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すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

読書録19~黒いシミの豊かさよ

2025年04月28日 | 読書


 続けて「ベスト・エッセイ」2024年版を読む。こちらでも印象深いのは馴染み?の人が登場してくる話だ。くどうれいん「長野さんは陸を泳ぐ」は、絵本作家の長野ヒデ子さんとの交流が書かれてあり、22年に我が町にいらした時の様子が懐かしく思い出された。会話の声の調子が甦ってきて心が温かくなった。


 「ヒデ子さんは、その人生が絵本のような人なのだ」という筆者の比喩をどう受けとめるか。感情表出のストレートさを挙げていたが、私なら「何事も遊びにする達人」と言い換える。それは人との出会いや日常生活を丸ごと「お気に入り」にしてしまうパワーを持つからだ。親しく接したあの時間がまた思い出される。


 「言葉」について考えさせられる文章が多かった。三木卓「自分の言葉を」には、筆者が「詩」を書き始めた頃、「紙の上に書かれた文字が立ち上がる感じ」をもった日が生き生きと記されている。藤沢周「心の海辺で」には、二十歳の頃の自分が「混沌を、鈍重な筆致で描写する」までの「回り道」が描かれていた。


 そして何より、再びこの文言に出会い内省した。「言葉は究極のデジタルである」。永田和宏「AIと連歌を巻く」の中にあるこの一節は、正直失念していたが、以前筆者の新書を読んだ時に同箇所が刺さり、書き散らしていた。言葉の有限性については当然であり分かっているつもりになっていたが、半端なままだ。
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/bc6793e468e0b880f233abcb184cfd94


 直筆がアナログ、機器の活字がデジタル…というレベルではない。今、こうしてキーボードで打ち出す文字は、思考の中から抽出され、選択された記号に過ぎず、その連なりの表出で何かしら表現するが、分離された矮小な世界だ。とすれば、紙面上の黒いシミを豊かな世界と受けとめる感覚を磨くしかあるまいよ。