。この90歳を超え大作家が、四半世紀前に発刊したベストセラー『大河の一滴』を、今頃になって読む。それ以降の著書は何冊か目にしており、内容としては似通っているのだが、改めて考える点があった。




 この文章は「あとがき」に記された一節。この本で語られたように、発刊当時の90年代後半、もう既にこの国の凋落傾向が見え始め、今まさに行き詰まりの気配すら漂わせている。「あがきは、ひょっとして二十一世紀中つづくかもしれない」と著者が予見したことの真実味は、年々強くなる。では、どうすれば…。


 この著が書かれたきっかけは、敏腕編集者との会話にあったという。その折のエピソードが「古代中国の屈原の故事」である。通読して、やはり心に残ったのはその部分だ。世の中に絶望した義人屈原が、河のほとりで漁師と問答し、屈原の悩みを聞いた漁師は、こんな歌をうたいながら小舟で去っていくのである。

滄浪の水が清らかに澄んだときは
自分の冠のひもを洗えばよい
もし滄浪の水が濁ったときは
自分の足を洗えばよい


 「滄浪」とはその河の古称である。屈原の正直さ、ひたむきさは讃えられるべきだろう。しかしまた漁師の現実的な言葉にも、世を生きる真実がある。河は時に澄み、時に濁る。いや濁り続けているのかもしれない。それでも自分をよく見つめ、その時に出来ることを考え踏み出すしかない。荒れた草刈り場にあっても…。

皐月待つ見頃日記

2022年04月26日 | 雑記帳
4月22日(金)
 通常なら出勤しているが、シフトの関係で今日が休みである。家の事情で登園を控えている孫を連れて、太平山にある見晴らし荘を目指す。明日から開業するので道路は万全であった。桜も見事で「桜日記」としてアップする。高い場所にいくと「ヤッホー」とか「オーイ」とか叫びたくなるのは人間の本性か。誰一人いない山の中腹から一緒に大声を出してみた。自宅に帰ってから、明日は「子ども読書の日」というPRを、図書館ブログに記す


4月23日(土)
 年度初の「絵本とあそぼ」の会開催。絵本コーナーでこじんまりスタート。感染の経緯もあるが、なんとか今年は盛り上げていきたい。その後、ボランティアの方々と総会。話題はどうしても少子化とコロナ。「密」な関係を築きたい願いをどんなふうに実現していくか。帰宅するため車に乗ろうとすると、ルーフの黄砂跡が酷い。好天になったので4時過ぎから町内の桜を撮りにいく。「学校の桜」はやはり見事だ。夕方、知床の観光船の行方不明が報じられる。




4月24日(日)
 ちょうど一週間経ったし、天気もいいので、朝から小一時間春山へ。ねらいをつけていたタラの芽はすでに採られていたが、周辺を歩くと予想以上に見つかり、多く収穫できた。無理をしないよう心がけ、できるだけ長い期間通いたいと思う。スジノコも同様に多く採れ、帰宅後皮むきに取りかかった妻もずいぶんと時間をかけていた。印刷機の都合で自宅作業している図書館だより5月号の印刷を終える。夕餉には「里山の春」が並んだ。


4月25日(月)
 午前中孫二人を預かる。桜も見頃だし、アルカディア公園へ連れていく。新しく整備された遊具もあり、子ども達を遊ばせるには絶好のポイントだ。周囲を見渡すと、桜が農繁期を告げる樹木であると改めて感じられる。昼前、隣市に買い物へ。花見団子はお目当てのものがなかったが、桜団子を買い求める。午後から妻は3回目の予防接種。録画していた「Songs」を見る。森山良子・直太朗親子の会話が面白い。フォークソングという語の響きが妙に懐かしい。

桜日記2022.4.25

2022年04月25日 | 
 花曇りという感じの空。再びアルカディア公園へ。




 今が一番いい時期だろう。田畑の仕事が始まる頃だ。




 枝はどう伸びても花を咲かせる。ちょっと面白いショットを…。




 ここでの桜も今年は今日で見納めか。赤い列車でどこかへ向かって。


名もなき一滴が光を放つ

2022年04月24日 | 雑記帳
 対談本で語られた、この「人生作品」という語が頭に残った。何度か繰り返し使われている。正直あまり養老先生らしくないような感じを受けた。それは、「作品」というと、なんとなく観られているようなイメージがあるし、まとまった形と考えてしまうからだろう。語った意図は、それとは違うとわかるのだが…。




 そんな時引き出しの中に、以前視写した文章を見つけた。出典を記していなかったが、これは村上春樹だなとわかった。一去年の夏に、このブログに読書メモを残してある。その日に赤字で引用している後半の部分が、上の「人生作品」と何かつながるような気がしてきた。表現としては正反対のように見えたとしても。




 「名もなき一滴」としての「作品」。こう書いてみると、本当に自分が好きなもの、夢中になれることに素直に没頭してみたい気がする。綿々と続く歴史のなかで「命」を授かり、取り巻く自然、積み重ねられた文化のなかで、自分が選びとった物事に心身を打ち込めることが出来たら、きっとその一滴は光を放つ。

桜日記2022.4.23

2022年04月23日 | 
 天気が回復した夕刻、チャンスと思って1時間ほど廻った。
 かつて、勤務したことのあるN小、そしてM小。

 予想どおり、見事に咲かせていた。



 青空と白い雲とのコントラスト。微かに見える飛行機。




 人の居ないグラウンドを見下ろすように立つ。



 ここは兄妹のように寄り添う。


 

見誤ってはいけない道

2022年04月19日 | 雑記帳
 「プーチンって悪いよねえ。」と、4歳の孫までそんなことを口にする。ニュースや大人の会話から繰り返し耳に入った言葉だろうが、初めてそれを聞いた時何か違和感を覚えた。もちろん軍事進攻には激しく反対するが、一方の認識ばかり蔓延していいのかと不安もよぎる。そんな時に東大入学式祝辞のことを知った。

「なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?」

 映画監督河瀬直美のメッセージが、日本の将来を背負って立ってほしい若者に向かってどれだけ届いたのだろうか。当然ながら、異なる見解を抱く者もいるはずだが、その違いを真摯に受け止めて現実を見つめることの大切さは変わらない。目を凝らせば、じわりじわりと迫ってくる圧力が増していることはわかる。


 定期的に送られてくる『通販生活』は、物品購入より読み物が面白く取っている。とはいえ、大判なので隅から隅まで読む前に棚に置かれるのが常だ。時事エッセイ「こんなこと言っても、得することはないんですけども…」を作家中村文則が連載しているのに今回気づいた。第2回である。その題にぎくりとした。



 中村は「肌で感じたという、印象論に過ぎない」としながら、広い意味での政治と「マゾヒズム」(規則に縛られたい、委ねたい、考えたくない等)の関係性を指摘した。それが的を射ているとすれば、「お上」と米国の支配から脱け出せない、いや脱け出すことを嫌う国民性が辿る道は察しがつく。変革が迫られている。