すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

2割というのは,宿命なのだ

2013年12月31日 | 雑記帳
 今年の書初め一字は「備」だった。予定された出来事や対応の必要だったことに関しては,まずまず取り組んだように思う。しかし大きな見通しを持って「備える」ことができたかと言えば,充実感は今一歩だ。具体的な目標設定が甘いのかも知れないと思いつつ,マァイッカアといつもの腰砕けになってしまった。


 勤務校二年目,一歩前進を目指したが成果はどうだったろう。自分の取り組みとしては,ずっと休眠状態だった学校ホームページをリニューアルさせたし,広報・通信活動は校外,校内ともに及第点だったと思う。しかし,教育活動の充実や円滑さを求めた「環境調整」の総合点としては50点といったところか。


 地区内の所属団体では,なかなか中味の濃い研修ができた。教員の高齢化・固定化は進んでいるが,それをある意味強みととらえてじっくりと取り組めたと思う。花巻での「鍛える国語」「野口塾」では,2回ともちょっとした役目をいただき,いい勉強になった。やはり刺激は「場に立つ」ことによって沁みてくる。


 身内でいろいろと忙しいことがあった一年だ。喜ばしいこと,責任が生じたこと,悲しいこと…いずれも齢相応の出来事だ。いろいろと他人任せにしてきた現状を見つめ直す時期なんだろうと思う。今まであえて積極的に関わらなかったことについても,そろそろ恩返しいや恩送りのつもりで動き出そうと考えている。


 このブログは8月中旬よりノンストップ更新。相変わらずの軽薄さだが,それでも300超のアクセスを記録する日もあり申し訳ない気分だ。今年を機に閉鎖も考えたが,マイナーチェンジで継続を決めた。というのも,本家ホームページがアップデートでぐちゃぐちゃになり,押し入れ状態となってしまった事情がある。


 そもそも自分のスタートは「言葉」がテーマであった。途中から「読書記録」を中心としたが,ブログ統合で徐々に身辺雑記が増え,緩くなったことは否めない。ここは初心に帰って地道にページを作っていきたい。本年最後の読書は『人生2割がちょうどいい』(講談社)だったので,そんなペースで行きますか。


 たくさんの方にご来訪いただき,多謝深謝です。
 よいお年をお迎えください。

もっとたくさんの井上陽水から

2013年12月30日 | 雑記帳
 土曜夜にBSで放送された「井上陽水ドキュメント~氷の世界40年~」に見入ってしまった。日本初のミリオンセラーアルバムが発売された年に高校3年生というドンピシャリの世代,デビューアルバム「断絶」,そして一番好きな「センチメンタル」,そしてライブアルバムを挟んだこの4枚目は衝撃だった。


 タイトル曲「氷の世界」の出だしには,ちょっとくらくらきた記憶がある。ファンキーな(笑)イントロに続く歌詞が「窓の外ではリンゴ売り,声をからしてリンゴ売り」である。いったい何だと思った。しかしこの番組で中沢新一がこの詞の核を「人を傷つけたいな,誰か傷つけたいな」としたことに得心がいった。


 陽水を語る評論に「不条理」がよく登場する。番組中で本人自身も少し照れながら,それを口にした。やはりそれが一番ふさわしいのかもしれない。アルバムを買った130万人以上の人が,中高生なら中高生なりに,社会人は社会人なりに,たとえ言葉は知らなくとも「不条理」と向かい合った音楽なのかもしれない。


 オイルショックがあり高度成長終了という時期を背景にして,「終わりの始まり」を具現化してみせたのだ,と分析する人もいた。そしてそれは伊集院静が語ったように「もっとたくさんの井上陽水」が存在したことを物語る。バブルを挟みながらの波を繰り返しながら,明らかに冷えた時代へ向かう道を歩いてきた。



 その一人であった自分が,個人的に興味深かったのは「帰れない二人」の制作に関わること。セールスに関する話題も渋かったが,この曲は忌野清志郎との合作であり,どんなふうに二人に作ったか,ファンであるみうらじゅん,リリー・フランキー,そして山口隆が予想してみせたことがマニアっぽくて面白かった。


 「帰れない二人」は掛け値なしの名曲だと思う。素晴らしさは齢を重ねる度に響いてくる。存在のちっぽけさを,喘ぐように表現する美しく光るメロディと詞。この曲を作った翌年だと思うが,陽水と清志郎はツアーを組んで全国を回った。この片田舎にもやってきた。一番先に会場に並んだことを今でも覚えている。


 youtubeからどうぞ

 http://www.youtube.com/watch?v=0USYCP6VWv4

 http://www.youtube.com/watch?v=0XNcjYwEjrg

時間はいつもやって来るという思想

2013年12月29日 | 読書
 本を読み始めた日の夜に,変な夢を見た。

 子どもたちが外で何かやっているときに,自分が傍にかけつけて「はやく,はやく」と叫ぶ。そのとたんに,えっ俺なんでこんなこと言っているんだ,いやいやそんなつもりはないよ,と懸命に弁明し始める…
 「百万秒の冬休み」なんて,大きく見せたけど結局時間管理になってしまったことを,あれえっと思ったからか。

 さて,この本である。

 『「ゆっくり」でいいんだよ』(辻信一  ちくまプリマ―新書)

 スローライフの提唱者である著者が,入門書として記した新書である。
 現在のスピード化が結局のところ,経済優先の思想に基づいていることはよくわかる。
 その世の中にブレーキをかけることは困難なのかもしれないが,個人のコントロールや一時停止はできるはずだということを思い起こさせてくれる。

 しかし,では具体的に何を…というとき,きちんと目の前の暮らしに向き合っていないと,どんどんスピードを増していく周囲に手を引っ張られ,尻を押されてしまいかねない。
 そのうちに,自分でも足が止まらなくなってしまい,そのことに快感を得るようになったら御終いだなと…

 クマールさんというインド人活動家が紹介されていた。
 エピソードにあるその母親の言葉が素敵だ。

 「神様は時間を作る時,たっぷりとたくさん作ったのよ。…私にとって,時間は使い果たしてしまうものじゃなくて,いつもやって来るものなの。いつだって明日があり,来週があり,来月があり,来年があり,来世さえあるのよ。なぜ,急ぐのかしら」

 それでもなお時間の節約が他にいろいろなことができると反論する子に対して,お母さんは,自分たちが便利さを求めるために,苦しむ存在がいることを諭した。
 今,この国で自分たちが手にしている便利さは,結局のところ何かを壊したり,捨て去ったりした結果にある。必要以上にエスカレートしていく現実にあることを誰も否定できまい。

 原理主義的な環境優先を目指しているわけではない。目指せるわけもない。

 ただ,結局のところ,スピードや経済がもたらす幸福感の限界をもうみんな知ってしまっているではないか。
 このままじゃ,子どもたちに手渡されないなあ。

祈り続けられる資質

2013年12月28日 | 読書
 『人は何のために「祈る」のか』(村上和雄・棚次正和 祥伝社黄金文庫)

 書名からは「祈りの目的」と思えるが,内容の多くは「祈りには効果があるのか」「祈りは科学として実証可能なのか」ということである。二人の高名な学者がその命題について肯定的な姿勢で語る。自分が先日書き留めたことが少し深まった気がする。引用されているエピソードと相まって説得力のある文章が続く。


 祈りを単なる自己暗示と割り切り,ピグマリオン効果やプラシーボ効果といった括りで処理することもできるだろう。また波動などと聞くと,何かあやしげなスピリチュアルな面を連想するかもしれない。しかしそれらを踏まえてもなお,人々が太古の昔からずっと祈り続けてきた事実は揺るがない。それは何故か。


 祈りによって問題が全て解決してきたことはなかった。しかし祈り続けるには訳がある。「祈りにはふたとおりあった」。一つは自分の思いを叶えてほしい祈り,もう一つは心を安定させるための祈り。多くは宗教に吸収されているが,いずれ「サムシング・グレート」とのコミュニケーションであることには違いない。


 日本語の「いのり」の語源は「生宣り」とされている。「生」とは「生命」のことであり,「のり」の祝詞や詔と同じで宣言を意味しているという。いわば「生命の宣言」。様々な障害,難題がある日々の暮らしのなかにあって,それでもがんばって生きるぞという宣言なのである。それが遺伝子に働きかけるという。


 本書に記されている,いわば「奇跡」「珍事」と呼んでいい事象をどう解釈するか。それが全てだ。いかに遺伝子研究のエキスパートの言葉であっても,俄かに賛同できない人は多いはず。ただ,ふだん小さく祈られた身の周りの出来事を「最適解」として位置づけられる人なら,祈り続けられる資質はあるように思う。

恥骨の人の名著

2013年12月27日 | 読書
 古本ショップの105円コーナーでこの本を見つけた時、「ああ、ちょっと話題になったことがあったな」と思うぐらいの認識だった。

 『正しい保健体育』(みうらじゅん 理論社)

 数ページ読んで、ちょっとはまってしまう。
 下ネタだらけの内容ではあるが、結構「深い」。

 さすが多くの文化人?に「みうらじゅん先生」と崇められる著者である。

 表紙に記されている「よりみちパン!セ」というシリーズ名も目にしたことがあり、いくつか読んでいるなと思った。巻末に重松、養老…見覚えのある本名が並んでいた。

 ということは、主たる対象は中高生なのかもしれない。
 振り仮名も結構多いし…。
 ただ、男子を想定している書きぶりなので、やっぱりそれはそうだろうと自分の保守的な性教育観が思わず露呈してしまう。

 とにかく、これがみうらじゅんワールドばかりに妄想、ときに相対真理?的な断言に覆い尽くされた著ではある。
 発想の突き抜け感がいい。

 例えば「図1-1」として使われる写真は、釈迦像とキリストの絵である。そこにつけられたキャプションは「煩悩と戦う戦士」である。
 そして「図1-2」には、松崎しげるの写真が載せられ、こう付けられている。「本来は正しい人」。

 このセンスについていけない人は、本書はくだらない極みの本とも言えるだろう。

 何が「正しい」だ!「保健体育」という名づけは恥ずかしくないのか!こう宣ふだらう。

 しかし「そんなこと言われたって、騙されねーぞ」とみうらじゅん先生は言い放つと思う。
 例えばこんなふうに大人を定義できるのは、まさしく恥骨(いや、反骨)の人だ。

 妄想も幻覚もつまりは「夢」です。子供には妄想、老人には幻覚。
 すなわち、その間が「大人」と呼ばれる夢がない時期です。



 もしかしたら、「マイブーム(みうらじゅんの造語)」になるかもしれない。
 でも、公の場で読むのはちょっと躊躇われるかな。

百万秒の冬休み,始まる

2013年12月26日 | 教育ノート
 終業式の挨拶では、初めにいつもしているように、通知表にある「学校から」の欄に書かれてある文章を少しだけ紹介する。学級担任がその子のよさについて記述してある部分から取り上げる。教育目標に関わる姿の実現と言えば堅苦しいが、そういう言動が出来た期間であった事実を感じてほしいと願っている。


 次に「今日はクリスマスだけれど」と切り出して、サンタクロースの話をする。坪田耕三先生が紹介された宇宙物理学者の佐治先生の話をもとに組み立てた。イブの日にサンタが地球上の子どもたち全員にプレゼントを配るとすれば…24時間÷(推定)10億人として、一人あたりどのくらいの時間なのかと問いかける。


 計算上は0.0000864秒、一万分の一秒にも満たない。「だから、サンタクロースは見えるわけがないのだ」。その後はちょっと脚色して…しかし、サンタはいる。そしてプレゼントも、おもちゃやお金という見えるものだけでなく、見えないものをきっとみんなにプレゼントしている。みんなは何をもらったのかな。


 最後は「冬休みは何日あるか」と訊く。これはすぐに「19日」と返ってくる。時間の話にひっかけて「19日は何時間か」と続けていく。単純には456時間。起きている時間は300時間ぐらいとし、ではそれは「何秒か」と問いかける。300×60×60でなんと1080000秒。「百八万!」と驚きの声を出した子どももいた。


 区切りよく「百万秒の冬休み」とする…いい響きだ。正月があるので大人はついだらだらしがちだが、子どもはそれではいけない。「時間を無駄にせず、やりたいこと、やるべきことにしっかり取り組み、日記も書きましょう。みんなの百万秒を読むのが楽しみです」…自分を棚上げして、そんなふうに締めくくる。

 もう既に五万秒ほど過ぎましたが…

突きつけられる重い「覚悟」

2013年12月25日 | 読書
 『総合教育技術』誌1月号の、苅谷剛彦氏の連載は「道徳教育の教科化」がテーマである。

 「アングルを変えて視れば」と記されているように、いつも氏の複眼的な思考、分析の鋭さには敬服する。

 道徳教育の教科化について対立の構図は、苅谷氏の指摘の通り「国による関与・介入の是非」「効果をめぐる議論」そして、それらを包括する「内容をめぐる論点」となる。
 氏はそうした議論を、少子化とグローバル化の文脈に位置付けて語っている。

 多文化化が確実に進む中では、道徳教育の価値内容を巡った訴訟が起きたり、他国より単一文化を装う国と見られたりする危惧があるとし、こんなふうに結論づけている。

 そこをあえて教科として取り入れるということは、対外的にも、国がそれだけの覚悟を持つということなのだろう。

 この一言は噛みしめてみなければならない。

 一つには「国がそれだけの覚悟が持つ」とは具体的にどういうことを指すのか。
 我が国の伝統的な価値観を敬いはするが、その方向への回帰だけで対応できる問題ではない。
 多文化化に対応する、新しい道徳教育内容の吟味、編成に真剣に取り組むということか。

 また、国が覚悟をしたとしても、実際の場で背負う現場教員にその意が伝わるかどうかという問題は大きい。

 道徳をめぐる論争に詳しいわけではないが、少なくとも教員になった頃は、ひどく硬直した道徳授業がまかり通っていた。それが様々な提言や実践によって少しは多様化し、いくらかマシになったとは感じている。
 同時に、地方にあっても様々な価値観のじんわりとした広がりに子どもは強く影響されているし、授業そのものの変質を迫られている気もする。

 教科化が突きつける重い「覚悟」は、授業づくりを悩ましはしないか。また逆に形式化、形骸化への道をたどらせはしないか。

 もちろん、立場・思想の違いはあったとしても、道徳の必要性を疑う人はいないだろう。
 ただ、それを「道徳教育」として学校へ導入する時にどんな形であればいいのか、大多数の同意を得ることはひどく難しい。

 「不易流行」に一定の支持があったとしても、将来の日本人に対する「不易」とは何なのか。
 これに関しても議論百出ではないか。
 覚悟をもって進めていくには、おそらく価値をできるだけシンプルにきっちりと絞り込んでいくこと、それと同時に対応(価値運用の幅とでも言えばいいだろうか)を広げるという二面性は持たねばならない。
 きっと日本人の不得意な思考だ。

 こう考えていくと、まったく違う教科の創設だってあり得るのではないか。
 さらに言えば、「総合的な学習の時間」が設けられようとしたときに、「それはスーパー道徳だ」と語られた記憶もよみがえってくる。

 思い切って教科再編はどうでしょう…ああ、どうして唐突にこんな結論になるのか。

 この程度の者がワイワイ言ったりするので、苅谷さんに心配されるのか。

歳末に,祈る意味を

2013年12月24日 | 雑記帳
 大判の日めくり暦を職場で使っている。今朝もめくってみて、改めてあと8枚しかないのかあと思う。子どもにとっては楽しみなイブの日であるが、暦をみると「納めの地蔵」と記されている。このジャンルは全く疎くて、初めて聞いたような気がする。検索してみたら結構多くあることに驚く。こちらがわかりやすい。


 自分の家がそもそも仏教徒でないので、縁がないのかもしれないが、「地蔵」が何のためにあるのか深く考えたことはなかった。しかし、いたる所に置かれている地蔵様を思うと、ああここはやはり「祈りの国」であることに気づく。そういえば一昨日『人は何のために「祈る」のか』という文庫をかったばかりだ。


 まだページを開いていないが、本の内容とは別に、もし自分がそう問われたらどう答えるのか、思い浮かべてみた。まず私の場合、常道として「祈る」の意味調べから始める。電子辞書に入っている広辞苑と明鏡では、後者がすっきりしている。「①よいことが起こるようにと神や仏に願う ②他人の幸せを切に望む


 「祈願」や「祈祷」という面、また古くは「のろう」の意味も含まれるだろう。しかしここでは少し横に置いておく。辞書の解釈をもとにすれば「人は、自他の幸せのために祈る」とごく当然のことを答えていい気がする。ただ、この場合の「何のため」はそういう対象を超えた、その行為の意味づけのような気がする。


 仮に「祈る」行為を、決意表明と自己暗示のために神仏への信仰に類する形式によってなぞる、とでも意味づけする。自己の利益を得る行為であれば、大きく外れてはいないだろう。他者のためにとなれば少し複雑になるが、実はそれも自己満足の域を出るのは難しい…待て、こういう論理展開は後ろ向きだと気づく。


 邪まな考えなしに、人が祈る姿は美しい。それは神仏の前で個が一心になっている様子を見るからだ。そう考えると「祈る姿」の持つ心をどう維持していくかが問題である。頻度を高くし、継続していくこと以外にない。祈る行為は一心と結び付くし、一心が生み出す具体的な収穫や幸福感の醸成を疑う人はいまい。

失敗を身体に取り込む

2013年12月23日 | 雑記帳
 「自分はなぜその時に即座にそのことを言えなかったか」…そんなふうに後から思い起こすことがある。これは例えばその人との利害関係とか信頼関係という視点以前に,「そのこと」に対する鈍感さと言えばいいのか,真剣さが足りないと言えばいいのか,つまりは「そのこと」が身体化していないからだと気づく。


 今回,ほんのちょっとした出来事があり,言えなかったことを悔やみ,タイミングを逸すると難しいなあとか,相手のよくないあれこれを思い浮かべたりしているうちに,結局,非は自分にあると悟ったことは収穫だった。気の散りやすい性格であることを自覚し,まずは,おのれの胸に手を当ててみる大事さを想う。



  この連休中に見たドラマの一つが妙につまらなく思えた。そしたら見るのを止めればいいのだが,途中から悪い?癖が出て,どうしてこのドラマはつまらないんだろう,ゴールデンに放送されているし,設定もひどく現実的なことを取り上げているのになぜだ…そんなことを見ながら考え始める。心に迫らない理由は?



 まずはありきたりな展開だ,さらに出ている役者を生かした脚本になっていない,上手い演技を期待できる顔ぶれではないが,それでもあまりにも下手。バック音楽もパターン化している。何より現実の苦悩が見えてこない。訴えたいことはあるのに,それが身体化を伴っていない感じがする。人間が立ち上がらない。




 「失敗」という熟語は,「失う・敗れる」という類義の言葉の組み合わせだろう。スポーツ,商売はもちろんどんな出来事であっても優劣がきまったり,勝負がつけられたりすることはある。しかし,肝心なことは全てがそこで終わらないという点である。その時点における失敗を身体の中に取り込んで,次の選択をする。

などなど調べるなど

2013年12月22日 | 雑記帳

 通知表を点検した最初の学年で、文章のなかに「○○等」という記述があった。「等」と「など」の使い分けに関して自信をもって言えるほどの知識は持っていない。かつてある紀要の文章を校正した折に、名詞には「等」は使えるが、動詞には「等」は使われない、と宣言する方がいて、なんとなくそんな感じでいた。


 しかし、この機会にと考え調べてみる。こちらのサイト、それからこのサイト(ここはなかなか使えそうです)…結論として、「等」はあまり使わない方がいい、「など」が原則ということになるだろう。表記上、ひらがなが続いた場合には「等」でアクセントがつけられるかな、といったアバウトな結論となった。


 ところで、この「など」。よく自分も使う。言ってみれば「ぼかし言葉」の一種の気がする(ので、気弱な自分にお似合いだ)。正式にはどういう意味を持つのか、気になってきた。電子辞書にあるなかで、端的に分かりやすいと思ったのは「全訳古語辞典」である。古語の使われ方も現代語とまったく同じである。


 「など」には五つの意味がある。「①例示②引用③婉曲④強調⑤軽蔑・卑下」この中の④強調が少しわかりにくかったが、調べると⑤軽蔑に含まれるニュアンスを持っているということである。例えば「あなたなどには分からない」といった感じか。その部分からは、俗語としての「なぞ」「なんか」も浮かんでくる。


 「なぞ」はともかく、この頃「なんか」は使わないし、あまり聞くこともなくなったと感じるのは自分だけか。「おまえなんか~~」「何よ!あなたなんか!」こんな台詞は最近耳にしない。階層的な人間関係が崩れフラットになったことも一因だし、それ以上に熱い感情を交換する場が少なくなったということか。



 この「など」などを調べるとすると、辞典など必要になるが、現代だと電子辞書など一冊で事足りるなど、非常に便利になっている。それにしても、お前などじゃ、きちんと調べられるわけないなどと思っている方々は、たくさんいるだろうし、この辺りで幕などを引くなどの真似などをしなくては駄目だなどと…。